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SENgoKU anD VISIon -乱世を追う-

戦国・江戸時代 武将 甲冑・刀剣・茶道具 博物館・美術館・城・茶室などを巡る拝見記。その他の雑記もあり。

23GW 萩城下巡4 松陰神社 「花月楼」

2023-07-30 | 探訪


松陰神社
明治40年(1907)の創建で吉田松陰を祭神とする神社。

松下村塾
吉田松陰が主宰した私塾。
高杉晋作や久坂玄瑞に伊藤博文、山縣有朋などが通っており後の倒幕そして新政府設立の原動力となっている。

講義室
内部は八畳。

本殿
現在の社殿は、昭和30年に完成。

吉田松陰幽囚ノ旧宅
伊豆下田沖で海外渡航を試みたが失敗、江戸伝馬町の牢獄、次いで萩の野山獄に入れられた。
その後は実家である杉家旧宅で預かりの身となった。

茶室

内部は全体四畳半で一畳を床とする


床柱は皮付丸太となっています。

幽囚室
松陰が謹慎生活を送った部屋。
松陰はここで孟子や武教全書などを講じ、次第に多くの若者が集まるようになり、のちに松下村塾での教育が始まりました。

松陰神社宝物殿 至誠館
松陰神社に伝わる松陰の遺墨・遺品類を展示している。

茶室「花月楼」
萩藩7代藩主・毛利重就が、安永5年(1776)に三田尻御茶屋に建てたもの。
川上不白から献上された図面を以て造立しているが、不白の自邸にあった広間茶室「花月楼」が基となっている。
下部に写っている「花月楼」の額は品川弥二郎が明治20(1887)年に揮毫したもの。

文化2年(1805)茶堂・竹田休和が萩の平安古の屋敷に移し、更に明治20年(1887)品川弥二郎が萩の旧宅に移築した。
吉田松陰没後100年にあたる昭和34年(1959)にこの場所へ移されている。

内部は主室八畳に四畳の上段の二方に入側が矩折に廻る。
入側の建具を外すと二十畳敷の大広間として使える。

上段には床、棚、付書院を備える。

七事式の根本である花月之式を催すことができるよう設計された席で興味深かったです。

松陰だんごを食して次の場所へ

23GW 萩城下巡3 萩城址

2023-07-26 | 探訪
山口は萩

萩城
慶長9年(1604)毛利輝元が築城した。
現在は指月公園として市民に親しまれている。

天守台と背後には詰城があった指月山。

天守台
江戸時代には5層5階の天守があった。

天守の礎石

花江茶亭・梨羽家茶室
前々回に紹介済。

万歳橋
もとは萩藩校明倫館にあった太鼓橋

志都岐山神社
毛利元就、隆元、輝元、敬親、元徳の五柱を祭神として、初代から12代まで萩藩歴代藩主が祀られている。

毛利輝元公銅像
毛利輝元は、天文22年(1553)毛利隆元の長男として安芸国吉田郡山城にて誕生。祖父は毛利元就で永禄6年(1563)父隆元の死去にともない家督を継承した。
豊臣政権下では広島城主112万石の大名であり五大老を務めた。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで敗れ、周防・長門2ヶ国36万9千石に削封され萩城に移った。
寛永2年(1625)没、萩城三の丸の天樹院に葬られた。

萩藩主毛利家墓所(天樹院墓所)
毛利輝元の墓所。もともとここは輝元の隠居所(四本松邸)で、輝元亡き後に天樹院という菩提寺が建てられたが維新後に廃寺になった。

毛利輝元とその夫人の墓石。五輪塔形で輝元の墓石は2.1M。夫人のものは1.8Mと大型。

北の総門
江戸時代に城下町から萩城三の丸に入るために設けられた「大手三つの門」のひとつ。
2004年に「萩開府400年」を記念して復元された。

萩博物館
萩開府400年の記念日である2004年11月11日に開館した。

「特別公開 長州萩藩士が伝えた徳川家康の小袖」
萩藩士・村田安政が 徳川家康 から拝領した正式名称は「白練緯地葵紋付変り段亀甲模様小袖」

他には井上馨・伊藤博文ら長州ファイブの写真や高杉晋作着用の甲冑(周布政之助が晋作 に贈った)
などを拝見しました。

隅矢倉
伝統的建造物群保存地区にあって違和感のないよう、この隅矢倉や長屋門、土塀などを配し、通りからの景観についても周辺との調和が図られています。

次回も萩の何処かから。

23GW 萩城下巡2 萩・大茶会② 有備館・萩市民館

2023-07-22 | 探訪

萩・大茶会。お次の場所は

有備館
旧萩藩校明倫館の剣術場と槍術場を移して拡張したもの。

こちらは小堀遠州流の席でした。

床は端午の飾り

道具の一部。水指はやはりの萩焼

菓子は毛利公

茶碗は割高台でした。

次の場所へ。有備館のある明倫学舎の真向かいにある萩市民館

こちらは裏千家淡交会です。

掛物は裏千家16代坐忘斎筆

道具の一部

茶碗・替に薄器と茶杓。薄器は桐竹蒔絵。

菓子は夏蜜柑丸漬(光國本店)

