妻子のなかった細川政元は、養子を迎える。
A、足利澄元のイトコで前太政大臣、九条政基の子・澄之。丹波守護に。
B、阿波守護家の細川成之の孫・澄元。摂津守護に。
C、宿老格の細川野州家から高国。
1504年(永正1)9月、摂津守護代・薬師寺元一が、頭がオカシイ政元を追放しようと淀城で挙兵。
したけど、滅された。
背後に細川成之の存在を疑った政元。
三好之長は先制を期して淡路に攻め込み、政元も応戦に出陣したけど、Bを養子に迎えることで和解。
1507年(永正4)4月、一色氏残党が若狭で暗躍するんで、管領・細川政元自ら丹後に出陣。
一色義有を阿弥陀峯城に、守護代・延永春信を今熊野城に包囲したけど、攻めあぐねてるのを見たAは一計をめぐらす。
賀悦城を表向きには攻め落としたことにして、密かに石川直経と和議を結び撤兵。
本隊も京都へ引き上げた。
6/23、平素の生活に戻った政元を暗殺したAは、6/24、Bも襲って近江に敗走させた。
留守部隊として阿弥陀峯城を包囲してた赤沢朝経も、石川氏の襲撃にあい自害。
河内高屋城にあった政元直属の武将らも浮足立ち、反政元党の畠山義英に攻められ落城した。
7/8、Aが家督を継いだ。
けど、すぐに反Aの陰謀が持ち上がり、Cが中心となって細川一族をB一本にまとめた。
7/28、茨木城・薬師寺長忠を落としたのを皮切りに、嵐山城・香西元長も落とし。
テンションあげあげで8/1、Aが京都で臨時屋敷としてた遊初軒に攻め寄せ、A一派は全滅した。
1507年(永正4)8/2、Bが家督に就く。
三好之長の専横に、反発する勢力がCのもとに集まる。
対抗する軍事力を持つ周防長門筑前豊前守護・大内義興宅に居候してる、前将軍・足利義材を仲間に加え。
1508年(永正5)3/17、京都を出奔したCは伊賀守護・仁木高長宅に身を寄せ、丹波守護代・内藤貞正&摂津の伊丹元扶と結んで挙兵。
敵だらけになり絶体絶命のBは、4/9、邸に火をかけ甲賀・山中為俊宅へ逃げた。
将軍・足利義澄は、近江岡山城・九里氏のもとへ流寓。
長子・亀王丸を赤松氏に託す。
4月末、堺に上陸した義材が将軍に返り咲き、Cが家督に就く。
なんとか阿波瑞勝城へ逃げ帰ったBは、1511年(永正8)7月、リベンジへGO。
和泉方面へ派した前摂津欠郡守護・細川政賢&和泉守護・細川元常は、深井城の合戦でCの軍勢を破り→中嶋城へ攻めのぼり→8/16、京を落とす。
兵庫灘方面へ派した淡路守護・細川尚春は、芦屋河原の合戦で大敗するも、赤松義村が到着し鷹尾城・瓦林政頼を攻略。
8/24、船岡山の合戦となるも、大内義興に大敗を喫した。
Bは阿波に戻りチャンスを待つ。
1517年(永正14)9月、三好之長は水軍ほしさに淡路守護・細川尚春を攻める。
翌年(永正15)、大内義興が帰国しCの軍事力が低下。
http://d.hatena.ne.jp/rina-chan/20180614 神呪寺
1519年(永正16)10月、BはまたリベンジにGO。
池田久宗が先陣を申し出、下田中城に籠城し緒戦を飾った。
11月、本隊が上陸し、越水城・瓦林政頼を攻める。
Cが池田城に到着するまで持ちこたえたけど、翌年(永正17)1月、手薄になった京で徳政一揆が起こり、家督争いどころじゃなくなる。
押され続けて総崩れとなり、Cは園城寺へ逃げた。
伊丹城で病床にあるBが家督に就く。
復活を期すCは、近江の六角氏、朽木氏、越前の朝倉氏、美濃の土岐氏、丹波の内藤氏と呼応して出陣。
5/5、等持院付近で戦闘開始。
Bは陣頭に立てず、三好之長が奮戦したけど寝返る者が続出し大敗。
翌日、通玄寺に隠れてるのを見つかっちゃった三好一族は、細川尚春の遺子の懇願で刑死。
Bも勝瑞城へなんとか逃げ帰ったものの、病死した。
Cが家督に復活。
