定年夫婦の暮らし方(店長日記)

盛岡に住む定年夫婦(昭和20年生)の暮らしを分ち合います。

115回ピースボート世界一周航海記その41(スエズ運河就航)

2024年03月26日 | 思い出の旅行

  2023年ピースボート航海記 その16 スエズ運河就航
11月9日(木) スエズ運河就航
        日の出 6:13   日の入 16:58
        晴れ、デッキは日向は刺すような暑さ、日陰は比較的涼しい

 7時、起床、よく寝むれた、夜中一度もトイレで起きなかった。熟睡するとトイレで起きないことを実証できた。
 7時30分、 朝食5階レストラン、同席した方とピースボートのこと、経営、外国人の多さ、乗客の多さ、若者のこと、など話で盛り上がる。
 9時、帰室、船は10時頃(予定の5時間遅れ)スエズ運河に入るとの放送がある。カミさんは診療所へ、私は記録作成など。
 10時、出航、日差しがキツイ中、デッキで出航風景を見る、右舷には昔(使われていない様子)の灯台、フェリー乗り場が見える。遠方には10階建て程度の高さの集合住宅が見える、かなりの棟数だ、ポートサイドは経済的に繁栄しているように見える。
 運河に数隻の船が停泊している、パシフィック・ワールド号とコンボイを組む船かもしれない。カミさん帰ってくる、よく効く薬(高価)を処方してもらったとのこと、13,000円だった。
 12時、昼食、ミニ五目寿司、そば、サラダ。同席の方から稲荷寿司が以前はパンパンにご飯が入っていたが今は本来の稲荷寿司のようにゆったり入っていて格段に美味しくなったとのこと、今度試したい。また、昨日のオプショナルツアーについての苦情、ピースボートの問題点など盛り上がった。ただ、最後はピースボートを応援したいと皆さん意見が一致していた。
 13時、帰室、スエズ運河就航を楽しむ、日本橋を撮影、使われていない様子が気になる。
 監視塔が頻繁に現れる、大きなもモノや小さなモノがある。撮影すると小さな箱のような監視塔の中に兵士がいる、立っていたり、座っていたり様々、食事やトイレはどうする?
 駐屯地のような塀に囲まれた建物が何箇所もあった、大勢の兵士の姿も見えた。数kmおきに駐屯地を、数百メートル毎に小さな監視塔を置いているように思えた。
 運河は砂の山に囲まれている、多分運河を掘った時の砂を両サイドに積んだのではないかと考えた。また、堀のような窪地があり、排水管が数本刺さっている、浚渫した泥を入れて水を運河に戻す装置のように思えた。帰ってから調べたい。乗客から工事中に10万人亡くなったと聞いた。掘削用の機械が不十分で人力に頼ったと思われる、難工事で危険だったことは想像できる。
 湖?か幅の広い場所に来たら大型船が数隻すれ違って横向きになって停船した、同様に3隻が横向きに停船した。その後、その横を貨物船が進んでいく、コンボイの順を調整しているのかもしれない。すれ違った船はコンテナ船、タンカー、天然ガスなどで客船はいなかった。
 船内放送で間も無くイスマエルが見えてくる、レセップスの墓もあるとのこと、デッキから見たが分からない、土手に大きな肖像画が3枚現れ、十字架がついた建物も見える、この付近は18年前に見た記憶がある。(その時は逆コースでここからスエズ運河に入ったと記憶している)
 水路が2つに分かれ左側は砂の土手が続く、4時30分の船内放送でグレートビター湖に入った、40分後にスモールビター湖にそしてスエズ港に入るとのこと。この辺の位置関係は分からない。
  5時30分、5階で夕食、6人席、男二人は知り合いらしく話し合っている、隣は夫婦で話題は無いようだ黙っている。食後、私が隣の夫に昨日のピラミッド観光の顛末を話すと皆さん一気に不満が爆発、6名全員参加でけんけんがくがくとなった。ほとんど方がピースボートの問題点を指摘、それでも結論はピースボートは必要、これらも応援をしていくと言う結論で終わった、めでたしめでたし。終わった後、奥さんから不満を吐き出すことができてよかったと感謝された。
 7時、帰室、カミさんと普段はなかなか話せないことなど率直に話し合う。

 

 

 いよいよ出航

 

 ブイに固定されたロープを外す

 

 庶民的なアパートが並んでいる。

 

エジプトぽいアパート 

 古い灯台を発見

 

 灯台のUP(使われていない)

 

 フェリー(Port Fouad Ferry)乗場

 

 フェリー乗場

 

 スエズ運河に入る

 

 監視塔、中にいる兵士が見える、真夏はどうなるのか心配?

 

 巨大なクルーズ船が見える

 

 コンボイで運河を進む

 

 日本橋

 

 日本の国旗が見える

 

 エル・フェルダン回旋鉄道橋、列車が通過する時、橋が中心を軸に回旋する、普段はこの状態。

 

 運河を守る軍の基地?

 

 兵隊が運河に向かって並んでいた。

 

 立派な作りの監視塔

 

 基地?

 

 戦争慰霊碑と戦車 手前の看板には「英雄的行為と尊厳の殉教者、軍の息子そしてエジプトの息子」と書いてある。(Google翻訳)

 

 フェリー乗場、橋が少ないのでフェリーに頼っている印象

 

 フェリーの横に「贈収賄は伝染する」と書いてある。ただ乗り(顔パス)? *Google翻訳

 

 アパート群が見える

 

 エル・シェター・モスク、壁画は誰か?

 

 運河を抜ける 

 

11月10日(金) 日の出 6:00   日の入 16:54

 海賊対策:船腹に有刺鉄線が張られていた。

 8時、4階で朝食、6人席で女性の3人は友達同士の様だった、話が弾んでいる。私たちともう一人は同年齢の女性に食後話しかける。ポートサイドでは自由行動で市内とフェリーで対岸へ行ったとのこと。ピースボートは6回目でオプショナルツアーは取らないで自由行動とのこと、ピースボートに慣れている方だった。
 9時、帰室、記録の整理
 12時、4階で昼食、ご飯とうどん(汁が少ない)
 13時、「ドキュメンタリーは嘘をつく」上映&トーク」森達也
 ドキュメンタリーをテーマにしたテレビ番組の撮影収録場面を記録したもの。関係者への取材と注目されている若い監督が自分を置いて失踪した父親と再会する場面など出演者自身で撮影した映像などで構成されている、汚らしい髭ズラの森さんはドキュメンタリーぽさを演出している?またハンディカメラでの撮影もホントらしさを演出している。ドキュメンタリーって演出だ、筋書きがあって、撮影の対象も、画像も決まっていく。それ以外は切り捨てていく。
 ドキュメンタリーを手掛ける監督は全員ドキュメンタリーはフィクションだ、真実なんてない、真実がわかるのは神様しないない。色々な断片を集めてボーッとした真実に迫る事しかできない、と言う、体験的な忸怩たる思いを吐露していた、謙虚で良かった。
 セミナーが終わり、シアターを出るとデッキに人だかり、何かと見てみると有刺鉄線が巻かれていた、海賊対策だと言う。心もとないがやらないより良さそう。少なくとも海賊を警戒していると言うメッセージになるだろう。
 15時、帰室、部屋で休む、エジプトの疲れが出たよう。だるいので寝る。
 18時、カミさんに食べないで寝ると言うと14階からパンと紅茶を持ってきてくれた。
    パン2個、在庫のバナナ、りんごを食べて寝る。

11月11日(土)  日の出 6:40  日の入 17:45

 薄曇り、波穏やか、止まっている様に航行、

 6時、起床、快適、疲れが取れたよう。 7時、5階で朝食、納豆、海苔、焼き魚、昆布、梅干し、味噌汁、オレンジ、トマトジュース、ヨーグルト、コーヒー
 同席の女性(20年生まれ、一人で乗船)と食後に会話をする。家族を全て亡くしてピースボートは8回目、オプショナルツアーは参加しないで一人で寄港地を散策している。ポートサイドでは市内と対岸へフェリーで渡り散策した。観光では経験できない地元の人との交流を楽しんでいる。例えば、配布された紙で折り鶴(羽をパタパタさせる)を作っておき、綺麗に包まれているキャンデーと一緒に子供に渡すと喜んでくれる。フェリーでも親子連れと交流できた。また、ピースボートのことについて次のような話をしてくれた。
・中国資本が入っている、エコシップは中国で作る。
・申し込み金は色々理由(次のクルーズ用に預けておくと利息がつきます等)をつけて返さない、裁判を起こすと即金で返す。老人が多いので亡くなってうやむやになってしまうことを期待している様だ。
言うべきこと、要求するべきことはしっかり伝えることにしている。これはボケ防止でもある。話が止まらない状態だった。
 8時30分、帰室、掃除中だったので14階でお茶をする。
 9時、帰室、記録作成など
12時、昼食、チャーハン、中華そば、餃子
 一緒だった二人の女性(一人は同年齢、一人は少し若いか?)と懇談、波が高かったのでオーロラを見られる圏内に入らなかったと聞いたことを話したら驚いていた。オーロラ見物が大きな目的だったとのこと。
 1時、帰室、ポーランドの記録、写真整理後寝る。
 4時、作業開始
 5時、5階で夕食、サーモンの前菜、ニンジンスープ、豚肉、フルーツ盛合せ
 同席した長崎の夫婦と懇談、遠藤周作記念館、五島列島の巡礼のこと教えてもらう。
 7時、帰室

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115回ピースボート世界一周航海記その40(エジプト・ポートサイド)

2024年03月13日 | 思い出の旅行

  2023年ピースボート航海記 その15(ポートサイド エジプト)
 
     11月8日(水)ポートサイド
     3時 ポートサイド港、ツーリストポート着岸
 予定 「キザのピラミッドと博物館」 集合6時25分 

4時、起床
4時30分、14階で朝食、パン、茹で卵、野菜サラダ
5時、帰室
6時、霧のため出発が遅れるとの船内放送
6時30分、デッキからバスが数台待機しているのが見える
6時55分、集合
7時40分、出発
12時30分、エジプト考古学博物館
13時30分、   同      出発
14時、レストランで昼食
15時、レストラン出発
15時30分、土産屋
17時、キザのピラミッド入口
20時、帰船

 

