レギュラーの入院日誌

入院生活の成果をメモする備忘録

ケインズ対ハイエク; 過去はプロローグ

2010年07月13日 | 経済学一般

お久しぶりでございます。いかがお過ごしでしょうか?

最近はつぶやくばかりで、こちらの方は完全放置しておりました(実のところ、このブログの存在自体を忘れかけておりました)。何かちょっとまとまったことを書く場所があるというのはいいものですね。

さてつまらぬ挨拶はこれくらいにして本題に入ります。つい先日のことになりますが、オーストリアンとして有名なエベリング教授が珍しい新聞投書を発見したという情報がネットを通じて伝わってまいりました。珍しい新聞投書というのは…、詳しい話は以下に訳したリッツォ教授のブログエントリーをご覧いただくということで。

なお、この新聞投書は、okemosさんが全文を訳してくださっております(ケインズ=ピグー陣営ハイエク=ロビンズ陣営)。一読を強くお勧めいたします。

●Mario Rizzo, “Keynes versus Hayek: Past is Prologue”(ThinkMarkets, June 30, 2010)

「ケインズ対ハイエク; 過去はプロローグ」

by マリオ・リッツォ 

つい最近、私の友人であるリチャード・エベリング(Richard Ebeling)が非常に貴重な2つの投書(pdf)を発見した。

これら2つの投書は1932年―1932年というと、ジョン・メイナード・ケインズの『一般理論』が執筆される以前の時期である―にロンドンのタイムズ紙に寄せられたものである。テーマは、不況下にあるイギリス経済にとって適切な経済政策とは何か? である。

これらの投書にはいくつか目をひかれる個所がある。まずはケインズらが署名している投書について。注目すべき最初の点は、ケインズが署名している投書にA.C.ピグー ―ピグーといえば、後年になってケインズが時代遅れの「古典派」経済学の代表者とみなした人物である―もまた署名しているという事実である。第2点は、ピグーとケインズ(そしてその他の共同署名者ら)が、民間・政府両部門における節約(austerity)に対して警鐘を鳴らしている点である。支出を通じた経済の刺激を強調する発想は、今日においてもまたケインジアンが推奨しているところのアイデアそのものである。

結果として、現在のような状況においては、[消費支出の切り詰め=節約は]、消費支出から実物投資への直接的な移転にはつながらず、それゆえ実質国民所得の水準は不変のままに保たれることはないでしょう。消費支出の切り詰めは、それとほぼ同規模だけ実質国民所得を減少させることになるでしょう。消費支出の切り詰めは、労働や機械、船舶といった生産要素を現在とは異なるヨリ生産的な用途に振り向けることにはならずに、これら生産要素を生産に使用されないままに遊休状態にとどめおくことになるでしょう。

さらには、単独の個人の行動に関して妥当することは地方政府を通じた集団の行動に関しても同様に妥当します。もしある町の住民達が水泳プールや図書館、博物館などを建設したいと考えているとすれば、町の予算でこれらを建造することを手控えたとしても、ヨリ広範な国益を促進することにはならないでしょう。町の住民らは、節約する(建設に対する出費を控える)ことで「間違いによる犠牲者」という立場に置かれることになるでしょうし、この犠牲の過程において、町の住民らは自分達だけにとどまらず町の住民以外の人々も傷つけることになってしまうでしょう。町民らの間違った善意を通じて、失業の荒波はさらにその激しさを増すことになるでしょう。

F.A.ハイエクやライオネル・ロビンズらが署名している投書もまた注目に値するものである。注目すべき最初の点は、「すべての経済学者」が、デフレーションは望ましくない現象であること、デフレーションは避けるべきであること、に関して同意している点を明確に述べていることである。

貨幣の退蔵は―現金のまま手元に置いておこうが、銀行の預金口座に寝かしておこうが―、経済にデフレ的な効果をもたらすことになるという点については同意があります。デフレーションそれ自体を望ましいものと考えるような人は一切おりません。

第2点は、ハイエクとロビンズが、民間部門の節約に懐疑的なケインズ=ピグーらを近視眼的であると強調していることである。

しかしながら、先日本紙に投書を寄せた経済学者らは、節約された(消費支出に回されなかった)貨幣が実物投資に回る保証がないという理由から、既発の証券の購入に対して非難の目を向けているようにみえます。現代経済においては、証券市場は投資のメカニズムが機能する上で欠くことのできない存在の一つとなっています。既発の証券(訳者注;流通市場における証券)の価値上昇は、証券の新規発行が促される上で欠くことのできない前提となるものです。(証券の)流通市場が活況を取り戻してから(証券の)発行市場が活況を取り戻すまで(あるいは景気が回復するまで?)には時間的なラグが存在することに関しては疑いありません。・・・(略)・・・そういうわけですから、手持ちの証券を売却したり、預金を引き出したりすることは、景気回復の助けとはならないでしょう。