1521年(大永1)3月、将軍・足利義材が淡路へ出奔したんで、赤松氏が預かってた足利義澄の子・義晴を新将軍に立てる。
1526年(大永6)7月、C細川高国は、弟・尹賢の讒言で執事・香西元盛を誅殺。
香西氏の兄の八上城・波多野元清&子の神尾寺城・柳本賢治は、B'細川晴元&三好元長を擁して復讐に立つ。
神尾寺城を攻めの最中、丹波守護代・内藤国貞がCを離反して八木城に帰り、黒井城・赤井忠家は背後から襲いかかって、Cは総敗北となった。
12月、阿波から先鋒として三好政長らが堺へ上陸し、堀城を占拠。
1527年(大永7)1月、京都へ進軍した丹波勢は野田城&山崎城を落とす。
2/13、桂川原の戦いにも敗れたC&将軍・足利義晴は、近江へ逃げた。
3月、B'&新将軍・足利義維が堺へ上陸し金蓮寺に入る。
9月、三好元長が断固屈服しない伊丹元扶を攻めに出陣すると、Cは朝倉教景を連れて入京。
したけど、権力を奪い返すには至らず。
翌年(大永8)5月、Cは近江永源寺に、足利義晴は朽木稙綱んちに難を避けた。
あちこち援軍を頼みまくったけど断られ続けたCは、三石城・浦上村宗にやっとOKをもらう。
播磨では浦上&赤松vs別所&小寺の東西対立が続いてて。
1529年(享禄2)6月、浦上村宗は在田氏を攻め落とし。
9月には三木城南口で合戦。
1530年(享禄3)6/12、中道寺で合戦し、勝利。
その勢いで摂津へ乱入し、滝山城、伊丹城を落とした。
6/29、別所氏から依藤氏討伐の援軍を頼まれ、三木城へ向かう柳本賢治も暗殺。
7月、諸城を落とし播磨を制圧する。
8月、Cの主力として摂津へGO。
B’は高畠甚九郎を伊丹城に、薬師寺国盛を富松城に入れて防御に当たったけど、三好元長がいない堺幕府の軍事力はしれてた。
富松城、伊丹城、大物城、最大の要衝・池田城も陥落、摂津を制圧。
1531年(享禄4)閏5月、いよいよ堺のB’を攻めに。
という時、赤松晴政が寝返って、父の仇である浦上村宗を急襲し討った。
総崩れとなってCは命からがら尼崎の町家に隠れたけど、見つかって広徳寺で自害させられた。(大物くずれ)
細川政元の養子3人の争いはB'が生き残った。
一件落着かと思いきや、さっそくB'と三好元長の内部抗争が起こる。
◆細川晴元、木沢長政、茨木長隆、三好政長、摂津国人
◆三好元長、畠山義英、足利義維、三好一英、阿波国人
守護代・木沢長政が、河内守護・畠山義英を飛び越えてB'へ転属を画策。
畠山義英は三好元長と手を組み、1532年(享禄5)5月、飯盛城を攻めた。
落城寸前まで追い込んだけど、B'が本願寺に援軍を頼んだことで逆転。
法華宗の庇護者であった三好氏討滅に押し寄せた一向一揆の大軍に総崩れとなった畠山義英は、高屋城を落され、命も奪われた。
三好元長が逃げ帰った顕本寺も襲われ、自害。
足利義維は四国追放。
本願寺門徒は調子に乗って暴走。(享禄・天文の乱)
7/17、興福寺を丸焦げに。
8月には、B'や木沢長政も襲った。
これを法華一揆で鎮圧しようとしたけど、狂信者同士の殺し合いに発展。
8/24、山科本願寺を丸焦げにされた証如は、門徒あげての抵抗を呼びかけ、騒動は更に拡大。
12月、富田教行寺を攻め落として一向一揆の洛中侵入を阻止したB'は、証如が移った石山本願寺を包囲。
したけど、1533年(天文2)2/10、堺を落され淡路へ逃れる。
一向一揆は3月、伊丹城を包囲。
したけど、3/29、法華一揆を率いた木沢長政が打ち破って盛り返す。
6/18、C'細川晴国がB'派の薬師寺国長を討ち取ると、新敵登場に和睦に傾き。
6/20、B'に帰参した三好長慶の仲介で終了。
となるハズが、1534年(天文3)3月、下間頼盛が証如を人質に取って反対したため、おじゃんに。
B'は法華一揆対策に延暦寺と結ぶ。
