ある御老師からいただいたハガキに、次の言葉が添えてありました。
『「口」も濁れば「愚痴」になる
「意志」も濁れば「意地」になる
「徳」も濁れば「毒」になる』
素晴らしい言葉を「クチ」にしたとしても、心の中が嫉妬や欺瞞、欲望に満ちていたら、気づかないうちに言葉の端々に「グチ」が入ってしまうものです。
「イシ」を強く持って一つの事を成し遂げようとしても、周囲のことを考えず自分本位で行動したら、あの人は「イジ」でやっているとしか思われません。
いくら「トク」を積んだからといっても、それを自慢し鼻に掛けてしまったら、それは本人にとっても周りの人にとっても「ドク」にしかならないものです。
「濁りのテンテン」、濁点がついただけで、それぞれの言葉の意味は大きく変わってきます。
この「濁りのテンテン」っていったい何なのでしょう?
そう、それは「俺がやってやってるのに」とか「私が言ってあげてるんだから」とかいう「俺が俺が」「私が私が」の「が」。
つまり「わがまま」の「我」が「テンテン」になって心にくっつくと、
口も愚痴に、意志も意地に、徳も毒になってしまうのです。
毎日の生活の中で、気づかぬ間に心のどこかに「濁りのテンテン」がついていないか、時には省みてみることも必要でしょう。
年回忌やお盆、お彼岸の時だけがご供養の時ではありません。
日常の生活の中で故人様を想いだすその折々に、
「あの方に話したことが愚痴になっていないだろうか」
「自分では良いと思っているけど、意地になっていないだろうか」
「いつの間にか毒を撒いているようなことをしていないだろうか」
そんなことを胸に浮かんだ故人様やご先祖様に問いかけてみることも、よい供養になるのだと思います。
にこにこした顔が心に浮かんでくるのであれば、よし、大丈夫、さらに精進を重ねよう、ということになりますし、
もし困った顔が浮かぶのであれば、自分のどこかに「濁りのテンテン」がくっ付いているかもしれない、と考えて
「脚下照顧」いま自分のたっている場所をもう一度見直してみる、ということも大事な供養なのです。
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今日の写真は、野の花やタラの芽など、ふだん目につかないところに咲いている花を中心に掲載しました。
もちろん、霊園に咲いている花たちです。
stayhome・・・
幸いなことに時間はありますので、カメラをもってお墓の見回りに精を出しています。
今日はここまで。