先週、来日中の作家・多和田葉子の2つのイベントに行く。
現代作家の中で私が最も熱中している作家さんである。
多和田さんはドイツ在住で年に2回程、出稼ぎのように来日する。
春はたいてい文芸誌「群像」新人賞の選考会に合わせた来日で、10日ほどの短い滞在期間で精力的に活動して(稼いで)いるようだ。
私が行ったのは立教大学の記念講演会と朝日カルチャーセンターでの沼野充義氏(文学者)との対談。
講演会は話に集中できなかった(講演中、客席でずっと喋り続けていた馬鹿女子学生のせいだ)。
対談のほうは小人数で和やかな雰囲気の中、いい話が聞けた。対談者(沼野氏)の運びかたが良かったのだと思う。
<多和田葉子を語る>というと、多くの人は「越境する作家」というのが定石の切り口となる。聞き手が大体そういうふうに聞いてくるから、彼女もそういうことばかり答える。言語の狭間でものを考えるとかなんとか。たしかに彼女の功績というのはそこにあるのだと思う。男性の評論家が論じたがるのもここだ。
けれど私が好きな点はすこし違うのだ。
彼女の作品は同性愛が満開だ。当たり前のこととして同性愛なのだ。異性愛は前提ではない。
多和田さん自身がそうかどうかは別として、
多和田作品の中に、抑えようのない激しい欲望を感じないわけにいかない。私はそこに共振する。
多和田さんは言語の狭間に立って表現したいものはこれなのだ、と確信する。
けれど多くの男性の評論家はこれには決して触れない。タブーだからだ。
多和田作品が文壇での地位を確立していけばいくほど、この点が無視されていく。
しかし多和田さんは黙って書き続ける。
小説より詩の方がよりダイレクトな感情が溢れている。
現代詩手帖に連載している「傘の死体とわたしの妻」という詩を読んでみたらいい。
現代作家の中で私が最も熱中している作家さんである。
多和田さんはドイツ在住で年に2回程、出稼ぎのように来日する。
春はたいてい文芸誌「群像」新人賞の選考会に合わせた来日で、10日ほどの短い滞在期間で精力的に活動して(稼いで)いるようだ。
私が行ったのは立教大学の記念講演会と朝日カルチャーセンターでの沼野充義氏(文学者)との対談。
講演会は話に集中できなかった(講演中、客席でずっと喋り続けていた馬鹿女子学生のせいだ)。
対談のほうは小人数で和やかな雰囲気の中、いい話が聞けた。対談者(沼野氏)の運びかたが良かったのだと思う。
<多和田葉子を語る>というと、多くの人は「越境する作家」というのが定石の切り口となる。聞き手が大体そういうふうに聞いてくるから、彼女もそういうことばかり答える。言語の狭間でものを考えるとかなんとか。たしかに彼女の功績というのはそこにあるのだと思う。男性の評論家が論じたがるのもここだ。
けれど私が好きな点はすこし違うのだ。
彼女の作品は同性愛が満開だ。当たり前のこととして同性愛なのだ。異性愛は前提ではない。
多和田さん自身がそうかどうかは別として、
多和田作品の中に、抑えようのない激しい欲望を感じないわけにいかない。私はそこに共振する。
多和田さんは言語の狭間に立って表現したいものはこれなのだ、と確信する。
けれど多くの男性の評論家はこれには決して触れない。タブーだからだ。
多和田作品が文壇での地位を確立していけばいくほど、この点が無視されていく。
しかし多和田さんは黙って書き続ける。
小説より詩の方がよりダイレクトな感情が溢れている。
現代詩手帖に連載している「傘の死体とわたしの妻」という詩を読んでみたらいい。
オカエリ! わらべは妻を歓迎する
ひっかく文学 を
膝に乗せて 妻は シャン
ソングを
じゅげむ じゅげむ と
どうやって 飛んで来たのか 自分でも わ
ズット ココニ イテネ!
クリトリスの隣のホクロは 移動感覚の凝固
吸い吸い噛んで
黒いものが赤くなるはずもないのに
ほんのり におって おいしい
オシリ アケテ!
わらべ言葉は 表の国から見れば外国語
恥丘には うっすらと 鹿の毛が生え
酸っぱいにおいが
谷間の切れ目を一直線に閉じて
桃粘膜は奥に巻き込まれ
タンポンの青い紐だけがとろろと垂れ
でもそこには粘液も血液もない (「5.二重生活」より抜粋)
--多和田葉子については続く--