第3点は、ハイエクとロビンズらは、政府債務の規模拡大は景気回復の足を引っ張っている摩擦をさらに悪化させるという理由から、ケインズ=ピグーらが勧める政府主導の財政刺激策を拒絶していることである。

最後の点として、ハイエクとロビンスによる以下の結論にも注目しよう。

政府が景気回復を支援しようと望むのであれば、政府が取るべき適切な手段は、乱費(lavish expenditure)という古い習慣に立ち戻ることではなく、貿易や自由な資本移動に対する諸々の制限を撤廃することです。現時点において、景気回復がなかなか始まらない理由(の一つ)は、貿易ならびに自由な資本移動が制限されているためなのです。

これら2つの投書で話題となっている争点が基本的には今日話題となっている争点と同じであることを理解するのはそれほど難しくないだろう。対立している陣営の立場もまた同じままである。.私がこれまで何度も述べてきたように、大討論(the great debate)は、今日においても依然として「ケインズ対ハイエク」という構図のままなのである。これ以外のすべてのことは脚注に過ぎない。


TRモデル;追記

2008年02月15日 | 経済学一般

ひっそりと更新。こちらのエントリーへの追記。

David Romer,“Short-Run Fluctuations(pdf)”(本文)(

以下の論文のリンクも一緒に貼っておいたほうがよろしいでしょうな。

David Romer(2000),“Keynesian Macroeconomics without the LM Curve(pdf)”(Journal of Economic Perspectives, vol.14(2), pp.149~169)

LM曲線の悲しき運命の歴史(=表舞台からの退出の歴史)に関しては以下を参照。

Benjamin Friedman(2003),“The LM Curve: A Not-So-Fond Farewell(pdf)”(NBER Working Paper No. W10123


FriedmanとNelsonと

2007年06月13日 | 経済学一般

先週中に投下する予定だったネタ。週末に時間があれば何かしら(といっても単なる要約で終わりそうですけども)書くかもしれない。

○フリードマン

Milton Friedman(2006)、“Tradeoffs in Monetary Policy(pdf)”

テーラーカーブについては、

Ben S. Bernanke、“The Great Moderation”(At the meetings of the Eastern Economic Association, Washington DC,February 20, 2004)

Satyajit Chatterjee、“The Taylor Curve and the Unemployment-Inflation Tradeoff(pdf)”(Federal Reserve Bank of Philadelphia,Business Review,Third Quarter, 2002,pp. 26-33) 

等を参照のこと。 

テーラー自身によるテーラーカーブの説明としては、 

ロバート・M. ソロー、ジョン・B テイラー、ベンジャミン・M. フリードマン(編)/秋葉弘哉、大野裕之(訳)『インフレ、雇用、そして金融政策』の第2章「雇用とインフレ安定性のための金融政策のガイドライン」

R.E. ホール、J.B. テーラー(著)/森口親司(訳)『マクロ経済学』の第18章「有効なマクロ政策のデザインと管理」 

を参照。 

○ネルソン

Edward Nelson(2007)、“Milton Friedman and U.S. Monetary History:1961-2006(pdf)”(The Federal Reserve Bank of St. Louis Review, Vol.89, No.3, pp.153-182)

Milton Friedman and Anna J. Schwartz’s (1963) A MonetaryHistory of the United States covered a 93-year period: 1867 to 1960. Milton Friedman lived until November 2006—46 years beyond the period covered by the Monetary History and a length of time equal to nearly half that covered in that book. Throughout 1961-2006, Friedman commented publicly on U.S. monetary policy developments. This paper attempts to provide a perspective on Friedman’s account of 1961-2006 U.S. monetary history by studying the observations he provided over that period. 

