蓼食う虫

東京に住む中年女の独り言。読書日記を中心に、あまから時評などもお送りします。

ジュディ・デンチ主演の映画 "Notes On A Scandal"

2007-02-09 06:30:56 | Weblog

 2007年のオスカー
「Notes On A Scandal」(邦題「あるスキャンダルの覚え書き」)で主演女優賞にノミネートされていたジュディ・デンチ
 http://www.foxsearchlight.com/NOAS/

 ランダムハウス講談社から原作↓が出ているようだが、
 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4270000392/ref=ord_cart_shr/249-3982587-1034701?%5Fencoding=UTF8&m=AN1VRQENFRJN5

 オフィシャルサイトの予告編を見てかなり興味を引かれた。
 レズビアンであるベテラン教師(ジュディ・デンチ)が同僚の女教師(ケイト・ブランシェット)の秘密を握ったことから展開していくドラマらしい。
 怖そうな内容だけど、老女の若い女性への妄執というなかなかないテーマが面白そうだ。予告編だけでジュディ・デンチかなり怖いよ~。

 ゴールデングローブ賞でもノミネートされていたようだが、同カテゴリー(コメティ・ドラマ部門)で受賞したメリル・ストリープが受賞のスピーチで、

 自分の主演映画(「プラダを着た悪魔」)はロードショウ公開されたために多くの人に見てもらうことができて幸運だったが、Notes On A Scandalのような(名優が演ずる女性が主人公の映画)素晴らしい映画がミニシアターでの上映にしか至らなかったことがとても残念だ、と興行成績重視の映画業界を暗に批判していたそうだ。
 M・ストリープ、さすがだね。


手作り人工受精

2006-11-16 15:40:31 | Weblog

 昨夜、多和田葉子を囲むシンポジウムを聞きに行った。
 有名な学者先生(男)たちに囲まれた多和田さんはさながらアイドル。
 新刊『アメリカ 非道の大陸』の感想や、翻訳文学のことなど。
 どの先生も多和田作品を褒めちぎっていたが(最長老の先生がひとり何か言いたげだったが)、日本では大体どこでもこういう感じで賞賛の嵐、褒められる視点も大体同じなので、読者の私はいささかお腹いっぱいいっぱい。

 誰でも褒められたら嬉しいものだが、欧米ではいざ知らず、日本に来ると(批判的な視線が皆無で)いつもいつも絶賛の嵐な多和田さんは、かえって居心地悪くないんだろうか、などとふと思ってしまう天邪鬼な私。

 もう一冊(いや、今月末にさらに短編集が1冊だから今秋は計3冊)、詩集が刊行されている。
 以前、このブログでも抜粋を載せた詩で、「ユリイカ」に1年にわたって連載された『傘の死体とわたしの妻』が本になったのだ。
 日本では多和田葉子の初の詩集だという。

 1冊にまとまったのを改めて読んでみて、ひとり声を上げての大笑い。
 実に楽しく、勢いがあって、なかなか力強い現代詩だ。

 詩を説明するなんて身もふたもないが、あえてどんな詩かと言うと・・・

 童(わらべ=われ=女)と人妻が不倫の果てに「結婚」して「新婚旅行」に京都へ行ったり、ゲイのカップルから精子をもらって人工受精を試したり、果てに子供が生まれて、保育園にいったりして・・・というような話(だと思う、たぶん)。

 あまりに面白いからその一部分、
 ゲイカップルから精子をもらい、いざ人工受精!シーン(と思う)のさわりを抜粋させてもらいます。
  

『傘の死体とわたしの妻』(2006.10月思潮社刊)
 9.手作り人工受精 より

 セイシを いちご顔に 黒く ぶちぶち
 セッション かさね
 ふち ぶっ たたき
 ジャム あきびん太鼓
 おとこ と おとこ の ねっとり
 と 白く たれ とと
 ありがトム
 おおきニール
 精子のガラス瓶詰めリボンかけ
 ははは、、、 ゲイは身をたすくだよ と
 まだまだおしゃべりしたそうな
 男背中を二枚 外に押し出し
 またね
 がっちゃん思いドア
 妻と二人 寝室になった
 (88-89頁)

 ・・・と、これはほんのさわり、全125頁にわたる長~い詩です。
 声に出して読むと楽しいよ♪


「群像」創刊60周年

2006-09-13 12:22:50 | Weblog

今月の「群像」は創刊60周年記念号。大御所から若手まで46篇もの短編が載っている。
1篇30枚ほどの分量なので次々と読めてしまうが、それだけに比べる比べる、さながら品評会。
しかし各人の温度差もあるのだろうが、ものすごく力の入っているのとそうでないものの差が歴然だった。

掲載された女性作家は(23/46篇てことはちょうど半数)現代を代表する方々だが、生年順で並べてみるとなかなか発見がある・・・

瀬戸内寂聴1922、河野多恵子1926、津村節子1928、原田康子1928、竹西寛子1929、大庭みな子1930、林京子1930、高橋たか子1932、村田喜代子1945、高樹のぶ子1946、津島祐子1947、稲葉真弓1950、桐野夏生1951、笙野頼子1956、川上弘美1958、中沢けい1959、多和田葉子1960、小川洋子1962、(藤野千夜1962、)絲山秋子1966、角田光代1967、金原ひとみ1983、島本理生1983