ほとんど眠れずに4時起きる。4時30分、14階で朝食、5時30分帰室して準備。霧のため出発が遅れるので部屋で待機する様にとの船内放送がある。次に7時40分集合(1時間20分遅れ)との放送があり指定された集合場所に行く。かなり遅れて集合場所を出発、パスポートのチェク(出国許可スタンプの確認)、荷物検査があってエジプト入国、20台程のコンボイを組んでバスは出発(1時間30分遅れ)。
 賑やかなポートサイド市内を通過、表通りは1階が店舗の集合住宅がさらにその奥にも集合住宅びっしり並んでいた、ポートサイドの街を過ぎ高速道路に入る。料金所の前に、スピードを落とすマウンド(高さ10センチ、長さ3メートル位か?)がある、これはしっかり記憶(初めて乗った2006年のピースボートの船旅でも同じツアーに参加)にある、その先に凸型の金具が埋め込まれている場所もあった。二重のスピード調整(スピードを落とす)のための装置だ。料金所は頻繁にあるのでその度に「ガタン」と言う音と上下の振動がくるので乗り午後地は甚だ悪い。
 郊外では道路の右手(左手は何も利用されていない荒地が続く、時折、工場のような建物が見えた)には畑が広がっていた、椰子、オリーブ(多分?)、何か分からない作物が植えられていた。農家も点々と見える、大抵、ブロックの平家建て、大型の農機具は見られない。小さな畑では時折、作業している人が見られたが大きな畑では全く人が見られなかった。代わりに、巨大なスプリンクラーが見えた。長さ100メートル位あり車がついていて、円形状に散水する。運よく散水している状態を見ることができた。地下水を使うのだろうが結構な水量が必要と思われた。 
 塀で囲まれて所で10数頭、農地で2頭、牛を放牧していた、また、2〜3頭のラクダ(?)を見つけた。また、小さなモスク(地域の人々の祈りの場か、スピーカーが設置されているものもある)がよく見られた。信仰が篤いことが分かる。
 高速道路では市場に搬入するのかトマトなど野菜やシートを掛けた大きな荷物(廃棄物?)を運ぶトラックが頻繁に見られた。
 農地を出るとカイロの郊外に入った。10階建ほどの集合住宅がぎっしり並んでいる。デザインは独特な装飾を施したもの、シンプルなものが混在している、色は白か茶系、全体にくすんだ(埃っぽい)印象、建築中のもの、空き家のように見えるものもあった。一戸建てではなく集合住宅に住むようになっているのか?
 繁華街に入ると集合住宅の1階部分がネオンや照明で煌々と照らされている店舗が続き活気を醸し出している。人懐っこいのか車の荷台に乗っている人、歩いている人、休んでいる人が手を振る。さらに都心部に入ると近代的なオフィスビルと古い壊れ掛けている建物が混在している。前回訪れた時も気になったが屋上がゴミ捨て場のようになっている、ただ前回(古い建物のほどんどの屋上がゴミ捨て場状態だった)より少なくなった様に思えた。
 真新しい鉄道の駅も見え、新しい綺麗な列車が停まっていた。カイロ駅は古びていてあまり変化が見られなかった。高速道路を降り、エジプト考古学博物館に到着、見学客で混雑している。手荷物検査を受け入場する。
 内部は前回来た時と同じ(改装されていない)、ただ、展示品が少なくなっている印象を受けた。(見学者が増加したためか?)棺、ミイラ、副葬品の椅子、ベット、ツボ、皿などを重点的に見物する。ツタンカーメンの展示室は撮影禁止、黄金のマスクや身につけていた装飾品が展示されたいた。ネックレスなどの装飾品はデザイン(文様)、加工技術共に素晴らしかった。モチーフが人とシンボルの違いはあるが完成度はギリシャと匹敵すると思われた。王の彫刻は親しみは感じられないが神としての威厳、人々に恐れを抱かせる迫力を感じる。人間の姿をした神(人間的な神)を表現しているギリシャ彫刻との大きな違いだと思った。
 時間がないので早々に博物館見学を終え、レストランへ向かう。大きなビュッフェ形式のレストランでサラダ類、肉料理、魚のフライ、デザートなどを自分で皿盛って食べる。PM号の14階レストランと同じ気分になった。幸い、ビールがついたので良かったが、、。
 レストランを出ると何故かお土産屋(発掘品のレプリカ、値段は書いていない)に着いた、私たちは店の商品を見て出る。(何人か買っている人がいた。)買い物を終え、ピラミッドへ向かったが入り口でストップして動かない。30分以上その場て停車していたがピラミッド見物は出来ないとのこと、代わりに写真撮影をして良いと言われる。とりあえず、写真を撮ったが皆さん、納得できない様子、バスの中でピラミッド観光が出来なかった代わりにレストランの屋上から夕焼けのピラミッドを撮影できると釈明。皆さん言われるまま、屋上で写真撮影をするがそれほどの価値は無い。
 ピラミッド、ピラミッド展望台、スフィンクス見物は無いまま又バスに3時間乗って帰ることになった。高速道路脇でバスが集まりコンボイで港を目指す。皆さん(カミさんも)は寝ていたが私は夜景を眺めて過ごした。港近くになって、女性客の一人がこのままでは納得できないのでピースボートに抗議したい、賛同する方は署名して欲しいと提案、私たちも賛同して署名した。バスが港に到着するとピースボートのクルーズディレクターが乗ってきてお詫びをし、対応については今後、先方の代理店と検討して手紙で回答したいと説明した。
 バスを降りで外の空気を吸いながら周辺を散策、ビールなど買い物をしたかったがカミさんは銃を持った軍人が数人警戒していたので怖がって実現できなかった。ターミナルに入ると土産屋さんが店を広げていた。物色して回る、カミさんは焼物のスカラベを見つける、値段を聞くと5ドルとのこと、高いので止める。他の店にもあったので2ドルだったら買うことにして値段を聞くと1ドルとのこと、即座に購入する。
 部屋に戻り、シャワーを浴びる、埃が流された感じで気持ち良い。14階で遅い夕食、ビールを飲む、美味い!

 

 

 ポートサイド港

 

 岸壁の風景、広場があり住宅が並んでいる。

 左の公園では掃除人がやる気なさそうに作業(サボっているとしか見えない)していた。

 

 生活感あふれる団地風景です。

 

 同

 

 バスから見た風景 巨大なスプリンクラー

 

 バスから見た風景、椰子の木とサボテン

 

 バスから見た風景 有料道路の料金所、段差があります。

 

 鉄道

 

 ナイル川

 

 エジプト考古学博物館の入口

 

 博物館内部

 

 館内風景 木棺、装飾がシンプルで美しい

 

 ツタンカーメンの義理の父母のミイラ

  

 スフィンクス(ネメスと呼ばれる頭巾を付けたファラオの顔とライオンの体を持つ)神殿、王宮、墳墓の守り神

 

 土器

 

 土器

 

 ツタンカーメンの儀式用の椅子、素晴らしい装飾です。

 

 葉が土埃で覆われている

 

 昼食

 

 この土産屋に寄ったためにピラミッドは時間切れになった。(現地ガイドがリベート欲しさに寄ったと思われる。)

 

 時間ぎれで入れず、入場門の外から撮影する

 

 入口にあった観光警察の車両(ニッサンとトヨタ)

 

 レストランの屋上から三大ピラミッドを眺める。左からメンカウラー、カフラー、クフ

 

 展望は良かったがピラミッドに直に触ってみたかった

 

 港の臨時の土産屋さん

 

 値段は交渉が必要、同時に他の店と比較も必要(同じものを扱っている例が多い)

 

 ようやく帰ってきました。(自分の家に帰ってきた様な安心感)

 

 

 

 

 


    

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115回ピースボート世界一周航海記その39(トルコ・イスタンブール)

2024年03月13日 | 思い出の旅行

 2023年ピースボート航海記 その14(イスタンブール トルコ)
 
     11月5日(日) 05:00ガラタ港、サル、パザール埠頭着岸予定
             21:00 帰船リミット

 4時、目が覚める、あとはうとうとするだけ。
 6時30分起床
 7時朝食、14階から持ってきていたパン3種類(半分づつ)、ミニハンバーグ、野菜、
りんご、みかん、紅茶
 7時30分、終了、観光の準備、遠くからアザールの声が聞こえる。
 8時前、ビスタラウンジへ、入国用のバーコードをもらう。
 説明によるとマラソンの影響でバスではなくトラムで向かうことになったとのこと。下船しトラムの駅前で待つこと40分?どうもトラムが先に行ってしまったようだ。(何の説明も無いが噂が流れて分かった)代わりにフェリーで移動するとのこと。小さな港で待つ、30分以上は待った。小さな港に大きなフェリーが入ってくる、波が高く船は揺れるなか着岸、慣れているようだ。桟橋より船が高く、船員が手で引き上げてくれる、凄い力持ちだった。小さな女性は体ごと引き上げていた。
 全員乗せてフェリーは出発、荒れるボスポラス海峡を航行、かなりの数のフェリーが行き来している、PW号とは違う角度での海や街並みが見れた。やがて城壁が見えてくる、よく見ると城壁に沿った道を人が大勢走っている。今日行われているマラソン大会の様だ。旗を持っているランナーも見えた、市民マラソンも同時に開催しているのだろう。城壁を過ぎると大きなモスクが見えてきた。緑の屋根はブルーモスクに違いない。
 フェリーは小さな桟橋に着けようとしたが波が高く横揺れが大きい、横倒しになるのではとちょっと心配する。波が高いため着岸を諦め別の桟橋(Eminonu)に向かうとのこと。かなり戻って大きな桟橋に横付けする。
 集合場所を確認して解散、PBスタッフがソフィアモスクまで案内すると言うのでついて行くことにした。所狭しと並んでいる商品、煌々とした照明はバザールのような雰囲気、お菓子、スパイス、化粧品、雑貨、照明など多彩な商品を扱っている商店街を抜ける、途中、大きな店でトイレタイム、ピースボートのスタッフと懇意のようだ、日本語で挨拶される、トイレは男女兼用で便器は1つ、先に入った中国人女性がなかなか出てこない、やっと出てきたかと思うと洗面台で髪をとかしたり化粧をするのに呆れた。こんな人が増える中国は大丈夫か?
 更に進んで、Sultanahmet(公園)で解散、公園はマラソンコースになっている、選手が続々走ってくるのが見え、時折、歓声が聞こえる。私たちはソフアモスク(Hagia Sophia Mosque)を目指す、道は凄く混雑して歩きにくい。モスクの近くがゴールの様だ、道がマラソンのために半分になっておりそのために混雑がひどい。モスクに到着、門を潜ると大きな中庭に入る、中央にモスクがあり入口が見える。ソフィアモスクだと思っていたらどうもブルーモスクのようだ、中に入るのは時間制限がある、次は1時30分と言われた。1時間以上あるので入るのは諦めた。代わりに外から中を覗く、中はだだっ広い空間、周囲に小さなステンドグラスの窓が連続して何層にも連なって室内を明るく華やかにしている。壁や柱には黒字に金のアラビア文字の装飾、偶像崇拝が禁じられているので全て抽象文様で飾られている。床は絨毯、大きな円形の照明が頭上近くまで下げられている。祈りの空間として考え抜かれた結果このような様式が完成したのだろう。
 モスクを出て、公園に戻る。公園ではパレスチナの人々がパレスチナの旗を振りイスラエルへの抗議を行っていた。世界にパレスチナ問題を訴えることに尽力している様だ。
 集合場所(公園の下)を確認しに行ったがマラソンコースで道路が遮断されて渡れない、離れた場所に陸橋(下はマラソンコース)が見えたのでそこま歩いて渡たる。大きな城壁が見えてくる、地図で調べると王宮(Topkapi Palase)だった、王宮内(公園)を散策、博物館があったが余裕が無く入らなかった。王宮前でソフィアモスク写真をとる。円形と鉛筆のように尖った4本の尖塔がモスクとしての存在感を表している。高い尖塔はキリスト教会と同様に遠方からの目印(地図)、気づき(信仰を忘れるな!見ているぞ!)としての役割があったと思われる。
 ピースボートの若者がいたので道を聞くと目の前の王宮の城壁の周りを回って行けばSultanahmet(集合場所)に出られると教えてくれた。これで集合場所に戻れると一安心。集合まで2時間ほど時間があったのでバザールやブルーモスクにも行きたかったが体力の問題もあり諦め、休みを兼ねて昼食を取ることにした。城壁を周り、駅の前を通り集合場所Sultanahmetを確認できたので近くのレストランで遅い昼食を取る、レバーケバブ、スープ、ケバブ(パン生地でケバブを巻いたもの)、コーラを注文、スープ、ケバブ(パン生地でケバブを巻いたもの)の順で美味しかった。1万円近い料金は高かった。
 集合場所に10人ほど集まってきたが集合時間の4時になってもバスは来ない、「諦めて歩きましょう」と言うことになった。パシフィック・ワールド号が見えているので迷うことはないので安心して歩くことにした。ガラタ橋(Galata Bridge)を渡る、橋は二重構造になっており上が通常の橋、下は店舗があったとのこと(後から下の道を歩いたと言う人から聞く)。上では釣り人で長い欄干は完全に占領されていた。釣り竿を固定する道具(木製で欄干に取り付ける)に取り付けて椅子に座りただ当たりが来るのを待つ人の行列は異様な風景だった。足元のバケツや発泡スチロールの箱に釣った魚が入っていた。イワシのような小さな魚、鯛の様な丸い魚、サヨリの様な細い魚が見られた。このガラタ橋の先は金角湾(ヨーロッパ大陸に牛の角のように切り込んだ細長い湾)だ。
*後で橋の下を通った人から「上から釣り針が降ってくるし、釣れた魚を引き上げるし、その魚を狙って鴎が飛んでくるし、通るのは大変だった」とのこと。
 歩くことでイスタンブールならではの光景を楽しむことができた。橋を渡り海沿いにPW号に戻る、免税店でカミさんはお土産を購入、キリが無い。
 部屋に戻り、シャワーを浴びる。気持ち良い。混雑のために予定通り観光できなかったが
 ・ボスポラス海峡をフェリーで渡る(小さな船からの旧市街地の景色)
 ・マラソン大会を見物(歓声と人混み)
 ・パレスチナの人々がアピールしている姿(若者がパレスチナの旗を振っていた)
 ・ブルーモスク、王宮、城壁を見物(昔の栄華、国際関係の厳しさ、軍事的環境が偲ばれる)
 ・小さな夫婦で経営しているレストラン(中学生くらいの男の子が手伝っている姿を見た)
 ・釣り人でいっぱいのガラタ橋(Galata Bridge)(庶民のささやかな娯楽?)
 ・バザールの様な店舗(品揃え、展示、照明が演出している)

 

 山火事、爆撃されたように見えたのでウクライナ戦争が飛び火したのかと思ってしまった。

 

 ダーダネルス海峡にあるキリトバヒル城(1463年建設)

 城の上のメッセージはGooglepixel調べで「神に感謝します。私たちはトルコ人です。そして私たちは永遠にトルコ人です。私の種族のトウランの理想万歳」の意味。

 

 イスタンブール港風景、先はボスポラス海峡を経て黒海へ繋がる航路

 

 停泊地の風景、モスクが見える

 

 パシフィック・ワールド号が停泊した岸壁の風景、波が荒い。

 

 ボスポラス海峡の風景、フェリーが行き来する賑やかな港町、ここを抜ければ黒海そしてクリミア半島につながる戦略上重要な海峡である。

 

 フェリーから見た風景、頑丈な城壁に囲まれたかっての東ローマ帝国(旧市街地)

 

 海岸沿いの道をマラソンランナー(イスタンブールはマラソンの大会があった)が走るのが見えた

 城壁の上にトプカプ宮殿が見える。

 

 アヤソフィア(ビザンチン様式の教会350年創建、1453年オスマン帝国によって征服されモスクになる1935年以降は博物館として使用される)

 

 ブルーモスク(スルタンアフメト・モスク)オスマン帝国の第14代スルタン・アフメト1世によって1609年から16年の歳月をかけて建造された。 

 

 市内風景、活気がある。

 

 街の風景

 

 惣菜屋さん、これは何だろう?