御茶は苔の白(山政小山園)。宇治茶です。

夏蜜柑丸漬が美味しかったので後で、光國本店へうかがい購入しました。

萩・大茶会は以前から行ってみたいと思っていましたが今年やっと参加できました。
せっかく萩に来たので次回から城下を巡りたいと思います。

23GW 萩城下巡1 萩・大茶会① 「花江茶亭」

2023-07-16 | 探訪
山口は萩

萩・大茶会
萩焼とともに古くから親しまれている”茶の湯文化”に触れることができるイベント。
今年は市内3か所で開かれます。最初は

指月公園(旧萩城址)

庭園

灯籠も趣があります。

花江茶亭
指月公園(萩城祉)内にある茶室。
安政の初めごろ、長州藩13代藩主・毛利敬親の別邸である花江御殿に造った茶室で自在庵と呼ばれた。
幕末の多事多難のおり、この茶室で敬親は当時の有力者たちと茶事に託して時勢を論じ、国事を画策したと伝わる。
明治維新後、長屋氏に譲渡されたが、明治22年(1889)ごろ品川弥二郎らが主唱してこれを買い取り、指月公園内の現在地に移築した。

内部は四畳半に板の間一畳半が付く。


床柱に赤松の皮付丸太が使われている。
御軸は毛利家30代の毛利元道筆

床脇
違棚と地袋がある。

点前座

花江茶亭の側には、もう一つ茶室があります。

梨羽家茶室
もともとは萩藩寄組3300石余りを領す梨羽氏別邸にあったものを明治時代に移築した。
城内の年末大掃除の際、藩主は城を出て重臣の邸によける慣例があり、茶室などに藩主を迎えたので、別名「煤払いの茶室」とも呼ばれています。
江戸時代中期の花月楼形式を今に伝える名茶室です。

内部八畳で畳廊下が廻ります。
床は一間床で両脇に半間の棚を設けている。
大茶会の期間こちらでは生け花展が催されていました。

花月楼形式の座敷は、七事式が制定された際、これにかなう座敷として工夫されたもので表千家七代・如心斎やその高弟・川上不白の好みとされている。

さて大茶会。こちらの席は遠州流との事。

茶碗はガラス椀で涼しげです。

次の席へGo!

2304 大名茶人 織田有楽斎 -前期-

2023-07-12 | 探訪
京都は三条

京都文化博物館


四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎
期間:4月14日(金)~5月14日(日)-前期-

千道安書状
十月廿二日付、織田有楽斎宛。内容は有楽から届いた書状の礼を述べ、来月十一月二日の茶会には千少庵と申し合わせて共に参上すると記されている。
利休の実子である道安と利休の後妻の連れ子であった少庵の仲は良くないと思われがちだが、この手紙からは有楽を通じて両者に交流があった事がうかがえる。更に考えを進めれば有楽が両者を取り成す役目をしていたのかもしれない。
武野宗瓦書状
臘月(12月)廿五日付、某氏宛。内容は具体的な事は不明ながら、何らかの順番を決めるのに有楽に相談しており本書状では次は古田織部に決まった事を某氏に知らせている。
有楽・織部・宗瓦の交流を知る事が出来る内容となっている。
有楽斎手造茶碗
艶のある赤茶碗でところどころ黒く窯変している。全体大きく傾いており、また胴部に有楽の花押が陰刻されている。
有楽の手造りと伝わっており、有楽の茶会記には「手焼茶入」「手焼黒茶碗」など自作した道具を使っていた事が記されている。また江岑宗左の『茶書』には利休七種のひとつ臨済は有楽が焼いたとの記述も見られる事から、有楽は茶人による自作茶碗の先駆者的な存在と考えられます。

その他には利休作の象牙茶杓(豊臣秀次より有楽拝領)。有楽作茶杓(「落葉」「玉ふりふり」)。有楽が敬慕する武野紹鴎作の無節の茶杓。ノンコウの黒楽茶碗。 有楽井戸など有楽所持の道具の数々を拝見しました。


