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SENgoKU anD VISIon -乱世を追う-

戦国・江戸時代 武将 甲冑・刀剣・茶道具 博物館・美術館・城・茶室などを巡る拝見記。その他の雑記もあり。

2409 表千家北山会館 わびと数寄

2024-11-27 | 探訪
京都は北山

表千家北山会館

わびと数寄 ―受け継がれる利休の心―
期間:9月13日(金) ~ 12月15日(日)

三条西実隆筆書状
中務殿宛。三条西実隆が「つかへきてうれしき世にも あへる代や戸さしもきかね 関の藤河」の和歌を添えた書状。
「関の藤河」は岐阜県関ケ原に流れる藤古川の事で、壬申の乱の舞台にもなった旧跡で歌枕になっている。
三条西実隆は茶人・武野紹鷗と交流があった事が『実隆公記』に記されている。
珠光寄竹手桶水指 利休在判
竹を寄せて作られた手桶。珠光ゆかりの水指で利休のケラ判が朱書きされている。
利休はこの手水指と同じ形の手桶水指を塗師の記三に作らせている。
瀬戸米市手茶入
狂言の「米市」より銘が付けられた瀬戸茶入。狂言の「米市」に出てくる米俵に形が似ている事に因む。
片桐石州より江岑宗左拝領した茶入で、石州が江岑に宛てた書状が添い、そこには宗旦や江岑の弟・仙叟宗室の様子を尋ねた内容が記されている。
共筒茶杓 金森宗和作
杓幅広く、露は一文字の茶杓。筒には「宗和(花押)」と簡素に記されている。
金森宗和は高山藩主・金森可重の嫡男であったが廃嫡され茶人となった人物。「姫宗和」と称される茶風で公家達に支持された。しかし武家との交流は続けており息子・七之助も加賀藩に仕官させているところを見ると武士の矜持は忘れていなかったのであろうか。

組立茶室

呈茶

2409 藤田美術館 「詩」「実」「複」と呈茶

2024-11-24 | 探訪
大阪

藤田美術館


利休尺牘 松茸の文
北民部(北向道陳?)宛

瓢茶入 銘 老茄子
珠光所持、宗旦花押あり。

瓢花入 永井信斎作
永井信斎は淀藩主・永井尚政の事。茶の湯に親しみ、小堀遠州との交流も深い。

さて今回は

茶室「時雨亭」にて呈茶がありました

お軸は酒井抱一

正客には樂14代・覚入の赤茶碗。

私はこちらの萩焼茶碗。

割高台になっているのがポイントです。


2409 高山のすゝめ⑤ 喫茶店

2024-11-20 | 探訪

今回も高山、ラストです。
高山は喫茶店も多い街。今回はそのうちいくつかを巡ります

バグパイプ
レトロな雰囲気の喫茶店です

アニメ「氷菓」ではパイナップルサンドという名で登場

アニメ「氷菓」は岐阜出身の作家・米澤穂信の小説を原作とする京都アニメーションの制作。

喫茶去かつて
格子戸が特徴的な和風モダンな喫茶店

こちらもアニメ「氷菓」で喫茶一二三として登場

2階の小上がり部屋

わらびもちとお抹茶をいただきました。

三軒目は

飛騨高山茶寮 三葉

町年寄 屋貝氏宅跡
【この地はかつて、屋貝家の邸宅があった場所。 屋貝家は金森家の家臣として名をはせた山蔵家とも親戚関係がありました。 戦国時代、金森長近が飛騨に攻め入った際、 山蔵縫殿助宗次は飛騨の土豪三木氏との争いで 畑六郎左衛門休高を一騎打ちで討ち取り功をなしました。 屋貝家は十七世紀に町代、後に町年寄となり幕末まで世襲により続きました。】

こちらはテレビなどメディアに登場する事が多いお店。
最近ではBS放送『楽しく1万歩!小京都日和』に登場。また映像配信「乃木坂、逃避行。」では乃木坂46の田村真佑さんと池田瑛紗さんが訪れています。