 

 パレスチナ人のアピール 

 

 ブルーモスク入口

 

 門を抜けるとモスクが現れた。

 

 ブルーモスクの中庭 

 

 ブルーモスクの全景

 

 モスクの内部を窓越しに撮影 

 

 レストランで

 

 レバー料理

 

 ガラタ橋の釣り風景(釣った鯖を焼いてパンに挟んだサンドイッチ、鯖サンドは名物とのこと)

 

 これでは鯖サンドは無理

 

 夜のイスタンブール港、出航を待つ。  

 

 11月6日(月) イスタンブール出港2日目

 7時、起床、昨日は疲れていたので良く眠れた。
 8時過ぎ朝食5階、納豆、豆腐、さんま、味噌汁、梅干し、すき焼き、ヨーグルト、トマトジュース、日本茶
 京都の方(中年男性)と一緒になる、食通の様だ、昨日はターミナルのレストランでステーキ(1万円)を食べ、安くて美味しかったとのこと。また、ニューヨークでは15万円したアメリカブランドの洋服を5万円で買った、流行に関係ない服なのでいつまででも着れるとのこと、おしゃれでもある。
 10時、帰室、発表会の準備、
 11時30分、ビスタラウンジで本番前の打ち合わせ、終了後14階で昼食、食後部屋に戻り休息。
 14時30分、7階ビスタラウンジへ、いよいよ「アウシュビッツ見学報告会」本番。トキさんが来ないハプニングがあったが何とか無事に終了した。ピースボートの冨岡さんが頑張った。
 16時10分、帰室して休む。
 17時50分、14階で夕食。ご飯をしっかり食べる。
 19時30分、14階で打ち上げ、Kさんがワインとウィスキーを提供してくれた。K夫妻、Tさん、Tさん、Tさん、Tさんといつも一緒だった女性、発表会には参加しなかったが青年が後から参加してくれた。栗原さんからスコットランドで手に入れた特別のウィスキー(アルコール度40度以上)を飲ませてもらった、特別な香り(樽か、植物か)が特徴、アルコールで舌がピリリとなる。我々もジャマイカ産ラム酒を提供する。
 Tさんがその音色に感激したと言うコカリナを演奏してくれた。太さ3センチ、長さ6センチ位の木製(楓)の小さな楽器だった。確かに澄んだ高音が魅力的だった、アンコールで「故郷」を演奏(低音が出ないので高音に編曲している)後、皆で合唱した。日本に郷愁を感じた。
 コカリナはKさんの友人だと言う、素晴らしい人なので水先案内人推薦したいと言っていた。旅をしただけではなく結果をまとめ発表したことはピースボートらしく良かった。これからもアウシュビッツの見学と発表会は継続して欲しい。(前回もやったとのことだったが、)


11月7日(火) イスタンブール出港3日目

8時、5階レストランで朝食、ご飯が2杯きた、頼み方がまずかった様だ。内容はほぼ同じメニュー。ガラス越しの隣にKさんとMさんたちがいた。
9時、帰室、記録、写真の整理など
12時、パストート受け取り、
   14階で昼食、軽くパン、鳥の唐揚げ、野菜、コーヒー牛乳、
   ここでもK、Mさんと出会う。
13時、帰室、ギリシャの記録
17時、5階で夕食、さいたま市から来た方と一緒、82歳で16歳から父親に教わって剣道をしているとのこと、剣道で台湾には100回以上、世界各国に行っているとのこと。元気なおじさんだ。
18時30分、帰室、明日の準備、記録の整理
20時過ぎ、就寝、なかなか寝つけなかった、結局うとうとして朝を迎えることに。

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115回ピースボート世界一周航海記その37(イタリア・チベタベッキア)

2024年03月09日 | 思い出の旅行

 10月31日  チベタベッキア観光 自由行動

 昨日は疲れていたので良く寝れた。

 外を見ると波が高く防波堤を超えることもある。道路は海水で水浸し。

 6時、起床

 8時30分、初めて5階で朝食、ご飯、味噌汁、納豆、温泉卵、トロロ、焼き魚、梅干し、ヨーグルト、ジュース、海苔、コーヒー、量も適当で美味しかった、次回も利用したいと思った。

 9時30分、帰室、カミさんは咳がひどいので下船しないことになった。船内放送で波が高く荒れているので当局の指示で下船できない、天候が回復する12時頃になるだろうとのこと。写真の整理などして過ごす。

 12時、放送で下船可能とのこと、準備して下船する。風が強く、少し寒く感じる。ジャンバーにして良かったと思った。

 岸壁ではシャトル・バス待ちの長い行列ができている。30分ほど待ってバスに乗る、港内を走り街の入り口で降ろされる。ここが帰りの乗り場になるのか不明。

 取り敢えず、街を目指して歩く、大きな通りがあったので散策開始、すると入口付近で床屋を発見、早速髪を切ってもらうことにした。メニューに英文でhair cutとあったので「ヘアカット、オンリー」と注文、若い店員が何か言っているがさっぱり分からない、髪型のことかと思いこのままとゼスチャーで示す、今度は指でどの位切るかと聞かれた(と思う)ので店員が示した長さの倍を要求、分かったようだ、あとは任せる、ハサミとバリカンを使い20分ほどで完成、しっかり刈り込まれスッキリした。料金は15ユーロだった。これでチベタベッキアに来た目的を達成した。

 思っていたより大きな街だ、土産屋もある。大通りから路地へ、店のウインドウを見て回る。洋服屋さんでは50%offのバーゲンもやっていた。雑貨屋さんのウィンドウで南部鉄器の急須を発見、中国製ではないと思われる。

 また大きな通りに出て、来た道を戻る、道路を挟んで床屋さんの前を通ると若い女性二人が私を見て話しているように見えた。私のことではないと、そのまま港方面に向かうと女性が走ってきて帽子を渡してくれた。床屋の椅子に帽子を置いて座ってしまったのですっかり忘れていた。心配かけて申し訳なかった。

 散策を続けるとアウシュビッツに参加した方と出会あったので髪を切ったことを報告した。その方はこれから列車でローマに行くと言う、時間的に厳しい様に思えた。

 教会があったので入ろうと入口を探したが閉まっているよう、裏に回っても入口が見つからない、諦めていたらローマンカラーを付けた黒人の神父がいたので「日本から来たカトリックの信徒です」と声を掛ける、すると「私はウガンダから来た」と言う、「私の教会にカメルーンから来た司祭がいる」と言ったら分かった様だ。イタリア語を話すかと聞かれたので「ジャパニーズ オンリー」と言ったら笑っていた、通じたのだろう。そして握手して別れた。

 お腹が空いて来たのでレストランを探す、路地を入った所にピザ屋さんがあった、客が美味しそうに食べていたので小さいサイズのピザを注文、冷蔵ケールからビールを1本取り出すと、ピザを焼いている店主が栓を開けろとジェスチャーでしめす。お金を取らないので、ピザと一緒に払うのだろうと判断する。ピザがすぐ焼けると思って店内の小さなテーブルに座るとここは俺の場所だから外のテーブルへ行くように示される。周りの客の様子を見るとピザを食べている人と明らかにジュースなどを飲みながらピザが焼けるのを待って人がいる、私も外のテーブルに移動してビールを飲みながら待つことにする、ピザが焼けると店主が紙に乗せてテーブルまで持って来る。店主は顔と注文内容を覚えている、私の番の時、店主が私の顔を確認してピザを持って来てくれた。熱々のピザは美味しかった、冷えたビールと熱々ピザがあうことを最確認した。カミさんのお土産として3分1持ち帰る。

 14時、港近くの小さな店でビール2本買って船に戻ることにする。シャトルバスを待たないで歩く、20分程歩いて船に到着。カミさんに床屋に行ったことを報告し冷えてしまったピザとビールを渡す。

 17時、14階で夕食、部屋に帰りビール

 

 

 チビタベッキアの地図、海岸沿いと中心街を散策、駅も近くにあるのでローマへ行くのは容易と思われる。

 

 港の風景、小さな航空母艦が停泊していた。

 

 ヨットハーバー、奥にクルーズ船が停泊していた。

 

 帆船?

 

 洗濯物

 

 南部鉄瓶を発見、昔からフランクフルト・メッセを通じてヨーロッパに輸出していた。

 

 小さな広場、右手奥にピザ屋さんがありました。

 

 美味しかったです。大きいのでカミさん用に残しました。

 おじさんが一人で調理、給仕、会計をこなしていました。ビールはセルフサービスです。

 

 ピザが焼けた時にはビールは無くなっていました。 

 

11月1日(水)  チベタベッキア港出航(2日目)

  予定   13:00~14:20 アウシュビッツ報告会ミーティング 6Fイベントホール

          14:30~15:30 ピレウス&イスタンブール わくわく寄港地 7Fシアター

          16:30~17:00  航海の雑学、第4回~インド洋~ 7Fシアター

 波穏やか揺れが少ない、雲が少しかかっている、爽やかな気温

 7時、起床

 8時10分、 朝食を5階で取る。M夫妻と同席、アウシュビッツ、国内旅行、方言、など楽しいひと時を過ごせた。

 9時、帰室、カミさんは診療所へ、私は14階で記録作成、

 11時、帰室、カミさんは戻っていた。

 11時30分、5階で昼食、ラーメン、五目ご飯、サラダ、葡萄、紅茶

支倉常長に興味を持っていた方(昭和14年生まれ)と同席になる。チベタベッキアに支倉常長の像があると言う、この方はそれを確認することが船に乗った目的の一つとのこと。

 13時、アウシュビッツ発表会ミーティング、6階イベントルーム1

 発表内容と担当を決める。

冨岡さんのリーダーシップが素晴らしい。決して否定しない、そうですね!と受け止めきちんと落とし所に落とす、若いNさんが意見をまとめホワイトボードに整理して書いてくれた。

 最後に絵本の読み聞かせをするとのこと、私には唐突で違和感を感じたが、これは最初から計画されていたようなので了解するしかない。

 発表会の概要(映像を流しながら、概要の説明、感想、まとめ)が明確になった。

 カミさんは第2強制収容所についての感想、私はまとめを担当することとなった。

 14時30分からのわくわく寄港地は満席で諦める。部屋で作業。

 18時30分、夕食14階でご飯、豚肉、春雨麻婆豆腐、オレンジ、スイカ、おかずを取り過ぎて残す、済みません!

 19時50分、帰室、アウシュビッツの原稿作成、記録、写真の整理

 

 11月2日(木)   チベタベッキア港出航(3日目)

   予定   13:20~14:20 わくわく寄港地 ~ピレウス&イスタンブール~

   14:50~15:30 いくなら知ろう世界遺産の旅~ギリシャ~

   16:00~17:15 イスラエルとパレスチナの紛争に焦点を当てる

   16:00~17:10 アウシュビッツ報告会ミーティング

 

  9時、カミさんに起こされるが、眠い。

 曇り、上空に青空が見える、波穏やか、左手に並走するクルーズ船が見える。

 9時20分、5階のレストランへ行くと閉まっていた、1時間進めることを忘れていたらしい。

止むを得ず、14階で朝食、ご飯、スクランブルエッグ、野菜と肉の煮物、シシャモ、茹で卵、ヨーグルト、オレンジ、パイナップル

 10時30分、帰室、記録と原稿作成

 

16時、アウシュビッツ報告会ミーティング 6階イベントルーム1

次のように決めた。原稿ができている人は読んでもらう。カミさんは咳がひどいので欠席、私は原稿を持参しなかったので次回、ミニフロッピーディスクで渡すことにした。

 

 <流れ>

 1 初めに司会(KとNさん)が全体の流れを説明 

 2 次のキーワードを説明する

   ・ホロコーストについて

 3 1日目の訪問地紹介と感想

   (Kさん)

 4 2日目の訪問地アウシュビッツの紹介と感想

   (Tさん)

   (湯口由紀子)

 5 3日目の訪問地第2強制収容所の紹介と感想

   (Yさん)

   (Tさん)

 6 まとめと感想

   (Nさん)

   (湯口靖彦)

 まとめ 冨岡(ピースボート)

 絵本の読み聞かせ

   「茶色の朝」 Tさん

 最後

    全員舞台で一例

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115回ピースボート世界一周航海記その36(イタリア・ローマ)

2024年03月09日 | 思い出の旅行

10月29日   クラフク空港~フランクフルト~ローマ

         ホテル泊 スターホテルズ・メトロポール

 

 良い天気、雲はあるが陽が差し暖かい

 6時、起床

 6時30分、朝食、食パン、茹で卵、ハム、ソーセージ、バター、サラミ、焼きベーコン、野菜

 (カブ、リンゴ、、、)ヨーグルト、カフェオレ、美味しかった

 8時、ホテルを出てカミさんとクラフク名残の散歩をする。

 ショップが入っている地下道で、実演販売しているパン屋さんを見学、おばさんがパン生地を成形していた。地下道を抜けると旧市街地を囲む緑地、途中にある観光案内所はまだオープンしていない、緑地を抜け1階が商店になっている道路を抜けるともう中央広場だ。

