多和田葉子はいま、仏・ボルドーにいるらしい。
公式HPhttp://www.tawada.de/ を見ると、
日々の多くを旅先で暮らしているのだなぁと感じる。
エッセイに、
揺れる汽車の中で書くことが多く、それが当たり前のようになっていると書いてあった。
4月の対談でも、芭蕉の「月日は百代の過客にして・・・」の一節を取り上げていた。
(話は逸れるが、たしか「月日」というのは日本人の発想で、<月と太陽>と直訳するとドイツ人には全然わからないという話だったと思う)
彼女の発言に時々、芭蕉の句がでてくる。芭蕉に惹かれているのかもしれない。
多和田葉子は、定着することを捨て、あえてそのような暮らし方を選んでいる。
そもそも定着(定住)とは何なのか。私たちの「あるべき」「本来の」場というものを信用していないのだ。
旅(移動)しつづけることによって見えてくるものがある。
AとBを結ぶ線上を飛び回るイメージだ。飛び回るうちに、自明と思われたAとBも次第にずれていく。旅によって揺さぶりをかけるのだ。
時間に追われて生活していると、読書や、まして小説を書く時間など確保するのはなかなか難しい。
でもそんなことは言ってられない。
どこにいても、書けますよ! 書こうという意志があればネ!
そんな声が聞こえる気がする。
「聖女伝説」(太田出版1996)は多和田葉子のエキスが入っている。
以下、気になった箇所を抜粋していく。
(この小説には頁数がない。もし製本から紙が抜け落ちてばらばらになってしまったら、それはそのまま読んでもいいということだ。道端に散らばった言葉の束をひとつひとつ拾い集めていくのも悪くない。)
身を削る思いで、身を削られて、完成すると、実を結ぶこともなく、置き忘れられていく、わたしはそんな
こけしになりました。わたしは、恐いと思いながらも少しほっとしていました。こけしの身体の中には空
洞がなく、ぎっしり木がつまっていて、魂の入る場所がありません。だから、魂を奪われる心配がありま
せん。血の流れる場所もありません。だから、他人と血でつながれる心配もありません。血がつながって
いる、というのならまだしも、血でつながっているというのは、恐ろしい表現です。誰彼の血が流れている、
というのも、恐ろしい表現です。それはまるで、他人そのものが血になって、自分の肉の合間を割って
流れ走っていくようではありませんか。わたしは、こけしの血が流れているからこけしなのではありませ
ん。わたしが、こけしであるとしたら、わたしはコケシという単語から生まれたからです。コケシという言葉
があり、それが発光したために、色や形が生まれ、色は暗闇を犯し、形は空気を犯し、こけしが誕生
したのです。それでも、こけしはコケシという言葉から別のものに成りきれたのではありません。こけしであ
るわたしの源には、コケシという言葉があり続けます。子供を消して作った人形だから、こけしというのだそ
うです。消されたものがわたしの起源です。