 最長老が寂聴さん(84歳)というのには納得がいくものの、1926-1932の昭和戦前派の次は戦中派がなく1945以降(戦後)へと飛んでいる。中沢けいが川上弘美よりも若く、桐野夏生が笙野頼子より年上なのに驚いてみたり、角田さん以降は金原ひとみまでブランクがあるのはなぜ?と思ってしまったり(もちろんいるにはいるけれど、この企画に入れるような書き手がいないということ?)。

 さて中身のほうだが、まだ途中だけれど印象に残ったのは、
 角田光代「父のボール」、川上弘美「姉妹」、河野多恵子「魔」、高橋たか子「遠い水、近い水」、金原ひとみ「デリラ」といったところか。
 「ロック母」で(図らずも)川端賞を取ってしまった角田光代の今度は父の話だ。こっちのほうが凄みがあっていい。
 わが多和田さんの「晴れたふたりの縞模様」はまだピンと来ない。ストーリーを追えない不可解さということで異彩を放っているが。

 それにしてもスタイルを確立している作家の作品は読んでいて安心感がある。このところ小説教室で下手な新人作家ばかり読まされていたので、存分に楽しんで読んでいる。また、短編というフィールドが彼女たちの個性をいっそう際立たせているのだと思う。短編って難しい。だから短編が上手いのってすごく格好いいことなのだ。
 欲を言えば、スタイルを確立した作家たちだけに目新しさがないかもしれない。これまでの経験でこのくらいは書けるワイ、といった感じの作品もある。読んでいて、「あヽこの人らしいなぁ」と思うだけに留まるものも少なくない。スリルに欠けるのである。
 けれどたった一冊、同じ土俵でこれだけ満開の個性たちを一覧できるのは女性文学史の重みというか、執念のつづれ織りというか、やっぱり凄いことなのだった。
 男子の部も錚々たるメンバーだが、読むのが後回しになり、どうも腰が重いのはなにかな?やっぱ男子だからかな。


 


多和田葉子『レシート』を読む

2006-08-16 16:22:47 | Weblog

 この間、いろいろのことがあった。
 『新潮』9月号、多和田葉子「レシート」を読む。

 飛行機事故によって、記憶をなくした女に残された手がかりは、ポケット一杯のレシートの束。
 自分の名前がなくなるというのは、どういうことなのか。

 筋が追いやすく、読みやすいけれど、私はあまり良いと思わなかった。
 理知に走りすぎていて、言葉の力が弱くなっているから。
 多和田作品には、神懸かり的な言葉の力が作者も読者もぐいぐい引っ張っていって、一気にラストまで突っ込んでしまうような感じがある。読み終わると、身体の中に熱がこもっているような感じがある。
 でも「レシート」にはそれがなかった。理屈や筋、辻褄に走って、言葉が走っていない気がした。それだけに伝わってくるものも薄いのだった。

 多和田作品を評する人は、彼女のエッセイやインタビューを多用する。
 作品がやや難解なため、作家自身の平易な文章はちょうどよい解説になるのだ。
 けれど、
 「小説以外」は「小説」の参考にはなっても、それじしんにはなれない。
 すでに「小説以外」に触れてしまった者からみれば、「小説」しか知らない読者のほうが、幸福かもしれないと思うときがある。
  多和田作品(小説と詩)には、解釈を超えた何かがある。いくら多和田さんじしんが自分の小説について小説以外で言葉を尽くしたとしても、それを超えるもの(言葉にならないもの)が、小説の言葉の中にはあるのだ。
  その小説世界に、私じしんも裸になって潜っていくときに私が体験するものは「小説以外」では絶対に味わえないだろう。

 そういう力を「小説」に持っている作家は、少ないと思う。
 


ボルドーの多和田葉子

2006-05-24 20:09:02 | Weblog

 多和田葉子はいま、仏・ボルドーにいるらしい。
 公式HPhttp://www.tawada.de/ を見ると、
 日々の多くを旅先で暮らしているのだなぁと感じる。

 エッセイに、
 揺れる汽車の中で書くことが多く、それが当たり前のようになっていると書いてあった。
 4月の対談でも、芭蕉の「月日は百代の過客にして・・・」の一節を取り上げていた。
 (話は逸れるが、たしか「月日」というのは日本人の発想で、<月と太陽>と直訳するとドイツ人には全然わからないという話だったと思う)
 彼女の発言に時々、芭蕉の句がでてくる。芭蕉に惹かれているのかもしれない。
 
 多和田葉子は、定着することを捨て、あえてそのような暮らし方を選んでいる。
 そもそも定着(定住)とは何なのか。私たちの「あるべき」「本来の」場というものを信用していないのだ。

 旅(移動)しつづけることによって見えてくるものがある。
 AとBを結ぶ線上を飛び回るイメージだ。飛び回るうちに、自明と思われたAとBも次第にずれていく。旅によって揺さぶりをかけるのだ。

 時間に追われて生活していると、読書や、まして小説を書く時間など確保するのはなかなか難しい。
 でもそんなことは言ってられない。
 
 どこにいても、書けますよ! 書こうという意志があればネ!
 
 そんな声が聞こえる気がする。