フリードマン=シュワルツ著『合衆国貨幣史』以降の合衆国貨幣史(1961年~2006年)をフリードマンの言説をもとに回顧する、と。でかしましたぞ、ネルソンさん。


パーカーの新刊

2007年06月06日 | 経済学一般

Randall E. Parkerが『大恐慌を見た経済学者11人はどう生きたか』の続編『The Economics of the Great Depression:A Twenty-First Century Look Back At The Economics Of The Interwar Era』を近頃出版したとのことです。前作と同様にインタビュー形式をとっている模様ですが、今回は「大恐慌を見ていない」経済学者からも聞き取りを行っているとのこと。一読の価値あり・・・なんですけども、ちとお値段が高い。・・・・ペーパーバック版が出るまで気長に待つことにしよう。

EconLog(“Outstanding Book, Standout Price”)にて本書の内容の一部が紹介されてます。

(追記)

hicksian君へ

ここ1週間ほど何度も連絡しているのですが、私がおかけになった電話番号は現在使われておりませんらしいです。私はいったいどこに連絡したらよいのでしょうか。至急連絡お願いします。

ついでながら、Parkerが自身のHP上で新著に所収されているバーナンキへのインタビューをアップしています。今度研究室で会う際にどんな内容だったか感想を聞きたいと思いますので、目を通してきておいてください。

One hour interview with Chairman Ben S. Bernanke(pdf)    

余裕があれば以下も読んできてください。

Randall Parker、“An Overview of the Great Depression”(EH.Net Encyclopedia)

怒ってないので早く連絡ちょーだい


Global Financial Markets

2007年05月31日 | 経済学一般

いやはや、焦りました。ログインパスワードをなかなか思い出すことができず、ああでもないこうでもないとチャレンジすること10数回、やっとのことでログインできました。この調子じゃ旧ブログにはもう2度とログインできないだろうなぁ。ってhicksianがつぶやいているのを先日耳にしました。

どうもお久し振りです。レギュラーです。2ヶ月ぶりのエントリー、私レギュラー自身としましては4ヶ月ぶりのエントリーということになりますか。そりゃ、ログインパスワードも忘れるわけです。

さてさて。こうして無事ログインできたはいいものの、特に書くべきこともない。生存証明だけしておしまいというのもちょっと寂しいですので、この場を借りてhicksianへの宿題を提出しましてそれをもって新エントリーとさせていただこうかと思います(hicksianにメールを送っても届かずに戻ってくるんです。どうやらメールアドレス変えたみたいなんですが、まだ新しいアドレス教えてもらってないんです。メールが使えなくても連絡手段はこのように豊富にあるわけでして、本当に便利な世の中になったものだと実感する次第です)。

hicksian君へ。

Global Financial MarketsCapital Ideas,March 2007,Chicago GSB)

今週中に上記リンク中の内容全てに目を通して置くように。特にZingalesとKashyapの文章は参考文献としてあがっている彼ら自身の論文(というかリンク中の文章の元になっている論文;以下にリンク貼っておきます)も含めて念入りに読んでおいてください。

Luigi Guiso, Paola Sapienza and Luigi Zingales、“Cultural Biases in Economic Exchange”(pdf)

Wendy Dobson and Anil K Kashyap、“The contradiction in China’s gradualist banking reforms”(pdf)

そういえば、確か半年くらい前のことになると思いますが、ラグラム・ラジャン/ルイジ・ジンガレス著『セイヴィング キャピタリズム』を読んだって言ってましたよね。ジンガレスついでということでこの本の感想も聞かせてくださいね。

以上私的な業務連絡でございました。次回以降はもう少しきちんとしたエントリーが書ければなと思ってはおりますが、果たして本ブログ上にまともなエントリーが存在するのかどうかいささか疑問である(+当初の予定を1つたりとも消化していない)、ということは公然の秘密だったりします。ということは当然次回も・・・、推して知るべしでございます。


クルーグマンの矛盾?

2007年01月28日 | 経済学一般

いきなりの予定変更です。やはり現実というものは計画通りには進まないものですね。

池田信夫先生がご自身のブログで取り上げてらっしゃるのを拝見して初めて知りましたが、クルーグマンによるフリードマン論=“Who Was Milton Friedman?”、このエッセイは必読でありましょう。今回は池田先生も論じてらっしゃいますが、クルーグマンの金融政策の有効性に関する一見矛盾する言明についてあれこれとない知恵を絞って考えてみたいと思います。

Now, a word about Japan. During the 1990s Japan experienced a sort of minor-key reprise of the Great Depression. The unemployment rate never reached Depression levels, thanks to massive public works spending that had Japan, with less than half America's population, pouring more concrete each year than the United States. But the very low interest rate conditions of the Great Depression reemerged in full. By 1998 the call money rate, the rate on overnight loans between banks, was literally zero.

And under those conditions, monetary policy proved just as ineffective as Keynes had said it was in the 1930s. The Bank of Japan, Japan's equivalent of the Fed, could and did increase the monetary base. But the extra yen were hoarded, not spent. The only consumer durable goods selling well, some Japanese economists told me at the time, were safes. In fact, the Bank of Japan found itself unable even to increase the money supply as much as it wanted. It pushed vast quantities of cash into circulation, but broader measures of the money supply grew very little. An economic recovery finally began a couple of years ago, driven by a revival of business investment to take advantage of new technological opportunities. But monetary policy never was able to get any traction.

