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細川家内乱⑤ ×三好政長

2016-10-10 | 戦国三好一族

1543年(天文12)7月、C"細川氏綱が堺で挙兵。
畠山稙長、遊佐長教、根来寺衆徒らと槇尾寺に籠城するも撃退される。
1545年(天文14)5/6、丹波の上野元全が井手城を攻略し&7/27、内藤国貞も挙兵したけど、畠山稙長が死去で失敗。
1546年(天文15)、遊佐長教&畠山政国のバックアップを得て、南近畿でC"勢力がまた活発化。
8/16、B'の本拠である堺を攻撃。
9/4、勢いに乗じて摂津欠郡郡代・山中又三郎が籠る大塚城を落し、摂津有力国衆を寝返らせた。
京都を制圧され、B’は神尾山城へ避難。

三好長慶の弟たちが阿波・讃岐・淡路から到着し、反撃開始。
摂津の諸城を陥としていき、1547年(天文16)7/19、C"と結んで挙兵した将軍・足利義晴の籠る将軍地蔵山城を六角定頼と包囲し落とす。
残る遊佐長教攻略へ、7/21、両軍は舎利寺周辺で激突。(舎利寺の戦い)
大敗した遊佐&畠山氏は高屋城に籠城。
落すことができず、1548年(天文17)4月、和睦する。

5/6、B’は池田信正をC”に味方した罪で自害に追い込んだ。
継承した子・長正は、8/11、祖父である三好政長に同与する一派を池田城から追放する。
三好長慶は三好政長排除の請願書を提出するも、B’はやっぱり耳を貸さず。
10月、堪忍袋が切れた長慶は、C”&遊佐長教と共に叛旗を翻す。
1549年(天文18)、長政の子・政勝が籠城する榎並城を包囲。
5/2、総持寺の西河原で香西元成が敗れ、5/9堺に進攻した岸和田氏&木沢氏も敗れ。
劣勢のB’は5/28に三宅城へ、6/17に三好政長が江口城に陣取って、水上交通の要衝を抑えた。
三好長慶はこれを分断包囲させ、6/24襲いかかる。
糧道を絶たれて孤立し、応急の砦はあっちゅう間に落城。
三好政長は逃走しようとしたけど、追撃され討死。
三好政勝&B’は逃亡し、7/9、三好長慶はC”を奉じて入洛した。
摂津で抵抗を続ける伊丹親興を、1550年(天文19)1/11、ボコボコにしようとしたところ、遊佐長教が仲介に入り和議が成立。
江口の戦いは終結した。

1551年(天文20)3/7&14の2度にわたって、将軍・足利義輝は三好長慶に刺客を放った。
未遂に終わったけど、C”陣営で南畿内をまとめてた遊佐長教、筒井順昭を失った。
7/14、丹波宇津城に匿われてた三好政勝が香西元成ら丹波勢と入洛。
相国寺で戦闘し、お寺が丸焦げになっただけで帰宅。
1552年(天文21)1/2、六角定頼死去。
後継の六角義賢は、将軍と三好長慶の和睦を成立させる。
C”が細川本家の家督として認められ、B’は3/12、出家して若狭へ落ち延びた。