1536年(天文5)7/27、延暦寺は六角定頼の支援を受け、法華一揆を壊滅状態に。
7/29、中嶋城に籠城してた一向一揆も木沢長政&三好政長に攻略され、下間兄弟も粛清された。
8/29、C'も味方の裏切りで自害に追い込まれ。
11/7、B'と前将軍・足利義晴が和睦し、戦乱は収束した。
1539年(天文8)、三好長慶と三好政長が、河内17ヶ所の大官職をめぐって対立。
B'が政長に味方したんで、長慶は挙兵。
摂津一国を瞬く間に制圧し、山城に侵攻した。
7/28、六角定頼の調停で和睦となり、摂津下郡代を得て越水城に入る。
も、旧C系の国人と衝突が相次ぐ。
1541年(天文10)7/19、三好政長と共同で上田氏を攻め、自害に追い込み。
9/6、Cの妹婿の一庫城・塩川国満を囲んだ。
木沢長政が畿内国人の大半を率いて国満の援軍に向かい、三好軍を破る。
1542年(天文11)3/9、河内守護代・遊佐長教は、高屋城から木沢派の河内守護・畠山政国を追い出し、畠山稙長を復活させる。
3/17、木沢&政国は反撃に出、両軍は落合川付近で激戦に。
木沢氏は討ち取られた。(太平寺の戦い)
1543年(天文12)7月、C"細川氏綱が堺で挙兵。
畠山稙長、遊佐長教、根来寺衆徒らと槇尾寺に籠城するも撃退される。
1545年(天文14)5/6、丹波の上野元全が井手城を攻略し&7/27、内藤国貞も挙兵したけど、畠山稙長が死去で失敗。
1546年(天文15)、遊佐長教&畠山政国のバックアップを得て、南近畿でC"勢力がまた活発化。
8/16、B'の本拠である堺を攻撃。
9/4、勢いに乗じて摂津欠郡郡代・山中又三郎が籠る大塚城を落し、摂津有力国衆を寝返らせた。
京都を制圧され、B’は神尾山城へ避難。
三好長慶の弟たちが阿波・讃岐・淡路から到着し、反撃開始。
摂津の諸城を陥としていき、1547年(天文16)7/19、C"と結んで挙兵した将軍・足利義晴の籠る将軍地蔵山城を六角定頼と包囲し落とす。
残る遊佐長教攻略へ、7/21、両軍は舎利寺周辺で激突。(舎利寺の戦い)
大敗した遊佐&畠山氏は高屋城に籠城。
落すことができず、1548年(天文17)4月、和睦する。
5/6、B’は池田信正をC”に味方した罪で自害に追い込んだ。
継承した子・長正は、8/11、祖父である三好政長に同与する一派を池田城から追放する。
三好長慶は三好政長排除の請願書を提出するも、B’はやっぱり耳を貸さず。
10月、堪忍袋が切れた長慶は、C”&遊佐長教と共に叛旗を翻す。
1549年(天文18)、長政の子・政勝が籠城する榎並城を包囲。
5/2、総持寺の西河原で香西元成が敗れ、5/9堺に進攻した岸和田氏&木沢氏も敗れ。
劣勢のB’は5/28に三宅城へ、6/17に三好政長が江口城に陣取って、水上交通の要衝を抑えた。
三好長慶はこれを分断包囲させ、6/24襲いかかる。
糧道を絶たれて孤立し、応急の砦はあっちゅう間に落城。
三好政長は逃走しようとしたけど、追撃され討死。
三好政勝&B’は逃亡し、7/9、三好長慶はC”を奉じて入洛した。
摂津で抵抗を続ける伊丹親興を、1550年(天文19)1/11、ボコボコにしようとしたところ、遊佐長教が仲介に入り和議が成立。
江口の戦いは終結した。
1551年(天文20)3/7&14の2度にわたって、将軍・足利義輝は三好長慶に刺客を放った。
未遂に終わったけど、C”陣営で南畿内をまとめてた遊佐長教、筒井順昭を失った。
7/14、丹波宇津城に匿われてた三好政勝が香西元成ら丹波勢と入洛。
相国寺で戦闘し、お寺が丸焦げになっただけで帰宅。
1552年(天文21)1/2、六角定頼死去。
後継の六角義賢は、将軍と三好長慶の和睦を成立させる。
C”が細川本家の家督として認められ、B’は3/12、出家して若狭へ落ち延びた。