 聖マリア教会がそびえ、その向かいの大きな建物が織物会館だ。周囲にあるカフェもまだオープンしていない、屋台のお土産屋さんも準備中だ。名残を惜しみながら広場をゆっくり一周する。カミさんが織物会館の隅でホームレスを見たと言う。

 聖マリア教会に入るとミサ中だった、時間がなかったので少し、滞在して雰囲気を味わった。

 

 9時、ホテルに戻る

 9時30分、ホテルを出発、クラフク空港へ

 10時チェクイン、森川さんとお別れ、お世話になりました。

 13時、搭乗開始、フランクフルト空港まで1時間50分ほどの飛行、下界の景色(畑、住宅、森、川)を楽しむ。

 17時、フランクフルト空港を離陸、天候が悪く1時間遅れ、満席だった。今回も最後部の席、

 19時、ローマ空港に着陸、待機していたバスでホテルへ

 20時、テルミニ近くのホテル(Star Hotels Metropole)着、チェックインしテルミニの近くのレストランで夕食、トマトペンネ、メインはスズキ、ほうれん草、ワインとビールを飲む。

 

 

 朝、散歩しました。パン屋さん、おばさんが頑張っていた。

 

 朝ミサに参加しました。

 

 聖堂で

  

 クラクフ空港で

 

 

 10月30日   ローマ観光

         ・スペイン広場

         ・トレビの泉

         チベタベッキョで本船に合流

 

 5時、カミさんの咳がひどいく目が覚める。

カミさんが起きる、元気だが寝た気がしないとこぼす。

 6時30分、朝食、パン、茹で卵、ソーセージ、チーズ、ハム、ベーコン、ヨーグルト、果物

(パイナップル、メロン、リンゴ、オレンジ)、カフェオレ

 7時30分、ホテル周辺を散歩する。改装したテルミニ前の広場はホームレスが多い、ビールの空瓶、段ボール、紙、ペットボトルなどゴミも沢山散乱している。改装した駅にふさわしくない。

 8時30分、ホテルに戻りチェックアウトの準備

 9時前に集合場所へ、チェックアウト済ませバスで市内観光に出発、

 混み合う中、バスの車窓からカラカラ浴場、コロッセオ、フォロ・ロマーノ、サンタンジェロ、真実の口の広場を見物後、下車しナヴォーナ広場(元競技場、ドニティアヌス帝が長さ240m、幅65mの競技場を作ったのをそのまま広場にした、一部に遺跡が残っている)16世紀末、法王シクストウス5世の計画従って整備され、広場中央にベルニーニの設計の噴水が作られた。

 パンテオン(すべての神々の神殿と言った意味、前27~25年にかけて、アウグストウス帝の武将であったアグリッパが作らせたもので110~125年にかけて改築したもの、ローマ人はもっと自由な大空間を求めアーチを発展させた、ミケランジェロが「天使の設計」とたたえた。)

 トレビの泉、ローマで最も知名度がある泉、肩越しに2個のコインを投げれば最初のコインは「ローマに再び来ることを祈り」次のコインは「その祈りが叶えられた」ことを示すと言う。

皆さんはコイン1個肩越しに投げている。来訪は初めてと言うことになる。私たちは2個投げなければならないことになる。月曜日は泉の掃除日、水が抜かれ係員2名が掃除をしているところだった。観光客が泉を囲んで掃除が終わるのを待っていた。掃除が終わって水が流されてきたので私も(同行の方から小銭を頂いたので)肩越し(距離があって届かない)ではなく野球の投球のように投げた。30分ほど時間があったので近くにあった店でアイスクリームを食べた。店員がバングラディッシュ人のようで風情がなかったのが残念。

 スペイン広場、名称は広場の一角にあった建物がスペイン大使館として使われていたことから由来する。噴水、大きな階段、最上階にある教会が構成する広場、独特の雰囲気を持つ。ローマの休日でヘップバーンが階段に座ってアイスクリームを食べるシーンを思い出す。映画がローマを観光に貢献している。

 昼食は「APICIO」ビール2本、アジア系店員の笑顔が良かった。CDをプレゼントする。

 2時45分、バスでチベタベッキア港へ

 

 4時、パシフィック・ワールド号に合流、シャワーを浴び、荷物の整理をする。疲れたけど良い旅になった。皆さんに迷惑かけずに済んで良かった。これから旅の記録を完成させないといけない。 

  

 

  

  ピースボートが用意した地図

       

    朝食

  

  テルミニ駅前の風景、ホームレスのテントがいくつかありました。

 

 テルミニ駅前のテントも持たないホームレス

 

 ゴミがすごい状態になっていた。ここでビールを飲んでいたようです。

 

 お土産やさん、見ているだけで楽しい。

 

 バスツアーの店が軒を並べていました。

 

 テルミニ駅構内に入ってみました。40年前と昔と一変していました。

 

 チケット販売機

 

 バスで市内観光、最初はコロッセオ(車窓見物)でした。

 

 フォロ・ロマーノ、手前は競技場跡(車窓見物)

 

 テベレ川風景

 

 ナヴォーナ広場 ベルニーニの彫刻(噴水とオベリスク)

 

 ナヴォーナ広場風景

 サン・ルイージ・ディ・フランチェージ教会(カラヴァッジョ聖マタイ伝三部作所蔵)外観見物

 

 サン・ルイージ・ディ・フランチェージ教会 カラヴァッジヨ作「聖マタイと天使」

 

 天井画 

 

 ナヴォーナ広場

 教皇所有の建物、紋章入口の上の紋章がそれを示しているとのこと

 

 ナヴォーナ広場はかって競技場だった、その痕跡が残っています。

 

 発掘された遺跡(広場の一角にあります。)

 

 遺跡

 

 ナヴォーナ広場の似顔絵描き

 

 パンテオン、以前行った時は自由に見物できガラガラでしたが現在は有料でこの混雑ぶりです。

 

 ガイドの説明を聞くピースボートの一行、残念ながら外観だけの見物でした。

 

 ガイドの説明によるとトイレ跡とのこと、汚物が上から道路に落ちてくるらしい。

 

 横丁の風景

 

 トレビの泉の風景、掃除が終わるのを待っている。

 

 コインやゴミを拾ったり、ブラシで汚れを落としていました。(なかなかお目にかかれない風景?)

 

 スペイン広場

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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115回ピースボート世界一周航海記その35(ポーランド・ビルケナウ)

2024年02月29日 | 思い出の旅行

10月28日  ・ビルケナウ強制収容所
       ホテル泊 ヴェエナ・ハウス・アンデルズ・クラクフ


 6時、起床、シャワーを浴びて身支度、外は暗く寒い。近くにあったスーパーへ入ってみる。
 大きく、品揃えも豊富だ。
 6時20分、朝食、パン、スクランブルエッグ、ソーセージ、チーズ、野菜(トマト、きゅうり、パセリ)ヨーグルト、ブドウ、コーヒー
 8時、帰室、トイレを済ませロビーへ
 8時20分、バスで出発、15分程でビルケナウ強制収容所着、屋外なので吹きさらしで寒い、カミさんは防寒コートをバス(我々を下ろして移動)に置き忘れ、皆さんに心配をかけ、ホッカイロをもらったりショールを借りることになった。
 中谷さんの案内で見学開始。チケットもチェクインも無い、残念なことにヘッドホーンも無い。目の前に写真で見たことがある「死の門」と呼ばれる収容所の建物とレールが目に入った。感動的だ、ユダヤ人達がどんな思いでこの建物を見たのか、劣悪(トイレはない洗面器のような容器に排泄物を入れた)な貨車での移動から開放された安堵感はあったのだろう。その後の運命は想像できなかっただろうし、想像したくなかっただろう。
 ポーランドやナチス占領下のヨーロッパから集められたユダヤ人たちが列車(貨物用)で到着、降ろされたユダヤ人達がゲシュタポによる労働が可能か否か選別(ガス室送りか労働させるか判断にドイツ人医師も関わっていた)された場所だ。
 監視塔に登り全体を俯瞰する、広大な敷地だ。一部、左側にはバラックが建っている、右側には一部バラックもあったが、レンガ製の暖炉と煙突が並んでいた。
 建物はここが開放された後、かってここに住んでいたポーランド人が帰ってきて(何もない状態)家を建てるのに残されたバラックを剥がして持ち去ったため、残っていないとのこと。現在のバラックは再現したものだろう。
 敷地の奥にガス室(アウシュビッツ強制収容所に展示されたいた石膏模型で構造がわかる)がある。右手にはレンガ製の丸いタンクが並んでいる、浄化施設とのこと、死体を焼いて骨は砕き、残った内臓は水を貯めた浄化施設で浄化させ、上澄みを池にためてから川に流したとのこと、徹底している、まるでゴミ処理工場のようだ。
 中谷さんにアウシュビッツがレンガ造りに対してここはなぜバラックなのか質問すると収容者が増えたこと、恒久的使用を考えていなかったとのこと。アウシュビッツは恒久的に利用するつもりであったとのこと。
 ユダヤ人収容者を運んだ貨物車が1両ぽつんと置かれていた。ユダヤ人を降ろした場所だ。まさにここで選別があった場所だ。当時の写真も展示されている。奥に行くと破壊された地下構造物が現れる、ガス室への入口に文字が書かれた握り拳大の白い石が置かれている、訪れたユダヤ人が置いていったもので、ユダヤ人にはそのような習慣があるとのこと。
 入口で髪を切られ、シャワーを浴びるとの理由で裸になりシャワー室(ガス室)に誘導された。安心させるため脱いだ服が判るようにハンガーの番号を覚えて置くように指示していたとのこと、その徹底ぶりは驚きしかない。そしてチクロンBを注入されもがき苦しんで亡くなった。チクロンBは殺虫剤とのこと、虫を殺すように人を殺した。
 死体は焼却炉(コークス炉)で焼かれた、間に合わない場合は野焼きされた。これらの作業はユダヤ人がやらされた。ユダヤ人の選別やチクロンBの投与はドイツ人がやっていたが死体の焼却、骨の破砕、骨の廃棄はユダヤ人がやっていた。髪を切り、残された歯から金を取り、宝飾品、メガネ、義足、食器、櫛、衣類、靴など分類して再利用していたが大量すぎて保管のための倉庫が必要であった。これらの作業もユダヤ人が担っていた。嫌な仕事はユダヤ人にやらせる仕組み作りが巧妙で呆れるばかり。
 再現された居住棟、トイレ棟を見せてもらった。トイレ棟は沢山の穴が空いているだけ、座って用を足す、アウシュビッツより劣化している、水もトイレットパーパーも無い。しかも1箇所だったので居住棟が遠い人は大変だった様だ。(弱った収容者は垂れ流しだったとのこと)居住棟は三段ベットがぎっしり並んでいた、寝具は再現されていなかったが藁など粗末なものだったろう。冬は暖房しても隙間風が入り寒かったと思う、履物を枕がわり(盗まれないように)に体を寄せ合った寝たとのこと、食料も不足して寝具も不十分であれば風邪をひいたり、肺炎になったりしただろう。
 ビルケナウ強制収容所の施設を3時間かけて一周した。途中に暖房が完備したトイレがあったので助かった。収容所の丸い穴だけのトイレを思い、ありがたみを感じながら用を足した。
 12時、中谷さんの案内と説明は終了、次の案内があるとのこと。ここでお別れ、記念の写真をお願いしたが断っているとのことだった。
 少し離れたところにあったナチスが利用した娯楽施設の見学に行く。国から残された施設を譲り受け八人で復元を目指して活動しているとのこと。マンパワーも資金も大変な様子だったので皆で少しだけど寄付をした。私は5ユーロ出した。

 13時、バスに乗りクラクフに戻る、紅葉が綺麗、ガイドの森川さんはポーランドでは赤がないので「黄葉」と言うとのこと。
 15時、クラクフ市内に戻り中央広場にあるレストラン「JDesele」で昼食、前菜は山羊のチーズ、メインは豚肉とうどんの様なものとの付け合わせ、デザートのチョコレートケーキは美味しかった。ロゼワイン2杯とデザートにあう甘いアルコール飲料(名前は分からない)を飲む、不思議な飲み物だ。
 16時30分、ホテルに戻りチェクイン、少し休んで街に出て散策、聖マリア教会でミサがあったが時間が無く途中で帰る。
 19時、夕食、メインは抜かす、デザートもケーキ半分残す。昼食との合間が短すぎ、お腹がこなれていない。

 

   

   死の門、ここから入ったら戻れない。列車はこの先で終わり、その先にはガス室はある。

   

   死の門から見た収容所の景色

  

  ビルケナウ収容所構内図

     

 中谷氏の著書あるビルケナウ収容所の構内図 クレマトリウム(脱衣室、ガス室、焼却炉を備えた施設、地図から4基あったことが分かる。)

  

収容者を運んだ貨車

  

パネル写真、奥に死の門が見える、降ろされた収容者は男と女に分けられた。次に、労働に向くか向かないか選別する、向かない高齢者、身体障害者、子供は向かいとされそのままガス室へ送られた。

 

死の選別をするゲシュタポの詰所 この横を通ってガス室へ向かった。

列車を降りて労働に向かないと選別された人々(2枚上の写真参照)は線路を横切り詰所を右に曲がりガス室に進む (上にゲシュタポの詰所が見える)

