レギュラーの入院日誌

入院生活の成果をメモする備忘録

クルーグマンの矛盾?

2007年01月28日 | 経済学一般

いきなりの予定変更です。やはり現実というものは計画通りには進まないものですね。

池田信夫先生がご自身のブログで取り上げてらっしゃるのを拝見して初めて知りましたが、クルーグマンによるフリードマン論=“Who Was Milton Friedman?”、このエッセイは必読でありましょう。今回は池田先生も論じてらっしゃいますが、クルーグマンの金融政策の有効性に関する一見矛盾する言明についてあれこれとない知恵を絞って考えてみたいと思います。

Now, a word about Japan. During the 1990s Japan experienced a sort of minor-key reprise of the Great Depression. The unemployment rate never reached Depression levels, thanks to massive public works spending that had Japan, with less than half America's population, pouring more concrete each year than the United States. But the very low interest rate conditions of the Great Depression reemerged in full. By 1998 the call money rate, the rate on overnight loans between banks, was literally zero.

And under those conditions, monetary policy proved just as ineffective as Keynes had said it was in the 1930s. The Bank of Japan, Japan's equivalent of the Fed, could and did increase the monetary base. But the extra yen were hoarded, not spent. The only consumer durable goods selling well, some Japanese economists told me at the time, were safes. In fact, the Bank of Japan found itself unable even to increase the money supply as much as it wanted. It pushed vast quantities of cash into circulation, but broader measures of the money supply grew very little. An economic recovery finally began a couple of years ago, driven by a revival of business investment to take advantage of new technological opportunities. But monetary policy never was able to get any traction.

In effect, Japan in the Nineties offered a fresh opportunity to test the views of Friedman and Keynes regarding the effectiveness of monetary policy in depression conditions. And the results clearly supported Keynes's pessimism rather than Friedman's optimism.

いきなり長々と引用しましたが、1990年代以降の日本の不況に関して論じているこの引用箇所においてクルーグマンは明らかに(1930年代の大不況期における)金融政策の無効性を主張するケインズを支持しております。1998年までにオーバーナイト物(無担保翌日物)金利は実質的にゼロ%に達しており、日本銀行は金利政策の面でもはやこれ以上なしうることがなくなった。そこで日銀は日銀当座預金残高を金融政策の操作手段として用いる量的緩和政策に転じ、マネタリーベースの潤沢な注入に臨んだものの、銀行部門が保持する日銀当預が積み増されるだけでマネーサプライの十分な増加を実現することはできなかった(In fact, the Bank of Japan found itself unable even to increase the money supply as much as it wanted. It pushed vast quantities of cash into circulation, but broader measures of the money supply grew very little.)。そして引用した最後のパラグラフ、「90年代の日本の経験は不況期における金融政策の有効性に関するフリードマンとケインズの見解をテストする新たな機会となった。そのテストの結果はというと、明らかに(金融政策の有効性についての)フリードマンの楽観よりはケインズの悲観が支持されることとなったのである。」

上記のクルーグマンの主張と(池田先生も引用されている)日本が不況から脱出するための処方箋としてクルーグマンが提示した見解(ポール・クルーグマン著/山形浩生訳“復活だぁっ! 日本の不況と流動性トラップの逆襲(pdf)”、p37)、

流動性トラップにはまった国――つまりマネーサプライを増やしても何の影響もないところ――がインフレを実現するにはどうすればいいだろう。これまで見たように、問題は要するに信用の問題だ。もし中央銀行が、可能な限りの手を使ってインフレを実現すると信用できる形で約束できて、さらにインフレが起きてもそれを歓迎すると信用できる形で約束すれば、それは現在の金融政策を通じた直接的な手綱をまったく使わなくても、インフレ期待を増大させることができる。

とは一見相矛盾するかのように見えます。片や金融政策は無効であることを認め、片やその無効なはずの金融政策を司る中央銀行が「現在の金融政策を通じた直接的な手綱をまったく使わ」ずにインフレ期待を醸成すべきだと説く。この数年の間にクルーグマンが心変わりしたあらわれである・・・として果たしてよいものでしょうか?