In effect, Japan in the Nineties offered a fresh opportunity to test the views of Friedman and Keynes regarding the effectiveness of monetary policy in depression conditions. And the results clearly supported Keynes's pessimism rather than Friedman's optimism.

いきなり長々と引用しましたが、1990年代以降の日本の不況に関して論じているこの引用箇所においてクルーグマンは明らかに(1930年代の大不況期における)金融政策の無効性を主張するケインズを支持しております。1998年までにオーバーナイト物(無担保翌日物)金利は実質的にゼロ%に達しており、日本銀行は金利政策の面でもはやこれ以上なしうることがなくなった。そこで日銀は日銀当座預金残高を金融政策の操作手段として用いる量的緩和政策に転じ、マネタリーベースの潤沢な注入に臨んだものの、銀行部門が保持する日銀当預が積み増されるだけでマネーサプライの十分な増加を実現することはできなかった(In fact, the Bank of Japan found itself unable even to increase the money supply as much as it wanted. It pushed vast quantities of cash into circulation, but broader measures of the money supply grew very little.)。そして引用した最後のパラグラフ、「90年代の日本の経験は不況期における金融政策の有効性に関するフリードマンとケインズの見解をテストする新たな機会となった。そのテストの結果はというと、明らかに(金融政策の有効性についての)フリードマンの楽観よりはケインズの悲観が支持されることとなったのである。」

上記のクルーグマンの主張と(池田先生も引用されている)日本が不況から脱出するための処方箋としてクルーグマンが提示した見解(ポール・クルーグマン著/山形浩生訳“復活だぁっ! 日本の不況と流動性トラップの逆襲(pdf)”、p37)、

流動性トラップにはまった国――つまりマネーサプライを増やしても何の影響もないところ――がインフレを実現するにはどうすればいいだろう。これまで見たように、問題は要するに信用の問題だ。もし中央銀行が、可能な限りの手を使ってインフレを実現すると信用できる形で約束できて、さらにインフレが起きてもそれを歓迎すると信用できる形で約束すれば、それは現在の金融政策を通じた直接的な手綱をまったく使わなくても、インフレ期待を増大させることができる。

とは一見相矛盾するかのように見えます。片や金融政策は無効であることを認め、片やその無効なはずの金融政策を司る中央銀行が「現在の金融政策を通じた直接的な手綱をまったく使わ」ずにインフレ期待を醸成すべきだと説く。この数年の間にクルーグマンが心変わりしたあらわれである・・・として果たしてよいものでしょうか?

しかし、その疑問も同論文の6ページを読むことで氷解いたします。

じゃあどうして流動性トラップなんか可能なんだろうか。その答えは、通常のマネーの中立性議論にくっついている、あまり気がつかれない逃げの一句にある。現在およびその後将来すべてにわたりマネーサプライが増大すれば、価格は同じ割合で上昇する。これに対応して、将来的に維持されると期待されていないマネーサプライの上昇は物価を同じ割合で上げる――それどころか多少なりとも上げる――というような議論は一切ない。

一言で、この問題にこういう高い抽象度の議論からアプローチすることですでに、流動性トラップにはなにやら信用の問題がからんでくる。市場が、今後も維持されると期待する(つまり将来のすべての時点で同じ割合で拡大される)金融拡大は、経済がどんな構造問題に直面していようとお構いなしに必ず機能する。もし金融拡大が機能しなくて、そこに流動性トラップが働いているなら、それは国民が、その金融拡大が維持されると思っていないからだ。

つまりクルーグマンがフリードマンを論じたエッセイで取り上げている金融政策は「伝統的な」金融政策、将来時点におけるマネーサプライについての言及(あるいは確約)がない金融政策のことであり、流動性トラップが存在するのは「国民が、その金融拡大が維持されると思っていないから」ということになります。現時点だけではなく「現在およびその後将来すべてにわたりマネーサプライが増大すれば、価格は同じ割合で上昇する」のであり、経済が流動性の罠に陥っていたとしても将来にわたる金融緩和を保証することができれば依然として金融政策は有効である(=結果としてインフレを起こすことができる)と考えられるわけです。「インフレ目標」の設定は、将来においてもマネーサプライが増加する、あるいは金融緩和が続くことを確約する一つの手段として捉えるべきなのでしょう。というわけで、クルーグマンの議論には何らの矛盾もないと結論付けることができるわけであります。