 

 施設の修理も行われていた。

 

 広大な敷地にバラックが整然と並んでいる。

 

 監視塔

 

 

クレマトリウム、ナチスが犯罪を隠すために爆破した。(当時のままで残されている)階段を降りると脱衣室がある。シャワーを浴びるとの口実で服を脱がせガス室に誘導した。

爆破され天井が落ちている。

クレマトリウムの構内図 

A:入口 C:脱衣所 D:ガス室 E:チクロンBが投入されるハッチ F:5基の火葬焼却炉を備えたホール

K:医師メンゲレの解剖室 

部屋の機能

ユダヤ人が残したメッセージが書かれた小石  左:二度としないで サリガニ 

石を墓などに置くのはユダヤ人の習慣(天国への手紙)

残された煙突が慰霊碑のように整然と並んでいる。

バラックの中

トイレ、穴しかない。汲み取りなので悪臭がひどかったと思われる。

当時の様子が分かるようにパネルが設置されている。

復元されたバラック

パネル(写真)

収容者から奪った金品の保管場所

収容者が奪った金品を整理している写真

残された食器

残された食器のUP

焼却された遺体は砕かれ浄水槽で浄化された。

浄化された水は溜池で更に浄化しうわ水を川に流した。収容者から衣類、貴金属、靴、メガネなど(女性は髪の毛まで)を収奪してガス室で殺し、遺体を焼却炉で焼き、骨を砕き、浄水槽、溜池で浄化して川に流すまでの一貫した処理はまさに殺人工場だ。

当時の浄水池の様子が分かる写真

 

 

 

 

 

  

 

 
 

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115回ピースボート世界一周航海記その34(ポーランド・アウシュビッツ)

2024年02月29日 | 思い出の旅行

10月27日  ・アウシュビッツ強制収容所
       ホテル泊 ホテル・インペリアル・オシフェンチム


 早朝、曇天、サイレンの音が聞こえる
 7時、起床、7時30分、朝食はビュフェ形式、パン、チーズ、ハム、野菜、カフェオレ
 8時30分、帰室し準備 9時50分、荷物を持ってロビーへ
 10時15分、バスに乗り込む、クラクフの街中を通り川を渡り一路アウシュビッツへ向かう。 
 オシフィエンチム(所要時間1時間30分)
 12時30分、ホテルの前のレストランで昼食


 14時前、雨の中、アウシュビッツ強制収容所到着、中谷剛さんに説明、案内していただくことになったのは幸い。(誰が担当か分からないとのことだった)入口は見学者でいっぱいヨーロッパの若者のグループが目立つ、中谷さんの説明ではEU諸国は取り決めでアウシュビッツを見学することが勧められているとのこと、雨は降るし入口はごった返しているし、どうなるのか心配になる程。
 予約が2時とのことでそれまで待機していたようだ。中谷さんを先頭にチェクイン手続き、最初にチケットとパスポートを提示し、名前の照合をする。次にチケットのバーコードの読み取り、そして荷物のX線検査、金属製のものは全てトレーに入れ、人は金属探知機の下を通る。何度かひっかかり、やり直す。これで入場のための手続きは終了となった。なんと厳重な手続きか、驚く。それだけ重要な施設なのだと言うことだろう。説明用のヘッドホーンを装着し準備完了。ヘッドホーンは耳の悪い我々に取って有難い。中谷さんの説明がよく聞こえる。
 雨の中、傘を刺して施設内を進む、案内先はガイドが3時間という制約を前提に見学者に合わせて設定しているようだ。また、多くの見学者いるので混雑を避けることも配慮しているようだった。建物も多く、見学順に記録することは出来なかったので主な見学先を売店で購入した資料や帰国後入手した資料と合わせて紹介したい。
 資料:アウシュビッツ・ビルケナウ その歴史と今   
                 国立アウシュビッツ・ビルケナウ博物館
    アウシュビッツビルケナウあなたが立っているところ・・・ 
                 国立アウシュビッツ・ビルケナウ博物館

アウシュビッツ強制収容所
 ドイツ領にされたポーランドのオフィエンチム市郊外に1940年にドイツによって設立。その後、ドイツ語のアウシュビッツと言う地名に変更(ドイツ人にとって言い難いからとのこと)、収容所の名前にもなった。ポーランド人の収容者で溢れていたことが設立の直接の理由であったが1930年代から作られていたテロシステムの収容所の一つとして考えられ、1942年から徐々にユダヤ人絶滅センターになって行った。その背景にはドイツ軍がポーランドやロシアを侵略することでそこに住んでいた大量のユダヤ人や捕虜の扱いが問題になっていった。ユダヤ人を移住させることも検討されたが実現できず、収容しきれない状況になってナチスは労働者として使えない収容者を絶滅する方針に舵を切った。

 アウシュビッツ強制収容所の守備隊はSS(ナチス親衛隊)のメンバーで成り立っていた。SS隊員は収容所の幹部でありユダヤ人絶滅作業にも参加し死刑も執行していた。収容所が存在した期間に送り込まれたSS隊員は8,000人を超え、女性監視員200人が任務についていた。

 収容所の拡大
 ドイツの占領下のヨーロッパのほぼ真ん中に位置し交通の便が良かったことが同収容所がユダヤ人絶滅センターとして使われる背景だった。1940年最初にポーランド人政治犯(社会思想家、インテリ、文化人、学者、レジスタンス、将校など)728人が送り込まれた。更に強制退去されられたポーランドの住民やワルシャワ蜂起の市民、さらに占領した他国からの人々、ロマ、ソ連軍捕虜が入っていた。1942年から大量虐殺のために移送されたユダヤ人や選別の結果、労働力又は生体実験の材料として登録されるようになった。
 アウシュビッツ収容所に連行された130万人の内、登録された囚人となったのは40万人(20万人のユダヤ人、14万人のポーランド人、21,000人のロマ、12,000人のソ連軍捕虜、その他の国民が25,000人)その内の50%が重労働、飢餓、死刑執行、病気、伝染病、拷問などによって死んだ。また、20万人近くの囚人たちは他の施設に移され多くの囚人は命を落とした。アウシュビッツが解放された時は約7,500人の囚人たちが残っていた。

ユダヤ人絶滅センターとしてのアウシュビッツ
 1942年から収容所はユダヤ人絶滅センターとして2つ目の役割を果たすようになった。性別、年齢、職業、国籍、政治的思想を問わずユダヤ人あることだけで殺害された。連行されてきたユダヤ人の大半がSS医師の選別で労働に適さないと判断されガス室で殺された。老人、病人、妊婦、子供には生きる権利はなかった、彼らには囚人として登録もされなかった。その為、アウシュビッツで何人亡くなったのか分からない。
 

アウシュビッツ強制収容所はナチスが恒久的施設として建造したとの事、レンガ造りの立派な建物で悍ましい雰囲気は感じられなかった。現在でも使用できるように思えた。1列12棟が2列、1列8棟(形が異なる建物1棟を中央に挟んで)が1列に密集している。囚人の居住用として寝室棟(2段ベット)、トイレ棟、洗面棟がある。SS幹部室、事務室もあった。
 
収容所
 <寝室>
 復元された3段ベットがぎっしり詰まっている、マット(展示されていない)は藁(ノミやシラミに悩まされただろう)だったと想像した。薄い毛布や着ていた服を被ってくっ付き合って寝たのだろう。(映画のシーンから想像できた)暖房はあったが凍死しない程度最低限のものだったのではないか。生き残った収容者の「衰弱したり下痢をしてトイレにも行けない収容者は垂れ流しだったので衛生状態は過酷だった」との趣旨の証言がある。


 <トイレ>
 トイレ棟は一つ、全員ここでトイレを済ますとのこと、囲いは無いが陶器製の便器(蓋は無い)が並んでいた、水道管があったので水洗だったようだ(第二収容所ではコンクリート製の共同トイレで丸い穴が空いているだけだった)トイレットペーパーは無かったと想像する。トイレは大事な情報交換の場となっていたとのこと。


<洗面所>
 洗面棟もあった、U字型のコンクリート製の長い流し、水道管が取り付けられていたような跡があった。ここで顔を洗ったり髪を洗ったのだろう。お湯は期待できない、冬の寒い中で水での洗顔や洗髪は辛かっただろう。

<脱衣室>

収容者が殺されることを察して騒動が起きないように監視は「衣類をかけた場所を覚えておくように」との注意をしていた。

<ガス室>
 壁と天井は黒色(毒ガスで変色したのか)、天井は低く暗い、陰湿な部屋だ、黒い色は時代を経た結果か当時のままなのか分からない。天井の小さな穴(天窓から投入したとの記述もある)からチクロンB(粉状の殺虫剤)を注入したとのこと、初めはシャワーの設備が無いことから異変を感じ、穴からガスが降りてきたのを見て死の恐怖に襲われ毒ガスで苦しみもがき亡くなったのだろう。

<焼却室>
 火葬場にあるような炉が3基セットで5セット並んでいた。もちろん炉は剥き出し、鉄板は黒、構造体の赤レンガが煤けていた。模型では炉の隣にコークス庫(燃料はコークスを使ったとの事)も並んでいた。焼却、遺灰処理はユダヤ人の仕事だ。
 炉を製造した企業からもっと効率の良い炉の提案(製造した企業は何を燃やすか知っていたと言われている)があったことは訪問する前から聞いていた、産業界も加担していたのだ。
 焼却が追いつかない事態になり第二強制収容所では野焼きをするようになる。その現場は翌日見学した。

死の壁
 レンガの壁の内側に二重に壁が設けられている箇所が銃殺刑が行われたところ、死の壁と言われている。ここで数千人を銃殺した。花が手向けられていたのが最近の出来事の様に生々しかった。 建物と建物の間にあり特別な場所と言った雰囲気は無い、しかし、3方のレンガに反射した銃の音が収容所内に響き渡ったと思われる。明らかに見せしめとしていたと思う。「またか!」ユダヤ人の舌打ちが聞こえそうだ。

遺品
 カバン、靴、義足、女性の髪の毛、メガネ、囚人服、食器などの遺品が山のように積み上げられて展示されていた。強制収容所に収容されたユダヤ人から取り上げたもの、再利用することが目的だったが収容者が増え未利用の遺品が残された。第二収容所に野積みにされた遺品を分けるユダヤ人と倉庫が写っている写真があった。
 積まれた遺品は一つ一つに持ち主がいてそれぞれの人生があった、それがある日突然に失われた、山になった遺品は人であったことを否定され消された理不尽な出来事を訴えているようだ。
 女性用のハイヒールが一足、靴の山から離されて展示されていた。流行していたのだろうか、自慢の靴だったかも知れない。こんな結末が待っているとは知らず街を颯爽と歩いていたのだろう。

コルベ神父の房
 日本と深い関係にあったコルベ神父が亡くなった房を訪れることが出来たのは幸いだった。半地下の薄暗い房に教皇からおくられた大きな復活の蝋燭が立っていた。この房で他の餓死の刑に服してた人を讃美歌で励ました、神父は最後まで生き残り、看守が毒を注射し亡くなったとのこと。房の頭上にあった小さな鉄格子の窓から光が差していた。神父や受刑者たちは外と繋がる窓をどのような気持ちで眺めていたのだろうか。どんな賛美歌を歌ったのか、コルベ神父に看取られた受刑者は心安らかにいけたのだろうか、記録をつけながら思いを巡らせた。
 写真撮影禁止だったが売店で房の写真(ポストカード)を販売していたので信者の知人へのプレゼント用に15枚購入する。

5時前、中谷さんのガイドは終了、売店で買い物をして重い足どりでホテルに帰る。少し休んでホテルのレストランで夕食を取る、皆さん疲れが取れたのか少し元気になった。食後、参加者とガイドを交えて感想などを交換する交流会を持った。その席でPBスタッフの冨岡さんから貴重な体験を分かち合う報告会を開催したいとの提案があり、皆さん賛成する。冷たい雨が降る見学で体力的な疲れに精神的な疲れが加わったシンドイ一日だった。

 わずかな食料で重労働に駆り出された収容者は肉体的にも精神的にも人間としての限界を超えた状態にいたがその中で生き残れたのは死の恐怖、労働ができないと判断されガス室送りにならないようにとの緊張感を持っていたからだ。

 

 

  

   アウシュビッツ周辺図(中谷剛「ホロコーストを次世代に伝える」から)

   強制収容所に収監されていた人々は周辺に立地していた軍需工場の労働者であった。

  

  入口付近、高校生の団体が訪れていた。(EUでアウシュビッツ強制収容所を見学することが望ましいとされているとのこと)

  

  入場券、無料ですがガイドを付けるとガイド料金がかかります。

  

  アプローチ、緊張する、先導するのは中谷氏

  

  収容所入口手前、有名な看板が見える。舗装されていない水たまりの道路を行く(ゲシュタポはわざとそうしたとの事)

  

  収容所の門 売店で購入したポストカード(ARBEIT MACHT FREI 仕事はあなたを自由にする)看板のBの文字が逆さになっています、これを作ったユダヤ人のせめてもの抵抗の印だったとのこと。この標語はヘス所長が自分の経験(かって刑務所に服役していた時、労働が収監の苦痛から解放してくれたことを前提にした様だ)

  

  雨の中、多くの団体が訪れていた。

  

黙々と見学する団体(高校生くらいの若者)

  

  整然と赤煉瓦の建物が並んでいる。収容所に見えなかった。

  

奥に「死の壁」がある門の前を通る見学者

  

 ゲシュタポの部屋

  

  トイレ(水洗のように見えました)

  

  洗面所(蛇口が並んでいたと思われます。)

  

  3段ベット(再現)と残された暖炉

  

  15ブロック

  

  14ブロック

  

  

高圧電気が流れる柵で囲まれた歩道、収容者はこの道を通って作業や工場に出かけた。

  

 21ブロック

  

 11ブロック地下飢餓監房No.18 マクシミリアン・コルベ神父が身代わりになってここで亡くなった。

 復活の蝋燭は教皇からの贈られた。(ここは撮影禁止になっています。代わりに売店でポストカードが売られています。)

  

  

  一見、立派な集合住宅に見えます。ゲシュタポは恒久的な施設として建設、第二収容所(ビルケナウはバラック造り)とは違う

  

炊事棟?

