私の轍 WatashiのWadachi 第11回

2022-05-03 10:03:08 | 日記
教員生活 2 藤井寺高校

藤井寺高校 その2

③ 5期生担任の思い出 教員として 絶好調の時期
 同和教育主担者をやりながら、しかし、担任を持たないのが寂しくなってきたので、1978年入学の5期生の3年生の担任をした。文系クラスで男18名女子28名であったが、本当に楽しいクラスであった。潤滑油的存在としてひょうきんな野球部のG君、アイデアマンの放送部のH君を軸に、女子も活発、快活、大人しくまじめ、無口等々、数グループが競い合って、2学期以降、学園ドラマのような事件?出来事が続く毎日であった。
クラスが最高の盛り上がりを見せたのは文化祭でのクラス出し物としての「盆踊り」だった。盆踊り+フォークダンス+流行しているディスコ様の踊りを、自分たちで作った法被を着て、当時流行った山下達郎などの曲に振り付け、踊るのだ。練習が始まると、見学していた3年の他のクラスが負けじと、自分のクラスのシンボルカラーの法被を作って競い合い、以降何年か、藤高文化祭のメインイベントに定着していった。集会台を基礎にして、櫓まで組んでの演舞だったので見どころもあったし、参加している生徒たちも陶酔して、さながらTVの青春番組のようであったと未だに私も卒業生も懐かしがっている。
 2学期末から3学期、少なくない進学者にとって最後の追い込みのはずであるが、クラスみんなで楽しむという空気が勝ち、結果、進路実績は惨敗に近かった。それを問い詰めるのではなく、卒業式の日には校舎の4階から、手製のくす玉わりをやって中から「先生ありがとう」という垂れ幕(紙)が現れたのは、少々気恥ずかしかったが、人生最高の瞬間といってもいいほど嬉しかった。卒業後も毎年のように同窓会が続いている。
 反省も多い。国語の教材に出てきた「白痴」という言葉をある生徒を指すときの呼び名としているという噂が耳に入った。冗談ではない。その生徒は2年時の修学旅行を前にして宿泊を伴う頻繁な対人接触の恐怖から、破瓜型の精神障害を発症したため、知り合いのドクターに繋げ、3年時にわがクラスに引っ張ってきたという経緯がある。関係生徒の親玉を呼び説諭したところ、以降ぴたりとやみ、同窓会にもたまに顔を出す。また、喧騒を伴う女子グループの中で、独自の物静かな世界に浸っている異色の2人の一方が、家庭では暴力的であると聞かされた。見守ることしかできなかったが、無事卒業、専門学校進学ができた。

 これ以降、生徒指導部長、学年主任等で3年の担任を持てなかったのは残念であった。

 *1980(昭和55)年、羽曳野市にマイホームを購入した。府住宅供給公社の抽選に当たった。大工の棟梁だった父親が建築途中を見に来て、OK  を出してくれた。私の勤務地には近いが、資金繰りには苦労したし、祖母の支援も受けれなくなるが、チャンスだと思った。兄は小学生だからまだしも、弟は保育所なので、環境変化に不安を抱き、朝送るとき、自転車の荷台にしがみつき引き剥がすのに苦労したことを思い出す。

④ K君の自死
そして1985年(昭和60年)、教員として最大の衝撃を受けたK君が自死するという出来事に立ち会った。K君の母親は韓国籍、父親とは内縁の関係で庶子。母は家を飛び出し、養育者たる父は新聞購読の勧誘員として各地を飛び回っていたことから、社会監護施設で生活していた。複雑な成育歴から、私たちも当初より彼の言行には関心を持っていたが、まじめで快活、文化祭等ではスターとして活躍、2年生の後期生徒会では会長に立候補して信任されるなど、好感を持って受け止めていた。そのK君が、施設を飛び出したという一報を受けて、捜索したが、力及ばず。3日後、グランドで縊死していた。あまりにもショックが大きく、実際に深く関わっていたこともあって、記録とフィクション化し小説風に文章を書きつけたが、公表するような気になれない。
そこで、K君と一緒に入学した藤高11期生「卒業文集」に学年主任として掲載した「卒業生に贈る言葉」
 この原稿を書いている今、追試も期末考査も終わっていない。心配な諸君も多く、素直に「卒業おめでとう」とは言いにくい。色々な事情で、入学の時に並んだ顔が欠けたのは残念だ。特に僕たちは、二年の時K君の死という悲しい体験を共有した。生徒会やバンドで活動していた時の快活な笑顔が思い出されるが。彼の背負っていた「重い荷物」の意味を、どう自分の中で生かせるかが問題だろう。勿論、彼の中断された生を、代わりに生きるなんてことは誰にもできないことだ。君たちは自分の人生を自信をもって生き抜いていってほしいと思うだけだ。それが体験を生かすことになるだろうと思う。
 では、自分の人生を自信をもって生き抜くとはどういうことだろうか。僕の考えでは、一つは、結果万能の世の中だけれど、過程を大切にするという考えだ。仮に結果が不運であったとしてもどうせ偶然性もあることだし、「自分は悔いなくやりきった」と言える姿勢を持つことだ。「今ここで」を大事にするともいえる。反省はしても後悔はしない気構えを持つことだ。
 今一つは、人間には個性差・財産や社会的地位・権力等、分断する条件が山ほどあるが、同時代の人間は通じ合える、人間性は通底していると観念しておくことだと思う。権威におもねることなく、人を差別することなく生活できると信ずれば、多分自信をもって人生を送れるんではないかと思う。 元気でがんばって下さい。


1987(昭和62)年3月、11期生を送り出し、4月平野高校に転勤した。 



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