日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

砧中学校古墳群|東京都世田谷区 ~やや大型の前方後円墳や多摩川流域では珍しい方墳が築かれた興味深い古墳群~ 【世田谷・狛江古墳探訪③】

2020-05-02 20:10:20 | 歴史探訪
 ⇒前回の記事はこちら

 ほぼすべての墳丘がなくなってしまった古墳群を彷徨い歩き、「砧小学校」交差点まで来ました。

 地図を見ると、ここから北東方向に一直線に伸びる道路があります。



 そのまま地図上で追っていくと、環七と丸ノ内線が交わるあたりまで伸びていますね。

 また反対方向の南西の多摩川方面にもこの道の続きらしき一直線の道があり砧浄水場に到達しています。

 以前、東国を歩く会で羽村の方を歩いた時に見た水道道路に似ていますが、浄水場と繋がっているし、これも水道道路かな?

 ※帰宅後調べたら、荒玉水道道路という10㎞に及ぶ水道道路でした。

 では、つづいて砧中学校古墳群へ行きますが、ここも国分寺崖線の縁の部分にあります。

 上から攻めるか下から攻めるか・・・

 高低差を確認したいので下から行こう!

 世田谷通りを歩きながら右手上方を気にかけます。

 ちょうどこの上あたりに古墳群で唯一の前方後円墳である7号墳がありました。



 しかし今回も失敗だ。

 思っていたよりも高低差があって、世田谷通りと中学校は繋がっていません。

 上に登れる道を探します。

 無駄に体力を使って本当にアホだなと自虐しつつ、武蔵野面に登りました。

 ここも15mほどの比高差がありますよ。

 中学校の方へ進みます。



 細い道を歩いて行くとさらに幅員が狭くなる場所が見えてきて、その校庭内に古墳らしきものが見えてきました。



 あ、3号墳だな!

 これです。



 墳丘の一部分が残っています。

 校庭内を覗くと向こうの方に4号墳が見えますよ。



 間近で見たいなあ・・・

 登ってみたいなあ・・・

 傍から見ると完全なる不審者のように見えているかもしれませんが、この古墳群は有名なので、おそらく誰かに見られても「また物好きなやつが来てるよ」程度に見られるだけだと思います。

 ためらうことはありません。

 正門の前に来ました。

 すると、都合よく中から職員らしき方が出てきたので、校庭内に入る許可を請うとOKをいただきました。

 それでは、お邪魔いたします!

 まずは道路側にあった3号墳から。



 一部分でも残存してくれていて良かった。

 わずかでも墳丘が残っていてくれれば私たちはそこに古墳があったということを実感できます。

 被葬者だって少しでも形跡を残してくれれば後世の人に完全に忘れられることはないため、その方が喜ぶと思いますよ。

 つづいて、砧中学校古墳群のなかで唯一完全に墳丘が残っている4号墳へ行ってみましょう。

 お、墳丘に登れるじゃん。



 そんなに草ぼうぼうでなくて良かった。



 今はあまり眺望が開けていませんが、ハケの上から南を望むとかなり見晴らしがいいです。

 ※残念ながら撮った写真はブレていて使い物になりませんでした。

 少し離れて撮影。



 説明板があるので読んでみましょう。



 概ねここに書いてある通りで、8号墳まで番号が振られていますが、1号墳は古墳ではないため、現在のところ7基の古墳が確認されています。

 ただし、7号墳に関しては以前は前方後方墳と言われており、説明板にもそう書かれているのですが、現在では墳丘長65mの前方後円墳とされています。

 というのも、マンション建設のために破壊される前の調査で、「後方部」とされていた墳丘部分が弧を描いていることが分かったため、現在では前方後円墳として紹介されているのです。

 出土遺物を見ても東海系のものは出ていません。

 築造時期に関しては、4世紀末頃とされ、大田区の新居里(「にいのさと」が正しく「あらいざと」ではありません)古墳が墳丘頂72mの前方後円墳で、時期的にはこちらの7号墳と近いかも知れません。