  

  奥の石の壁は死の壁と呼ばれている。ここで見せしめのため反抗したり脱走した囚人を銃殺した。

  

  死の壁は花が絶えない、壁には弾の跡が残っている。私たち夫婦は黙祷しました。

  

  絞首刑台、ここで収容されている囚人を集めて刑の執行を見せ、放置した。

  

  監視塔

  

  説明する中谷さん

  

  建物は立派なのに道路はこんな状態、凸凹で歩きにくい。

  

  チクロンB(殺虫剤)の空缶、これを天井の窓からシャワー室に投下

  

  焼却室の模型、左端に燃料のコークス置き場がある。

  

  焼却室

  

  かばんの山、自分の物と分かるように名前を書かせた。しかし、二度とかばんを手にすることは無かった。

  

  メガネ

   

  靴

  

  おしゃれな靴も見える

  

  食器(食事用だけでない必需品、これが無いと生きて行けない。)

  

  囚人服(労働をさせるため)

  

  ユダヤ教徒の布

  

15号棟

  

  売店で購入した本「アウシュビッツービルケナウ あなたが立っているところ・・・」

  当時の写真がどこで撮られたのか調査し、残っていた写真と現在の写真を並べた写真集、表紙は死の門を潜り列車が到着した様子と現在の様子を合成したもの、私たちをかってのアウシュビッツに連れて行ってくれます。

 

 

  

  中谷さんの著書「ホロコーストを次世代に伝える」*絶版、ネットで買いました。

  

  

  

  

  

  

  

  

 

 

 

  

 

 

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115回ピースボート世界一周航海記その33(ポーランド・クラクフ)

2024年02月28日 | 思い出の旅行

10月26日(木)
  予定 クラクフ観光
      ヴァヴェル城 
      ・大聖堂
      ・旧王宮
      シンドラー博物館
      カジミエシュ地区
      ・旧ユダヤ人街
      市内のレストランで昼食
      旧市街
      ・聖マリア教会
      ホテル泊 ヴェエナ・ハウス・アンデルズ・クラクフ

 7時、起床 カミさんの咳で目が覚める、少し心配、起きたら元気そうだったので良かった。
 7時30分、朝食、1階のレストランでビュフェ形式、料理が多彩で皆美味しそう。見せ方が上手い。パン、チーズ2種類、ベーコン、ハム、スクランブルエッグ、コーヒー、デザート、オレンジを食べる。
 8時30分、部屋に帰る。見学の準備、昨日の記録、ホテル内はWiFiが使えるのでインターネットでメールのチェック、LINEの返事をする。
 9時50分、ロビーへ、ほぼ皆さん集まっている。
 10時15分、バス到着、乗り込む。カジミエシュ地区へ向かい、旧ユダヤ人街を見学する。
<ガイドの説明>
 かって、クラクフに65,000人のユダヤ人が住み、人口の25%を占めていた。現在は避難してきたウクライナ人を含め100万人の人口、その内ユダヤ人は90人とのこと。
 ポーランドは1996年以降、民主化へ移行し全く異なる状況、以前は暗かったが今は明るくなった。イタリアレストランはかって1軒、今は10軒に増えた。店舗も西ヨーロッパ並みになっている。人々は暖かく、優しい。
 気候は以前は寒かったが温かくなっている。今年は温かい、今は「黄金の秋」紅葉(赤はない、黄色が綺麗)が美しい。


 旧ユダヤ人街を見学、公園の周囲にシナゴーグが残っている。ガイドの説明ではユダヤ人に35項目の特権(宗教、市場、裁判、、、など)を与え住まわせたことでユダヤ人が集まって来た。7つのシナゴーグ、祈りの場は90ヶ所あった。今はお土産屋さんやカフェなどが並ぶ静かな広場になっている。 
 昔、ポーランドが敵国に攻められた時、ユダヤ人部隊を編成し防衛に貢献したことがあった。ユダヤ人はポーランドに貢献していた。(嫌われていなかった。?)ではなぜ、反ユダヤ主義がヨーロッパ中に広まったのか、なぜ、ヒットラーはユダヤ人を絶滅しようとしたのか、自分なりに解明しなければならない。

 ゲットー跡地(現在は広場になっている)見学、ゲットーに全てのユダヤ人を住まわせた、ゲットーには病院、学校など全て揃っていた。市民としての権利を全て剥奪されたユダヤ人はゲットーに住むしかなかった。電車にも乗れず、外出は大変だったのでむしろゲットーに住むことを喜んだ。広場にはブロンズの椅子が置かれ、子供の写真が載っていた。ガイドは子供たちが学校で使う椅子をゲットーに運んでいる様子(学校がゲットーに移されたため、椅子を運ぶ子供たちの写真もあった)を表現していると言う。
 ドイツ軍の許可(当時流行っていた伝染病予防に役立つと判断したため)を得てゲトーのユダヤ人に薬を販売し続けた当時の薬屋が現在も広場の一角にあった。


 クラクフについては全く無知だった。ヨーロッパ(ポーランド)の京都と言われるように古い建築が残っている。それが独自性があって魅力的である。ヴァベル城の大聖堂は教会建築の見本帳のようだ。こんな色々な様式が融合しているこんな教会は見たことがない、内部を見ることができなかったが想像できる。帰国したら調べて見たい。
 中庭で待機しているとガイドさんが「まだまだ」と言い、やがて「そろそろ鳴ります!」と言うと高い塔の窓が開き、短いラッパの演奏が始まった。このメロディーは市民誰でも知っているとのこと。


 聖マリア教会の外観は2つの塔の形が違う違和感があったが内部空間には驚かされた、金と彩色を使い豪華に飾っている、他の国では見られない様式だ。祭壇にある聖像は朝、シスターが開け、夜、閉められるとのこと。これも例を知らない。ポーランド独自のものなんだろう。


 聖マリア教会の前の広場でウクライナ支援募金活動が行われていたが気づかず、同行の女性に教えてもらった。少しでも支援の寄付をすれば良かったと反省している。ウクライナに近いことを実感させてくれた。


 ゲトーの近くにあったシンドラー博物館はユダヤ人迫害の歴史を写真、資料、映像などで紹介している。展示物が多いわりに展示スペースが限られているためた通路が狭く、見るのが大変、博物館のガイドの説明を聞き、展示物を見て回るのは結構きつい。80代か、同行の方が倒れ、病院に搬送された。顔色が悪く、食事もあまり食べられない状態だったようだ。後からの情報では病院で様子を見ることになったとのこと。息苦しいほど狭いスペースが引き金を引いた感がある。命に別状がないことを祈るのみである。アシスタントの青年(通訳兼)が付いて病院に運ばれたのを見届けて見学を再開する。
 シンドラー博物館は3階建、1階(グランドフロア)はチケット売場、クローク、カフェなどがある。展示は1階(2階)から始まる、1940年から41年のクラクフの写真、ユダヤ人の様子、ドイツとソ連のポーランド侵攻図、軍事力バランスなどが展示されている。2階はゲトーの写真や説明パネル、シンドラーの秘書室、オフィス(天井だけが当時のままとのこと)、 シンドラーは当初、ユダヤ人を使ったり、闇で売ったりして大儲けした人物、どちらかと言うと小狡い金の亡者?それがユダヤ人がアウシュビッツ強制収容所に送られことを知ってから人間が変わった。この変身ぶりついて理由(シンドラーの心に何が起きたのか)は分からないとガイドは言う。最後にシンドラーの大きな写真とユダヤの格言 HE WHO SAVES ONE LIFE SAVES THE WORLD ENTIRE  「一人を守ることは世界を守ること」が展示されていた。
 シンドラーは戦後、色々事業を起こしたが全て失敗、晩年は離婚しアルコールに溺れ悲惨だったが最後はユダヤ人に助けられて亡くなったとのこと。シンドラーには経営能力、生活力は無かったように思える、コネを使い、ユダヤ人を使い人件費を抑えることで成功しただけだった。だけどユダヤ人を助ける能力(狡賢さが生きた)に秀でていたのだろう。

  

  ホテル(VIENNA HOUSE)

  

  亡くなったポーランド系ユダヤ人の慰霊碑

  

  ガイドさんの説明を聞く(慰霊碑の小石は「天使への手紙」死者への祈りだそうです。)

  

  メズーザーMezuzah ユダヤ教徒の印跡(申命記の寿節を書いた羊皮紙(筒に入っている)を玄関ドアの横、斜めに打ち付けた)を説明しているガイド

  

  ユダヤ人の住居には必ずあるとのこと(斜めにえぐられた跡があればかってユダヤ人が住んでいたことが分かる)

  

  討論する学者像

  

  アメリカにナチスのユダヤ人迫害を訴えた人物(聞き入れてもらえなかったとのこと)

  

  ガイドの説明を聞く高校生?の団体

  

  ユダヤ人墓地跡(落書きは何て書いてあるのだろうか)

  

  墓地の塀(抽象画のようだ!)

  

  草ぼうぼうの中に守り手がいなくなった墓石が立っていた。

  

  旧ゲトーでガイドさんの説明(地図はゲトーが年々狭くなっていった様子が描かれている)を聞く

  

  旧ゲトー跡にあった彫刻(子供たちが学校で使う椅子をゲットーに運んでいる様子を表している、子供が椅子を運んでい  る当時の写真も展示されていた)

  

  ヴァベル城

  

  入口へ向かうツアーの一行  

  

  城門

  

  

  ヴァヴェル大聖堂(歴代ポーランド君主の埋葬地でもある)

  

  色々な様式が一体になっている不思議な建築(ポーランド文化のダイジェスト?東と西の文化の融合?)

  

  王宮内部

  

  聖アンドリュース教会(1079年〜1098年の間に建てられたロマネスク様式の教会、防塞教会の珍しい残った例、教会はかって要塞だった。)

  

  聖ペトロ聖パウロ教会(ガイドブックによると夜8時から一時間ほど演奏会が開かれているようです。)    

  

  クラクフの街中、左の露店ではパン屋(Obwarzanek オブヴァジャネック、ベーグルの元祖)を売っていた。 

  

  クラクフの中央広場、周囲にはレストランやカフェが中央には露店が並ぶ。

  

  聖マリア教会、なぜか塔の先端の形が異なる。

  

  聖堂内部の美しさに圧倒されました。祭壇中央の聖画は夜になると閉じられ朝に開けられる。

    

パレスチナ人のデモ、背景は中央広場にある織物会館、午前中はウクライナ人の募金活動がありました。ヒットラー政権下、大変な目に遭ったユダヤ人が今度はパレスチナ人に対してヒットラーと同じようなことをしている、ポーランド人はどんな思いか?

  

  昼食をとったレストランで、デモ隊が見える。

  

  メイン料理、途中で気づいて写真を撮りました。

  

  スープは美味しかったです。

  

  デザート

  

  シンドラー博物館(映画「シンドラーのリスト」でも使われた)写真は助かった人々の写真

  

  奥に工場があった。(ここも映画で出てくる)

  

  館内案内図(3階建、意外と狭い)

  

  博物館のポーランド語ガイド(デカイ)、左の日本人ガイドが日本語に翻訳してくれる。

  

  説明を聞く

  

  パネル

  

  ドイツ軍の侵略状況を説明

  

  

  当時のプロパガンダ新聞(復刻)

  

  

  

  会ったことが無い前線にいるドイツ兵士と結婚するドイツ女性

  

  中央広場、聖マリア教会が見える(ドイツ軍の爆撃から免れた)

  

  ユダヤ人の子供

  

  ポーランドとドイツの軍需バランス

  

  従業員の名前か?

