1553年(天文22)3月、将軍・足利義輝が三好長慶との和睦を破棄。
7月、丹波勢が西院城を攻めた。
8/1、救援に向かった長慶勢が霊山城を攻めて自焼に追い込み、将軍やB'は没落。
摂津で挙兵した芥川孫十郎&池田長正も、援軍を撃退され降伏した。
9/3、松永久秀&長頼兄弟が丹波へ出陣し、数掛山城・波多野秀親を囲んだ。
けど、香西元成や三好政生に背後から襲われ、内藤貞国が戦死。
八木城も攻略されそうになったけど、松永長頼が救った。
天文21年に将軍が備前&美作守護を尼子氏にチェンジしたことで、赤松配下の別所&明石氏が離反。
1554年(天文23)8/19、落葉山城・有馬村秀の援軍を得て、三好長逸が三木城・別所村治の城を7つ落とした。
1555年(天文24)1月、三好実休が明石へ出陣&三好長慶が太山寺城に布陣。
大軍に囲まれた枝吉城・明石氏はゴメンナチャイした。
三木城もまた攻められて、赤松氏と和睦することを条件にお仕置き終了。
赤松グループは長慶派に。
朽木に追放中の将軍は、世間からシカト状態。
朝廷が改元を三好長慶に相談して決めたことにムカつき、挙兵。
三好政生・香西元成・六角義賢の援軍を得て、1558年(永禄1)6/4、如意岳に布陣、鹿ヶ谷で戦うも負ける
近江や紀伊、丹波の反長慶勢力を糾合して挽回しようとしたけど、12/2、和睦して妙覚寺に入った。
京都に戻った将軍に諸大名が謁見に訪れる。
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旧主・細川氏の分国を支配下に治め、将軍&B’に同与する勢力を排除する戦いから、永禄1年以降は領土拡大戦争に性質を変える。
1560年(永禄3)、畠山高政征伐へ。
河内&大和に攻め込み、優勢に戦いを展開した。
10/2、B'が香西氏らと挙兵するも、内藤宗勝(=松永長頼)が一掃。
10/15、根来寺が援軍に来たのも打ち破る。
アテがなくなった畠山高政は、開城して堺へ退去した。
1561年(永禄4)、国吉城・栗屋勝久&砕導山城・逸見昌経が、内藤宗勝の支援を受けて、若狭守護・武田義統に反乱。
したけど、朝倉氏の援軍に敗北。
4/23の十河一存死去を契機に、六角承禎と畠山高政が手を結ぶ。
三好長慶がB'と和睦すると、六角氏はB'の子・細川晴之を擁立して挙兵。
7月、六角軍は勝軍地蔵山に進出、畠山&根来寺軍は岸和田城下へ。
三好実休が援軍に向かうも城に入れず、久米田寺を本陣とする。
1562年(永禄5)3/5、久米田の戦いは三好方が押しまくったことで本陣ががら空きとなり、実休が討死。
対六角の軍も総崩れに。
2年ぶりに高屋城に入った北畠氏は、三好長慶が籠る飯盛山城を包囲し、出城を攻略。
5/14、松永久秀が援軍を揃えて到着。
挟み撃ちにされた畠山高政は教興寺の激戦で総崩れに。
入洛してた六角氏も慌てて近江へ逃げ帰った。
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1563年(永禄6)3/1、B'死去。
12/20、C"も死去した。
8/25に三好長慶の子・義興が死去したため、十河一存の子・義継を養子に。
1564年(永禄7)5/9、安宅冬康を飯盛山城に呼んで殺し、家督継承の不安の種を断つ。
7/4、三好長慶、極秘で死去。
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教興寺の戦いで、真の敵は将軍・足利義輝であることを知った。
娘を人質に取ったけど安心はできず、1565年(永禄8)5/19、三好義継、松永久通、三好長逸らは御所を攻撃し、将軍をぶっ殺す。(永禄の変)
7/28、朝倉義景の調略で、弟・足利義昭は甲賀和田城に逃れた。