『みんなのお寺』 ブッダによる幸せの種がまかれた園

宗派を超え、国境を超え、時を超えて、仏教・ブッダの教えの真理に触れる事の出来る幸せの精舎を目指す『お寺』です

みんなのお寺への質問

2007年11月06日 | 悩み事・質問


悪口をいったらだめですね。
気をつけます。ぜーんぶ繋がっているから、結局自分のところに帰ってくるんだね。
 でも、気づかないうちに相手がいやな思いをしているときもあるけど、それはどうしたらいいんですか?



『人は、角を立てながら他人を損ない
 人は、他人を損ないながら他人を傷つける
 人は、他人を傷つけながら己を省(かえり)みて
 人は、己を省みながら角を立てることを知り
 人は、角を立てることを知りながら丸くなることを知る
 人は、丸くなりながら苦しみを見つめる時がある
 人が、苦しみを見つめる時正しい宗教を求める
 私が正しい宗教を求めた時ブッダの教えがあった』

私が書いた『角を立てながら』という詩です

自分自身の悪口(あっく)という行為に気づかず角を立てている時

他人を傷つけてしまう

そういったことは気付かずに行っているかもしれませんね

悪口を言って角を立てている事に敏感になる為には慚愧(ざんぎ)の心を育てる事をお勧めします

慚愧(ざんぎ)とは自分が行った悪い行為について恥じるという事です

慚と愧を分けて説明してみますと

慚は内心に恥じる、自分が行った悪い行為に対して自分自身が恥じる事で

愧は外心に恥じる、自分が行った悪い行為に対して人の目に対して恥じる事です

人を傷つけ悪い事をしてもへっちゃらな人っていますよね

その人はこの心が育っていないのです

悪い事をした時に、「申し訳ない事をしてしまった~」と心で感じる気持ちが育つ出発点は自分を大切に思えるようになったときです

私は愛されているんだ

と無上の慈しみの愛情を与えられた人です

子どものうちに母や父、祖父や祖母などから無常の慈しみの愛情を与えられていれば自分を愛することができる人間になることができます

自分を愛することができる人間は無意識のうちに他人の気持ちにも敏感になり、自分が思うところの思いやりを他人にも持つことができるのです

しかししっかりと慈しみの愛情を与えられずに育っている人は、自分を大切に思えませんから、自分を滅ぼしていくような行いや悪い人に近づいていく傾向が強いです

また思いやりの心も非常に少ないので他人に対して悪い事をしてもへっちゃらです

話は少しずれましたが、大切なのは慚愧(ざんぎ)の気持ちを常に持ち、自分が角を立てていることに気付き、それに敏感になり続ける事が大切だと思います

その気付きを肯定的にとらえて、次からは同じ過ちを繰り返さない、その気持ちが最も大切です

また自分を大切だと思えない心を持っている人は自分を慈しんでくれる誰かを見つけるか、また周囲の人がそういった地域社会をつくっていってあげる事です

ブッダは、人の行為を非難しますが、人格を否定することはしません

仏弟子の悪い行為に対し、心の底から懺悔すれば許してくれました

「嫌な思いさせてしまいませんでしたか?すいません」

この一言で自分の心も相手の心もすっきりするものです

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