  

  ホテルから見た夕方の景色

  

  

  

 

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115回ピースボート世界一周航海記その32(ポルトガル・リスボン)

2024年02月28日 | 思い出の旅行

 2023年ピースボート航海記 その12(ポルトガル リスボン)

ポルトガル・リスボンからオーバランドツアーに参加しました、日程は下記の通りです。長くなるのでポルトガル編、ポーランド編、ローマ編と3回に分けて報告します。

   <予定>
   10月25日 
         リスボンにて下船
         リスボン観光
         ・ベレンの塔  
         ・発見のモニュメント
         ・ジェロニモス修道院
         リスボン〜フランクフルト〜クラクフ
         ホテル泊 ヴェエナ・ハウス・アンデルズ・クラクフ

   10月26日
         クラフク観光
         ・ヴァベル城
           大聖堂
           旧王宮
         ・シンドラー博物館
         ・カジミエシュ地区
           旧ユダヤ人街
           
         ・聖マリヤ教会
         ホテル泊 ヴェエナ・ハウス・アンデルズ・クラクフ

   10月27日
         ・アウシュビッツ強制収容所
         ホテル泊 ホテル・インペリアル・オシフェンチム

   10月28日
         ・ビルケナウ強制収容所
         ホテル泊 ヴェエナ・ハウス・アンデルズ・クラクフ

   10月29日 
         クラフク空港〜フランクフルト〜ローマ
         ホテル泊 スターホテルズ・メトロポール

   10月30日
         ローマ観光
         ・スペイン広場
         ・トレビの泉
         チベタベッキョで本船に合流



              10月25日(水)
    予定
     リスボンにて下船
         リスボン観光
         ・ベレンの塔  
         ・発見のモニュメント
         ・ジェロニモス修道院
         リスボン〜フランクフルト〜クラクフ
         ホテル泊 ヴェエナ・ハウス・アンデルズ・クラクフ

  8時45分、ホイールハウスバー(7階前方)集合、出発。おばちゃん英語ガイド(通訳は同行のアシスタント)を乗せたバスは港を出発し、リスボン市内へ向かう。
  バスの中ではガイドから観光だけでなくポルトガルの平均月収とか共稼ぎが多いとか見につまされる説明もあった。サッカー場2ヶ所通過、緑が多い、やがてアパート群が現れる、住宅街の雰囲気、建物はシンプルで似かよっている、その分、統一されスッキリしている。市街地に入ると坂があり、トラムが走る。おしゃれな店舗も見られる。トヨタ車は少なくなった。
  まず、ベレンの塔が見え、次に巨大なジェロニモス修道院が見えてきた。構成遺産として世界遺産に登録されているとのこと。ベレンの塔は16世紀、マヌエル一世によって作られテージョ川の船の出入りと監視を目的に作られたと言う、外観だけの見学となる。見学前にトイレタイム、係員がいて50セントとのこと、ガイドさんが払ってくれた。スッキリして見学に向かう。
  発見のモニュメントジェロニモス修道院は公園を挟んで向かい合って建っている。発見のモニュメント大航海時代を記念したモニュメントで探検家、芸術家、科学者、地図製作者、宣教師ら30名のポルトガル人の像がある。
  ジェロニモス修道院は大航海時代の富をつぎ込んで作られた。ヴァスコ・ダ・ガマ、エンリケ航海王子の偉業を讃え、1502年、マヌエル1世によって着工、香辛料の売却益で賄われた。修道院と教会を合わせると巨大、どれだけ利益があったか想像がつかない、修道院は長い行列ができており30分の見学時間では無理、諦めて建物を観察、ガラスが嵌め込まれたり昔のまま改修している訳ではない。
  左端に行くと海洋博物館(Museu de Marinha)の入口になっていた。内部の様子を少しでも見てみたいとシニア割引でチケットを購入する。大航海時代の資料(船の模型、武器、造船、技術、測量技術、大砲、食料などを入れる壺、食器など)が沢山展示されていた。展示品もディスプレイ素晴らしい博物館だったが時間が無く、ごく一部のみ見て博物館を出る。
  13時30分、昼食は発見のモニュメントとジェロニモス修道院の間にあるレストランで名物タラ料理をいただく。ワインは久しぶりでもあり美味しかったが料理は多すぎるし私には合わなかったので半分残すことになった。申し訳ありません!
  バスでリスボン飛行場へチェックイン等すべて同行したガイドとピースボートスタッフ(冨岡さん、トミー)がやってくれる。我々は指示に従うだけ。1時間ほど余裕があったので夕食用の食料(パン、名物の菓子)を買う。
  飛行機は1時間遅れ、乗り継ぎ時間が短いので心配になる。ピースボートスタッフは大変だ。私たち夫婦の席は一番後ろ、トイレの脇だった。リスボン空港(予定16:25発)17時30分発、ルフトハンザ機(LH1169)は雨の中離陸、雲の中を飛ぶ、雲が何層にもなっていた。途中、何処だかわからないが明かりが見える、フランクフルト空港周辺は夜景がよく見えた。フランクフルト空港(予定20:25)21時30分着。乗り換えのため、バスは広い空港を走り回る、ゲートにたどり着き、乗り換え便、(LH1370)フランクフルト空港(予定22:15)を待つ。少し遅れてフランクフルト空港を離陸。1時間半のフライトで寂しいクラクフ空港(予定23:45着)到着。
  スーツケースをゴロゴロ音を立てながら転がしバスまで運ぶ、30分ほど走っただろうか、
 12時30分頃にホテル(VIENNA HOUSE)に到着、部屋の割り当て、注意事項があって部屋に入る。エレベータも部屋もカードで管理、スーツケースを開け寝る準備、シャワーを浴びて2時に就寝、明日、起きられるか心配だ。

 

  

  リスボン港着岸風景

  

  リスボン港岸壁

  

   リスボン港風景

  

  有料トイレ(50セント)、ガイドさん(英語)が払ってくれた。

  

  トイレ近くの土産屋さん、コルク製品が多い、早速、物色する。

  

  ベレンの塔  

  

  テージョ川(Rio Tejo) 4月25日橋とキリスト像(右手奥)

  

  望遠で撮った橋とキリスト像 

  

  発見のモニュメント

  

  ジェロニモス修道院(残念ながら中に入れませんでした。)

  

  ジェロニモス修道院のハサードは近くから見るとうんざりする程の装飾過多。 

  

  海洋博物館で  エンリケ航海王子とザグレス「航海学校」

 エンリケを中心に四分儀、アストロラーベ、船の模型、オール、地図を持つ男たちが描かれている。1394年から1460年までのエンリケの生涯でアフリカ探検の出来事が記されている。1415年セウタ占領、1427年アゾレフ諸島、1434年ボンジャール岬、1441年ブランコ岬、1459年シェラ・レオネ、1460年カーボヴェルデ岬などへの到達である。

  

  バルトロメウ・ディアス(1450年頃〜1500年)アフリカ最南端に最も早く訪れた西洋人、乗組員の反対でポルトガルに戻った。

  ヴァスコ・ダ・ガマではない。

  

  海洋博物館、バスコダガマの最初のインドへの航海(1497年〜1499年)

  

  武器

  

  帆船模型(素晴らしい完成度)

  

  アストロラーベ (時刻、日の出、日の入の時刻を調べたり星の観測、建物の高さを測る道具)

  

  観測機器

  

  アストロラーベ(Astrolabio)の使い方

  

  アフリカの地図

  

  大砲

  

  大砲の玉

  

  船の模型(船内も分かる)

  

  セントビンセント岬の戦い(1833年)図 大西洋、セントビンセント岬沖、リベラルの勝利

  

  博物館の空間(元修道院であったことを感じる)

  

  発見のモニュメントの側にあったレストラン、橋を渡って行く。

  

  レストランでエビとカニ

  

  メイン料理、半分残しました。

  

  飛行機から見えた夜景

  

  

  

  

  

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115回ピースボート世界一周航海記その30 (イギリス・リバプール港)

2024年02月19日 | 思い出の旅行

第57日目 リバプール・クルーズ・ターミナル着岸 10月18日(水)
       入港:12時  出航:19日 19時
  天候:
  気温:  日の出:7:42    日の入:18:13 
  曇り、晴れ間も見える、穏やかな天候。飛行機雲がいく筋も見えた。

 咳はだいぶ治る、時々むせる程度。昨日寝る前は弱い薬を服用する。
 8時、カミさんに起こされたが2時間眠ることにする。
 10時、起床、まだ眠いが頑張って起きる。カミさんが持ってきてくれた朝食、ソーセージ、玉ねぎの揚げたもの、野菜、フルーツ、コーヒー牛乳と昨日の残りのパン、卵を食べる。
船内放送でボルドー寄港が水先案内人組合から安全を確保できないとの通知があったことから、寄港中止とする、代わりにルアーブルに寄港するとのこと。
    予定 10月21日 13:00入港  22日 17:00出航
    *全てのツアーは中止、幸いツアーに申し込んでいなかった。
 11時、陸地が見えてきた、住宅が見える
 11時30分、風力発電機2機と港が見えてきた。巨大な施設(サッカー場?)が建設中、遠くにも大きな施設(サッカー場?)が見える。古い建物と新しい建物が混在している。
 12時00分、着岸、川の河口のリバプール港、カミさんは朝食のため14階へ。
 12時45分、上陸許可の放送、カミさんは昼食から帰る。
 13時30分、上陸、乗船してくるクルーズ船のスタッフと入れ違う。クルーズターミナルで地図を入手、質問すると係の人が教えてくれる。近くで分かりやすいことあって今日の行き先を博物館ビートルズ・ストーリーにする。
 眼前に巨大な石造りの建物が3棟並んでいる。由緒ありそう、地図には名称が載っていない。(地図にはTHE THREE GRACESと表されていた)通り過ぎると、人だかり、ビートルズの彫刻前で記念写真を撮るために並んでいる。皆、ビートルズファンになったようだ。少し離れた所で髭を生やしたストリートミュージシャンがギターを弾きながら歌っている。上手い、カミさんは小銭と CDを渡す。頑張って欲しい。
 
 ドックに2隻(1隻はスクーナー船、もう1隻は動力船)の船が展示されている。船には乗れない。ドックは水を抜いてあるので船の固定状態がよくわかる。(地図ではMERSEYSIDE MARITIME MUSEUMと表示)
 
 次に近代的な建物「リバプール・ミュージアム」(MUSEUM  OF LIVERPOOL)が出現、早速入る、入場は無料。先史時代から現代までリバプールの歴史が分かる。沼地で発見された足跡のレプリカ、その一つに「踵が沈んでいるので何か重いものを持っていたのだろう」との説明を読んで、時代を超え近親感を感じた。
石器は日本との共通性(と言うより一緒)を感じる、細石器あったので説明にはなかったが日本と同じ様(木に細石器をつけて刃物として使う)に使ったのだろう。石器加工技術は伝播したこともあったが各地で自然発生的に生み出されたのではと想像する。
 リバプールが造船の街として発展した様子も紹介されている、たくさんのドックがあったこと、関連産業も発達し、鉄道もひかれ工業国として最先端を行っていたのだろう。
 次に、ドックの跡地を商店街に最開発した「ALBERT DOCK」に入る、大きな池(かってのドック)を昔風の赤煉瓦の建物が囲んでいる。カミさんは実演販売するチョコレート屋さんを発見、若い男性が一人で実演し販売していた。何回も捏ねて形を整えていた。
 更に進んで行くと人が集まる一角に出た。看板を見ると「The Beatles Story」の看板を見つける。入場しようとすると外にいた職員に15分待ちと言われる。小雨がぱらつき始めた、そのせいか早めに入場することができた。入場料金は二人で30ポンド、入ると日本語解説付きオーデオを渡される。会場は狭い、なるほど入場制限する訳を納得、順番に見て解説を聞く。ビートルズ誕生のきっかけからスタート、解説だけでなく関係者の声も聞ける。ギターのコードも知らない状態から始まったことに驚く。音楽の知識はなくとも才能豊かな彼らは作曲と演奏活動を進める。最初の活動の拠点「Cavern Club」も精密に復元されている。ステージは狭く(天井も低い)、全体がアナグラのよう。ここで演奏活動を続け、その才能を見出されることになる。そしてハンブルグへ活動を広げる。レコードが売れ始め、人気は高まっていく。ついにアメリカへ、メンバーの思い出に「空港に着いたらエンジン音が聞こえたが止まない、それはビートルズを迎えたファンの歓声だった」とあった。ビートルズ人気はこの頃からは私も分かる。そして日本で演奏することになるが日本での熱狂ぶりはここでは紹介されていない。ビートルズの晩年も詳しく紹介されていた。薬の飲み過ぎで亡くなったメンバーの墓も再現、オノヨウコとその子供の写真や丸メガネ(実物か)もあった。ショップでカミさんが息子にシャツを購入。しっかり見て聞いたのでくたびれた。「The Beatles Story」は狭く、暗い、展示も再現を主としたせいか少し見世物小屋っぽい印象が残った。展示次第でもっと良くなると思った。

 ビートルズ・ストーリーがあるビルの裏側に「戦争博物館」と「奴隷博物館」の表示があったので入ってみる。両博物館も規模が小さく気軽に見ることができた。戦争博物館は日本にも欲しい、無いことが不思議だ。奴隷博物館は奴隷貿易で栄えたリバプールの反省を込めて造られたと思えた。奴隷貿易でイギリスが莫大な利益をあげ、産業革命につながった。一方でアフリカは奴隷貿易で人口が減り経済発展が遅れ貧さから逃れられない状況が今でも続いている。

 パネルで奴隷貿易で莫大な利益をあげた奴隷商人がパネルで紹介されていた。

 PW号の側の3棟の古い建物まで戻り、繁華街を目指す、途中に教会があり、明かりも点いていたので入ることにする。聖歌の練習が聞こえてきた。質素な感じの祭壇、天井の木造が剥き出しなのが珍しい、カトリックではない様に感じた。Parish Church とあった。カミさんは願いを書いて掲示板に貼り付けた。(椅子を片付けていたおじいさんに教えてもらって)
 繁華街へ行くのはやめてアルバートドックのそばにあったパブ「PUMP HOUSE」へ行く。ビール OLD MOUT CIDER Bennies & Cherries)とAMSTER BEERを飲む。OLD MOUT CIDERは果物の香りと味があり美味しく感じたがカミさんは否定的だった、MSTER BEERは普通の軽いビールだった。5時前からどんどん客が入ってくる、ビールを注文し仲間と賑やかに飲んでいる、話し声が店全体を包んでいる。仕事帰りの楽しみなのだろう。
 17時10分、少しほろ酔い気分で船に帰る。今日も頑張った?

