この間、いろいろのことがあった。
『新潮』9月号、多和田葉子「レシート」を読む。
飛行機事故によって、記憶をなくした女に残された手がかりは、ポケット一杯のレシートの束。
自分の名前がなくなるというのは、どういうことなのか。
筋が追いやすく、読みやすいけれど、私はあまり良いと思わなかった。
理知に走りすぎていて、言葉の力が弱くなっているから。
多和田作品には、神懸かり的な言葉の力が作者も読者もぐいぐい引っ張っていって、一気にラストまで突っ込んでしまうような感じがある。読み終わると、身体の中に熱がこもっているような感じがある。
でも「レシート」にはそれがなかった。理屈や筋、辻褄に走って、言葉が走っていない気がした。それだけに伝わってくるものも薄いのだった。
多和田作品を評する人は、彼女のエッセイやインタビューを多用する。
作品がやや難解なため、作家自身の平易な文章はちょうどよい解説になるのだ。
けれど、
「小説以外」は「小説」の参考にはなっても、それじしんにはなれない。
すでに「小説以外」に触れてしまった者からみれば、「小説」しか知らない読者のほうが、幸福かもしれないと思うときがある。
多和田作品(小説と詩)には、解釈を超えた何かがある。いくら多和田さんじしんが自分の小説について小説以外で言葉を尽くしたとしても、それを超えるもの(言葉にならないもの)が、小説の言葉の中にはあるのだ。
その小説世界に、私じしんも裸になって潜っていくときに私が体験するものは「小説以外」では絶対に味わえないだろう。
そういう力を「小説」に持っている作家は、少ないと思う。