しかし、その疑問も同論文の6ページを読むことで氷解いたします。

じゃあどうして流動性トラップなんか可能なんだろうか。その答えは、通常のマネーの中立性議論にくっついている、あまり気がつかれない逃げの一句にある。現在およびその後将来すべてにわたりマネーサプライが増大すれば、価格は同じ割合で上昇する。これに対応して、将来的に維持されると期待されていないマネーサプライの上昇は物価を同じ割合で上げる――それどころか多少なりとも上げる――というような議論は一切ない。

一言で、この問題にこういう高い抽象度の議論からアプローチすることですでに、流動性トラップにはなにやら信用の問題がからんでくる。市場が、今後も維持されると期待する(つまり将来のすべての時点で同じ割合で拡大される)金融拡大は、経済がどんな構造問題に直面していようとお構いなしに必ず機能する。もし金融拡大が機能しなくて、そこに流動性トラップが働いているなら、それは国民が、その金融拡大が維持されると思っていないからだ。

つまりクルーグマンがフリードマンを論じたエッセイで取り上げている金融政策は「伝統的な」金融政策、将来時点におけるマネーサプライについての言及(あるいは確約)がない金融政策のことであり、流動性トラップが存在するのは「国民が、その金融拡大が維持されると思っていないから」ということになります。現時点だけではなく「現在およびその後将来すべてにわたりマネーサプライが増大すれば、価格は同じ割合で上昇する」のであり、経済が流動性の罠に陥っていたとしても将来にわたる金融緩和を保証することができれば依然として金融政策は有効である(=結果としてインフレを起こすことができる)と考えられるわけです。「インフレ目標」の設定は、将来においてもマネーサプライが増加する、あるいは金融緩和が続くことを確約する一つの手段として捉えるべきなのでしょう。というわけで、クルーグマンの議論には何らの矛盾もないと結論付けることができるわけであります。


今後の予定

2007年01月26日 | Weblog
現実はなかなか予定通りには進んでくれないものですが、ひとまず今後の予定をたてておきたいと思います。

●「ケインズ革命」の意味を再考する
●Thomas M.Havrilesky/John T.Boorman編『Current Issues in Monetary Theory and Policy(second edition)』を手掛かりに、ケインジアン・マネタリスト論争を振り返る
●企業理論の歴史的な変遷(コース、ウィリアムソン、アルチャン/デムゼッツ、ジェンセン/メックリング、ハートetc)を辿る

予定をご覧になっておわかりの方もおられることでしょうが、この入院日誌では基本的に経済学の話題を扱うことになります。陰鬱な科学(dismal science)の中ではエキサイティングで心躍らされるような論争や議論が展開されていることを少しでもお伝えできればこれ幸いです。

●経済学が陰鬱な科学と呼ばれるようになった所以

についてもまとめてみたいところです。

入院日誌始めます

2007年01月26日 | はじまりの挨拶
入院して早9ヶ月が経とうとしております。入院生活というものは実に退屈極まりない日々の連続であること間違いなしではあるのですが、9ヶ月間も過ごしておりますと平凡な時間の経過の中にもそれなりに非日常性が潜んでいることに気付くようになってきます。毎日が同じことの繰り返しのようでありながら、ちょっと注意してみると意外な発見や驚き、感動etcがそこここに溢れているのがわかってくるわけです。私が入院生活の中で体験したことを他者と共有したい、などという思い上がった動機からではなく、忘れっぽい自分自身のために入院生活の中で気付いたこと、学んだこと、考えたことなどを備忘録として記録しておこうと思い立ちました。入院日誌のネタを探そうと意識することで新たな発見(=意識せずに無為に過ごしていれば見過ごしていたかもしれないこと)に遭遇する機会も増えるやもしれぬとの期待も密かに抱いております。マイペースにゆっくりやっていきたいと思います。

一言申し添えておかねばならないでしょう。入院といいましても病院にお世話になっているわけではございません。病院とそれほど遠くはないとある施設、別名ivory towerにて日々過ごしております。ivory towerの正式の住人となるべく日々の鍛錬に励んでいるわけです。入院日誌=読んだ本や論文のメモあるいは備忘録、と理解していただいてそう違わない、といいますかまさにそのものです。何はともあれ、どうぞよろしくお願いいたします。