 

第58日目 リバプール・クルーズ・ターミナル着岸(2日目) 10月19日(木)
 予定 定期観光バスで繁華街を車窓から見て、メトロポリタン・カテドラル見学、アングリカン・カテドラル見学、ビートルズのゆかりのCaverm Club見学とする。

 一面の雲り空、時々雨が降る。
 8時、起床、眠れなかったので寝起きが辛い。
 8時30分、朝食、パン、茹で卵、サンマ、肉料理、レタス、キャベツ、ニンジン、コーヒー牛乳
 9時20分、帰室、腹の具合が悪い、既に4回トイレ
 10時30分、お腹の調子が良くなったので下船する。
 アルバート・ドックから定期観光バス(City Explorer Liverpoal)黄色路線のバスに乗り、2階に上がる。見晴らしが良い、若い男がマイク片手にガイドをしていた。走行中黙ることは無い、喋りっぱなし。言っていることはほとんど分からない。
 4番、リバプール世界博物館前で降りる、博物館の建物の右手にあった図書館に入ってみる、外観と違って中は明るく、開放的空間。子供用の施設(本を読んだり遊んだりできそう)も併設されていた。カフェもあった。トイレを拝借する。綺麗で気持ち良い。
 移動してミュージアムへ入口付近に小学生がたくさん集まっている、遠足か。中に入ろうとしたらまだ入れないとのこと(多分、そう言ったのだろう)
 バスが来るまでミュージアムの前の公園を散策、日が当たると木と芝生の緑が美しい、枯れ葉が落ちているが緑も残っている。落ち葉2枚(楓と樫か)収集する。汚いと言っていたカミさんも慣れたか、今回は何も言わず、形が綺麗な葉を探してくれた。
 バス停に戻ると黄色いバスが来る、ミュージアムを見ると人が入って行く(開館したのか)残念だけど諦めてバスに乗る。見物を予定していたメトロポリタン・カテドラルは近代的で魅力が感じられなかったので車窓から眺めるだけにし、リバプール・カテドラル前で降りる。この判断が良かったことが後で分かった。
 リバプール・カテドラルは外から見ると何とも大きな教会だ、中に入ると高い天井と巨大な空間に再度驚かされる。ステンドグラスも空間が大きすぎて何が描かれているのか分かりにくい。(ステンドグラスまで距離がある)受付で私たちを見ていた職員が日本語のパンフレットを渡してくれた。日本人だと分かったと言うこと?
 祭壇を見るとミサを挙げているところだった、司祭と十数人の信者が見えたので私たちも前の席に座る、ミサは後半で聖体の聖変化が終わり聖杯拝領が始まった。信者は前の席(拝領のための席)に移動しひざまづいて聖体拝領している、私たちもその席に移り、同じようにひざまづいて司祭からパンをいただく、続いて奉仕者から御血(ワイン)もいただいた。何という幸運、メトロポリタン・カテドラルを見ていたら聖体はいただけなかっただろう、予定変更が幸いした。ミサが終わり、司祭と一緒に写真を撮らせていただいた。日本から来ましたと挨拶し握手をする、大きな暖かい手だった。カミさんは祝福を受けていた。後から司祭は優しい目をしていたと言っていた。
 付属の売店でお土産を買ってカテドラルを出た、教会で奉仕活動をしている障害がある少年がニッコリ笑って見送ってくれた。何か暖かい気持ちに包まれた感があった。
 また、黄色の定期観光の路線バスに乗り、中華街や賑やかな繁華街を通って出発地に戻る。
 昼食を摂るために繁華街を目指す、Chaloner Steetを横断してヒルトンホテル前(LIVERPOOLの大きな看板があり、観光客が記念撮影している)を抜けるとファーストフード店が並んでいる一角に出た。その中の「PRET」に入る、ホットラップ(熱々のサンドイッチ)、Chiken&Basil Hotwrapとカレーぽい味のHotwrap、ボリュームたっぷりのスープ(甘酸っぱい、香辛料が効いたカレーのような熱々スープ、赤い色をしている)を頼む。支払いはカードだから簡単。ホットラップは思った以上にボリュウムがある、半分づつ食べる。スープも見た目以上のボリュームがあったのでHotwrapは一つで良かった、いつも頼みすぎる。イギリス人には丁度良い量なのだろう。
 食後、繁華街を散策、飲食店、衣料品店、化粧品店、宝飾店、土産屋など軒を並べる。道路は広く歩きやすく、地元の人や観光客で溢れている。そんな通りにもホームレスが多く見られた、驚いたことに若い女性もいた、「私は職を探していますがありません、今、空腹です。」と言ったことが書かれた段ボールを持っていた。他にも数人若者と中年の白人だった。ベンチや植栽の片隅に小さなテントがいくつか置かれている。もしかしたらホームレスのネグラかも知れないと思った。
 尿意をもようしたのでいつもの様にファーストフード店を探す、何回も利用している「COSTA」を発見、店は衣料品屋さんの3階にあった。ついでに衣料品も見て回る、男物のシャツを見たがセンスが良いと思った。値段は5、6千円、バングラディッシュ製だ。欧米に限らずトイレで困ったらファーストフード店を利用すると良い、分かりやすい場所にあり、綺麗だ、基本的にはコーヒーを飲んでトイレを借りるべきだがトイレだけでも問題ない。ファーストフード店も進化していて注文はディスプレイでする様になっていた。支払いはもちろんスマホアプリかカード。現金は扱わない店もある。海外旅行に現金がいらない時代(両替が不要)が来ている。
 食器屋さんがあったので覗いてみる。陶器、ガラス、木製品、リネンなど扱っている。モダンなデザインで低価格志向、無印良品、ニトリの様な雰囲気の店だ。日本の商品と比べ高い(日本が安すぎるのかも知れない)小さな焼き物の皿でも10ポンド(1800円位?)日本では300円程度(ニトリ)か?
 4時を過ぎたのでお土産にするチョコレートを買いにアルバートドックへ戻る。先客がおり、賑わっていた。試食する、程よく甘い、チョコレートと何か混ぜた商品のようだ。6袋購入する。カミさんのお土産熱は冷めることが無い、どこに行ってもお土産を探す情熱は消えない。
 船に帰る前に、昨日行ったパブ「PUMP HOUSE」へ行く。「ナンバーワンとナンバーツービール」と言って注文するとPEROM とEstrella(スペイン、バルセロナ)を推薦してくれた。昨日と同様、5時前にも関わらず客が入って来る。ほとんどの客はグループ(男だけでなく女性も混ざっている)で大きなカップでビールを飲み話をしている。会社のことかサッカーチームのことか家庭のことか社会問題か?中には一人で飲んでいる人もいた、中年と老年の境にいる小柄な男、椅子に座らずカウンターに寄りかかり静かにビールを飲んでいる、飲み終えたので帰るのかと思ったら又注文していた。周囲を見ると一人飲みも数人いた。店の雰囲気を楽しんでいるのか?5時前に店を出る。
 雨が降り始め、傘をさして船を目指す、地元の人はあまり傘をさしていない。濡れて歩いている。ターミナルはごった返している、入船できないようだ。ターミナルの土産屋さんは待機しているお客さんの買い物で大賑わい。、余ったポンド(8ポンド?)を使い果たすために土産を探す、カミさんが3点選び釣り銭なしの買い物をしてくれた、すごい能力だ!

 しばらく待って入船開始、思い残すなく船に戻る、5時だった。部屋で荷物の整理をし少し休む。
 7時、夕食、おにぎりに挑戦(海苔を茶碗の底に2枚ひいてふりかけご飯をのせ少し潰して海苔を2枚のせる握るように押して成形)、味噌汁、レタス、キャベツ、ニンジン、オレンジ、スイカ、紅茶
 8時、帰室、記録の整理

 

  

  リバプール港着岸風景

  

  着岸した埠頭

  

  ビートルズが迎えてくれました。

  記念撮影のスポットになっています、皆さん写真撮影の順番を待っています。

  

  ビートルズ像の隣で歌うストリートミュージシャン 

  

  海事博物館(Marintime Museum) 船が2艘展示されていた。

  

  三本マスト補助スクーナー船 40年間、貨物、石炭、木材、石材をリバプールやアイルランドに運搬していた。 

  乗組員は5名、少年1名(説明パネルから) 

  

  ドックと船の固定方法が分かる。

  

  海事博物館の説明パネル

  

 リバプール出身の勇敢だったタイタニック号の機関士の慰霊塔

  

 説明パネルの概要「記念碑は1912年4月15日、処女航海中のタイタニックが沈没した際、命を落とした244人の機関室のスタッフに捧げられた。彼らは他の人たちが生き残れるように持ち場に長くと留まり電力やその他の設備を供給していた。」 

  

  博物館の展示品(古代人の足跡、重いものを持っていたのか足跡が深い)

  

  石器(縄文時代の石器と変わらない、石器は世界共通か?)

  

  展示品 植物、細石器など

  

  装飾品など

  

  入歯(昔から人類は歯で困っていた)

  

  中世の食器

   

  磁器(中国製?交易があった)

  

  産業革命を推進した蒸気機関車

  

  リバプール鉄道(Liverpool Overhead Railway)世界初の電気高架鉄道、自動信号、電気色光信号などを初めて使用、鉄道駅に最初の旅客用エスカレータが設置された。最先端の鉄道と言える。1893年3月6日開業、全長11km、ドックの従業員用か?1956年大規模な修理が必要になり1956年、廃業、翌年解体。

 

   

  路線図、10kmに渡たる数多くのドックを結んでいたことが分かる。 

  

  ローラースケート

  

  第一次世界大戦時の有名な新兵募集ポスター、これで300万人の兵を集めることに成功した。指をさしているのは当時の陸軍大臣、ホレイショ・キッチナー (Wikipediaから) ヒットラーはイギリスのプロパガンダを高く評価していた。 

  

  不思議な展示物、原始人と現代人が対峙?

  

  博物館からの展望、パシフィック・ワールド号が見える。

  

  マージー川の柵(不思議な風景)

  

  近づいたら鎖に無数の鍵がぶら下がっている。縁起物と思われる、昔、中国のウルムチに行った時、同じような風景に出会った。ガイドから男女が結ばれますようにとの願望の意味と説明された。

 

  

  ホットドック屋さん

  

  モダンな家具が目についた。

  

  こんな彫刻も

  

  ビートルズ・ストーリー(地下にあります)の入口

  

  展示物

  

  スター・クラブ

  

  若し頃の写真

  

  なぜか福助が

  

  仕事場

  

  ビートルズ・ストーリーのトイレ、イエローサブマリン?

  

  再現されたキャラバン・クラブのカウンター  

  

  キャラバンクラブ(再現)ビートルズが演奏した小さなステージがある。

  

  当時の写真、ネクタイしている!

  

  通りを再現(怪しげな雰囲気が出ている)

  

  ジョンレノンのメガネ

  

  UP

  

  ヨーコと子供の写真

  

  カフェと土産屋さんもあります。

  

  奴隷博物館展示品

  

  同、足鎖、手鎖

  

  同、奴隷船(狭い空間に押し込められた)

  

  同、クークラックスクラウンの服装

  

  トーマス・レイランドはリバプールの奴隷商人の一人、1782年から1807年の間に70回以上の航海で25,000人を輸送した。レイランドはリバプールで最も裕福な人物の一人レイランド・アンド・ブリンズ銀行を設立

  

  戦争博物館の展示写真

  

  同、展示品

  

  パブ「PUMP HOUSE」

  

  ビールサーバー、10種類選べます。

  

  ビールがうまい

  

  <翌日19日> 

   

  リバプール世界博物館

  

  博物館に隣接されていた図書館、子供用と思われる空間が多い

  

  図書館の内部空間

  

  日本の漫画のコーナー

  

  リバプール・カセドラル、巨大な教会だった。

  

  聖堂内の空間も物凄い、人物と比較して下さい。

  

  ミサ風景、聖杯拝領は祭壇前の椅子で受けます。

  

  司祭と記念写真を撮りました。

  

  ファーストフード店「PRET」でカレー味のスープとホットラップはボリューム満点でした。 

  

  

  

  

    

 

  

  

  

  

 

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