 ですから、4世紀末の多摩川流域の首長墓がこちらの7号墳であるかどうか決めるにはもう少し考える必要があり、荏原台古墳群とこちらの砧古墳群は別々の成立背景を持っているため、それぞれがヤマト王権とどう結びついたのかを含めて、検討すべきことは多いです。

 また、砧中学校古墳群には多摩川流域では大変珍しい方墳があるというのも非常に興味深いです。

 というわけで、もう少し考察の時間をください。

 古墳の分布図。



 一部残っている3号墳はこれで見ると4号墳と同じくらいの大きさがありますね。

 こちらは「当方滅亡!」



 直径37mある4号墳は見ごたえがありますね。



 今日の古墳探訪でようやく古墳らしい古墳に来れて嬉しい。



 ところで、砧、砧、と言っていると、多摩地域の住人としてはどうしても「きぬた歯科」を思い出してしまいます。

 車でどこかへ出かけて帰ってくるとき、各高速道路で都内に入るとすぐに「インプラントはきぬた歯科」の看板が現れるんですよね。

 まるで院長先生に「おかえり!」と言われているような気がして、ようやく地元に帰ってきたなあという感慨が湧く看板なのです。

 というか、こんなことを考えていて長居するわけにはいきませんから、さっさと退散しましょう。

 なお、この砧中学校古墳群を含め、今まで歩いてきた古墳群は最初に訪れた玉川神社古墳をのぞいてすべて砧古墳群という大きなくくりにされています。

 つぎもその砧古墳群に含まれる喜多見古墳群を見に行きましょう。

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1 コメント

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Unknown (りひと)
2020-05-04 09:33:13
川の間の古墳って凄い興味ありますね。
時代によっては川で物資の移動は楽だったかもしれませんがお水の被害も頻繁だったでしょうから。
知恵が集まってそうでワクワクします。
昔聞いた事ある地名が結構川沿いで繋がっているのもびっくりします。あとお寺の変遷とかでの京王線の方まで行っちゃうんですね。昨日だか有吉くんが深大寺行ってましたけど調布七福神も行ったあたりにも多摩川で行けちゃうし。白鳳仏もまだ観に行ってないなあ。
砧は子供の時に行った場所であるし、世田谷美術館も若い頃その周りの地名は小耳に挟んでも鉄道が横に走っているんで情報が分断されていたんで今回の記事とても興味ありますね。砧って洗濯の棒ってイメージ持ってますけど久々に調べてみます。古墳とかで棒出てきてたりしたらかなり納得しちゃいますけど、博物館で出土品とか保存されてないかな?昭和の前で知りたかったですね、川際でお水があるような土地なら残っている物もあったと思いますよね。残念です。

忘れていた事思い出したり、きぬたって絹田や鬼怒田や衣田など色々音で当ててみたい所です。あと昔からきぬたは狸のイメージもあるんですよね。三宿で多聞天探してたんで狸いたかな?ともずっと思っています。太子堂って地名で聖徳太子?って思ったのは大人になってからですけど、昔からの疑問の探究楽しみです。
そうそう昨日足利が織物だかってなんかあったんですよね。世田谷にも織物とかなかったかな?瀬田勢多世田勢田畝田、田んぼ織りなす風景みたいなものが多摩川沿いでないかな?野川沿いはかなり好きですし、お寺調べなきゃって昔思ったんですよね。砧で宇奈根で駒井で猪方で狛江で喜多見でその先が柴崎って文字だけでも好みですよ。またその先が深大寺や調布飛行場って笑っちゃうくらいツボです。武蔵国分寺まで行けるなら古代のメインの川のように感じますね。

今まで電車とかピンポイントで行った所が俯瞰で見たら一連でそれが川なのか地形で繋がるって今動けないからこその発見です。調布では自転車でも起伏があり相当大変でした。そうそう調布の京王線の方のお寺は移動してって東京の縁で行ったわって気付いた場所もありますし、白鳳が基準ならそこから都心に移動してまた戻ったとも見えない歴史を足す事も出来るかも。
古墳の場所本当ありがたい情報です、ありがとうございます。
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