2304 西本願寺 飛雲閣 慶讃茶席

2023-07-09 | 探訪
京都

西本願寺
親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要の「協賛行事」として飛雲閣での慶讃茶席がありました。
普段は閉まっている滴翠園に入れます。今回は外観の撮影はOKでした。

飛雲閣
豊臣秀吉の聚楽第の遺構と言われていましたが、現在は少し時代は下ると考えられています。

茶室「青蓮謝」・「澆花亭」
樹木の奥にちらりと見えているのが2つの茶室「青蓮謝」と「澆花亭」です。
「澆花亭」は全体六畳で四畳半に一畳の点前座と風炉先に枡床を設けています。
もうひとつが「青蓮謝」で、こちらはやや変形した四畳半に貴人席ともいえる上段の間が付く。
上段の間には円窓があけられ、そこから滴翠園を眺められる。

茶室「憶昔席」
飛雲閣に隣接する茶室で寛政7年(1795)席開きが催された。
内部は三畳半で、藪内家六代・竹蔭の好みと考えられています。

胡蝶亭
傘形の東屋。

黄鶴台
浴室(蒸風呂)です。

飛雲閣 の二層・三層
二層には三十六歌仙を描く。

舟入の間
池から船で飛雲閣に出入りできる。

腰掛待合
憶昔席の露地にある。

さて入室、一の間に座り上々段の間がよく見える場所で良かったです。
お話があり、お菓子・お茶と進み短い時間で終了しました。

飛雲閣でお茶をいただくのは2度目ですが美味しくいただきました。
また機会があれば伺いたく思います。

2304 銀閣寺 特別公開

2023-07-05 | 探訪
京都

銀閣寺
正式には東山慈照寺といい、室町幕府8代将軍・足利義政の造営した山荘東山殿をルーツとする。

銀閣寺 春期特別公開
・本堂
・東求堂(国宝)
・弄清亭
を拝見します。
がその前に通常拝観を先に

銀閣寺垣

観音殿
国宝。通称の銀閣は江戸時代になってからの通称。

向月台

銀沙灘

大内石
周防の守護大名・大内政弘が東山殿造営時に、足利義政に献上したとされる。

洗月泉

本堂
特別拝観で内部を拝見しました。

銀閣寺形手水鉢
袈裟型手水鉢とも言われる。四方四面に異なった格子紋様を掘り出した形状のもの。

東求堂
国宝。特別公開で拝見。
文明18年(1486)に完成されたとされる義政の持仏堂。
内部は四室あり阿弥陀如来像を安置した仏間、その東に長四畳、北に広間六畳そして

同仁斎(資料写真より)
四畳半の書院であり「茶室の濫觴」といわれた。
相阿弥筆とされる「御飾書」にある書院飾りの再現展示がありました。

弄清亭
特別公開で拝見。
もとの弄清亭は御香座敷(香座敷の本歌)で足利義政が香を聞き、歌を楽しんだところ。
明治28年に再建され平成8年に改築、現在にいたっても志野宗信を祖とする志野流香道の香座敷となっている。

お茶の井 庭園
昭和6年に発掘され、西芳寺(苔寺)の石組を模範に作られたとされる庭園。
井泉は義政愛用のお茶の井跡。

特別公開で貰える冊子

同仁斎は茶室か否かは、足利義政を茶の湯の歴史のなかで、どう位置付けるのかに通じる問題ではあります。

2304 総見院 特別公開

2023-07-02 | 探訪
京都は紫野

総見院

織田信長の菩提寺。

織田信長と一族の供養塔

濃姫と信長の側室・お鍋の方の供養塔。

侘助椿
秀吉が千利休より譲り受けたもの。

鐘・鐘楼
天正11年(1583)堀秀政により寄進された。

井戸
井筒は加藤清正が文禄慶長の役の際に朝鮮より持ち帰った。

茶室「寿安席」
大正時代に実業家・山口玄洞により寄進された。

内部は八畳。一間床と床脇があり、床脇には地袋を設ける。

茶室「龐庵」
三畳向切の小間席。扁額は表千家の十四代・而妙斉の筆。

書院・大広間

茶室「香雲軒」
表千家の十三代・即中斎の好み

内部は八畳、入側付。

総見院と茶の湯の関りは深く、秀吉が開いた天正13年(1585)の大徳寺大茶会では総見院方丈で秀吉が茶を点てたとの記録があるそう。
現在の茶室は古いものでは無いですが茶の湯への拘りを感じます。