2人はこの席でかき氷を食していました。

内庭

今回で高山は終了です。
金森時代、天領時代を経て昭和モダンまで楽しい街でした。
またいつか訪れたいと思います。

2409 高山のすゝめ④ 昭和レトロの館

2024-11-17 | 探訪
高山

高山には何故か昭和レトロをイメージした観光スポットが複数あります。そのひとつが

飛騨高山レトロミュージアム

早速中へ

ジュークボックス
実際に稼働しており

レコードジャケット
こういった曲を実際に聴くことができます。

昔のテレビゲーム

こちらのウリはなんといっても学校給食体験。
ソフト麺、あげパン、牛乳とミルメーク

お次は

高山昭和館
昭和の町並みを再現しており

食堂

床屋さん

レコード店

昭和歌謡のレコードジャケットが並びます

お茶の間

勉強机やゲーム機が

そろばんをバットみたいに持つ王選手

昭和の人には懐かしく、若い人には珍しい場所でした。
次回も高山。

2409 高山のすゝめ③-2 町屋の茶室その2

2024-11-13 | 探訪
高山

松本家住宅
明治8年の大火を免れた貴重な江戸時代の町家で、高山市内に現存する中で最も古いとされる。
かつては薬種商「原三」の店舗兼住宅であった。

座敷

中庭

茶室
内部は三畳半。


板床で床柱は赤松。

丸窓の意匠

点前座

斜めに張られた天井

ここからは展示品を

金森宗和消息
宇治の茶師・上林三入宛

金森氏方(七之助)消息
加賀藩重臣・横山左衛門宛。
金森氏方は宗和の長男で加賀金森家の祖となった人物。

茶道具

原家の家紋「沢瀉」紋入りの采配

2409 高山のすゝめ③-1 町屋の茶室その1

2024-11-10 | 探訪

高山
今回は町屋の茶室を紹介

吉島家住宅
吉島家は代々生糸、繭の売買、金融、酒造業を営んだ。

明治40年に建てられた町家建築です。

「だいどこ」と「むかい」

本座敷
床と天袋を持つ床脇がある。

裏庭

茶室
内部は四畳半



点前座

中庭

続いては

村半(旧村田邸)
明治8年に建てられた町屋。「村半」の名は、当時の村田家当主「村田 半六」より取られた。

本座敷
書院造りの15畳。

中庭

茶室
内部は四畳半


奥行きがほとんどない侘びた床。

次回も町屋の茶室

2409 高山のすゝめ② 高山陣屋

2024-11-06 | 探訪
金森氏が出羽上山に転封された元禄5年(1692)に幕府が飛騨を直轄領として以降、その拠点となったのが

高山陣屋
郡代・代官所の中で、当時の建物が残っているのはこの高山陣屋だけだそうです。

それでは中へ

大広間
49畳敷の3部屋続きで、高山陣屋内で最大の広さを誇る。

庭園

嵐山の間
代官・郡代の日常生活に使われた部屋で、本来は御居間と呼ばれていた。

真向兎の釘隠し

御囲い
嵐山の間の奥にある茶室。三畳台目ほどの広さがあります。


軸は金森宗和の肖像(写)

御白洲
取り調べを行ったり、判決を言い渡した場所。裁判における法廷の役割を果たした部屋。

御蔵
年貢米を収納する米蔵。幕府直轄領となった直後の元禄8年(1695)に高山城三之丸より移築された。
現在は飛騨の歴史と文化を紹介する展示施設として利用されている。

それでは展示を拝見

刀 濃州 兼広
地役人でった田中十兵衛邦恭所持


地役人、土屋興四郎高信所持

鉄舟不二・案山子自画賛
山岡鉄舟の絵と書

若き日の山岡鉄舟像
弘化2年(1845)、飛騨郡代となった父に従い高山陣屋に入り、嘉永5年(1852)父の死に伴い江戸へ帰るまで高山で過ごした。

次回も高山

2409 高山のすゝめ① 金森氏の名残

2024-11-03 | 探訪
岐阜は高山

城山公園
天正16年(1588)金森長近によって築城が開始され、元禄5年(1692)に6代藩主・金森頼旹が出羽上山に転封され元禄8年(1695)、幕府の命により廃城となった高山城跡に作られた公園。

金森長近公像
二の丸にある金森長近の騎馬像。
金森長近は織田信長に仕え赤母衣衆として活躍。越前一向一揆攻めの功績により越前大野を与えられた。
天正13年(1585)飛騨に侵攻し、翌年には秀吉より飛騨一国を賜った。

高山城 本丸石垣
破却以前はここに二層三重の天守と屋形があった。

高山城本丸屋形平面図
図には上段や広間などの記載があり、おおよその場所が分かる。
左部には茶室である「カコイ」の記載があり、炉が切ってあり茶の湯に堪能であった金森氏らしい。

高山別院照蓮寺
天正16年(1588)金森長近によって白川郷から現在地に移転。
3代藩主・金森重頼の3男従純は、照蓮寺15世を継ぎ宣心と称するなど金森氏と照蓮寺の結びつきは強かった。

寺宝館

金森長近寄進甲冑
照蓮寺は度重なる火災にあったが、この甲冑は今日まで残された貴重なもの。

素玄寺
金森長近の菩提寺として、二代藩主・金森可重が建立した。
寺号は長近の法名「金龍院殿前兵部尚書法印要仲素玄大居士」に因む。
画像の本堂は高山城の三の丸にあった評議場を移築したもの。

金森家累代供養塔
京都へ改葬された金森家の墓地後に立つ供養塔。左右には主君に殉死した家臣の墓石が集められている。

宗猷寺
寛永9年(1632)三代藩主・重頼と重勝(左京)兄弟が父・金森可重の菩提を弔うために建立した。

川上別邸史跡公園
金森重勝(左京)の屋敷があったところでその後、町年寄りの川上斉右衛門の別邸になった。
庭は左京の時代からの遺構と考えられて、宗和流茶道の始祖で金森可重の嫡男であった宗和の庭の趣を有し、石組などが県内にある宗和好の庭との共通性が見られるのだとか。
但し宗和が茶匠としの歩みを始めるのは京に移り住んで以降の事であり、どこまで宗和が関与していたのかは難しいところ。