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SENgoKU anD VISIon -乱世を追う-

戦国・江戸時代 武将 甲冑・刀剣・茶道具 博物館・美術館・城・茶室などを巡る拝見記。その他の雑記もあり。

20201231 今年最後の・・・

2020-12-31 | 徒然
今年最後の更新です

2020年はコロナの影響で中止になったイベントが多く、更に移動の制限もあり博物館・美術館などへ行くのもままならない状態でしたが、「桃山」「麒麟がくる」「埋忠」などの展示は見応えがありました。
上記の特別展は全て時間指定の予約制を採用されています。コロナの影響なので仕方がないところですが、個人的にはふらりと訪れる事が出来ない場合もあるので苦手ではあります。
いつかコロナ前の状況に戻れば良いのですが・・・何時になる事やら・・・

来年は今年より良い年になるよう願いつつ、最後の更新を終了したいと思います。


2010 鞆の浦 ぶらり散歩

2020-12-29 | 探訪
広島県福山市は鞆の浦
古代より潮待ちの港として知られた港町。

常夜燈
「安政六年己未七月」(1859年)に建造された、鞆の浦のシンボル。

鞆城跡
足利義昭が一時滞在したことで知られる。後に福島正則により大規模な改修が行われている。
現在は鞆の浦歴史民俗資料館があります。

鞆城跡よりの眺め。

山中鹿之助首塚
天正六年(1578)山中鹿之助は毛利勢に捕らわれ「阿井の渡し」で殺害された。
その後、毛利輝元さらに鞆の浦に滞在していた足利義昭が首実検したとされ、首塚の近くに埋葬されたと伝えられている。

福禅寺対潮楼
朝鮮通信使の迎賓館として使われた客殿「対潮楼」が有名な真言宗大覚寺派の寺院。
いろは丸事件の際に坂本龍馬ら海援隊と紀州藩が談判を行った場所でもある。

「日東第一形勝」と称賛された眺望。

桝屋清右衛門宅

いろは丸事件の際、鞆港を訪れた坂本龍馬らが宿泊した。
龍馬が身を隠したという「龍馬の隠れ部屋」があります。
早速そちらへ

1階の天井の一部が開いて、ここから上がったようですが・・・・
いや無理だから!

現在は階段があります

こちらが「龍馬の隠れ部屋」です。広さは約6畳。

以前は窓の向こうに蔵があり、外からこの部屋はわからない状態だったそうで本当に隠れ部屋状態。

次回も鞆の浦です。

2010 鞆の浦歴史民俗資料館 鞆幕府 将軍足利義昭

2020-12-26 | 探訪
鞆の浦

鞆の浦歴史民俗資料館

特別展「鞆幕府 将軍足利義昭~瀬戸内・海城・水軍~」
期間:10月8日(木)~11月23日(月)

金襴陣羽織
村上海賊ミュージアム蔵。金襴で細かな文様を配し、上部に丸に上の字の家紋をあしらった陣羽織。袖にはフリルのような飾りが付いている。
能島村上氏の村上景親が着用したと伝わる。
公卿補任
毎年、歴代朝廷の高官の官職、名前などの記録。
「永禄11年(1568)」の条の冒頭には、足利義昭が織田信長に伴われ入洛し、10月18日に征夷大将軍の宣下を受けたことが記されている。
この年、もう一人の注目すべき人物は、関白・近衛前久であろう。前久の項には11月武命に違い出奔とある。つまり新将軍・義昭との間になにかあり、京を離れる事態になり更には関白を免官されている。
近衛前久が京に帰るのは7年後の天正3年まで待たねばならない、既に足利義昭は信長と対立し京を追われた後の事だった。
足利義昭御内書(本法寺古文書貼交屏風の内)
(天正10年)六月十三日付、乃美宗勝宛。義昭より小早川隆景の重臣・乃美宗勝に宛てた文書。最初に「信長討果」とあり本能寺の変で信長が討たれた11日後に出された事が分かる。
入洛の事について必ず奔走するよう毛利輝元・小早川隆景に命じたので、忠誠を尽くすよう求めている。
信長が明智光秀に討たれた事で、再び京に戻り復権出来るとこの時義昭は思っていたのかもしれないが、御内書の日付(6月13日)の日には山崎の戦いで光秀は敗北し落命しており、義昭の野望は果たされる事は無かった。
鶏香炉・鶴香炉
それぞれ「黄金の鶏」「赤銅の鶴」といわれる香炉で熊野(福山市)常国寺蔵。
足利義昭は慶長2年(1597)に亡くなるが、遺言として義昭遺愛の「黄金の鶏」「赤銅の鶴」その他あわせて9点を常国寺に贈ったと伝わる。

足利義昭の鞆幕府について充実した内容の展覧会でした。

2010 茶道資料館 北野大茶湯

2020-12-23 | 探訪
京都

茶道資料館

特別展「北野大茶湯 -天正から現代へ-」
期間:10月6日(火)~12月3日(木)


長闇堂記
奈良春日大社の神人・久保権太夫利世による茶の湯回想録。
天正15年(1587)10月1日、豊臣秀吉が京都・北野天満宮にて催した大茶会に久保権太夫は奈良衆36人に同行して見物した事を記している。
秀吉は境内の茶席を見物し、美濃の一化の席では焦がしを一服し白扇を与えたり、丿貫の席では朱塗りの大傘が照る日に輝き、人目を驚かせこれにも諸役御免を与えている。
これに感化されたのか権太夫はこの年より茶の湯を始めている。
ただし「長闇堂記」には大茶会の年紀を天正13年の事としている。
茶湯秘抄
元文三年(1738)土門(松屋)元亮編著による茶書。
先祖の松屋久政・久好父子が北野大茶湯に参加(奈良衆36人)した際の席の図が載せられている。
久政の席には床に松屋三名物の徐熙の白鷺の絵。盆に肩衝(松屋肩衝か?)を載せている。
久好は対照的に名物道具の無い侘び数寄の席であったが、藤に釜を吊る等工夫している。

さて上記2組は北野大茶湯に無事参加できましたが、以下の人物は・・・
宗湛日記
博多の商人・神屋宗湛による茶の湯の記録。
宗湛の元にも津田宗及を取次として御朱印が飛脚にて届いた。9月22日に博多を発った宗湛だが、大坂に到着したのは10月4日、つまり大茶湯には遅刻して参加できなかった。
8日に上洛し宗及取次により関白秀吉と対面「可哀そうに、遅く上洛したものだ、直ぐに茶を飲ませよう」と慰めの言葉をかけられている。
その言葉通りこの晩、宗及の振る舞いにて一服している。
古芦屋姥口雹釜
「山上宗二記」に記載される名物の釜で唯一現存する。元は平釜であった。
伝来は鳥居引拙、秀吉、古田織部、家康、尾張徳川家。
北野大茶湯では、拝殿の前に茶室四席が用意され、それぞれ秀吉・利休・宗及・宗久が茶頭を務めた。姥口雹釜は宗久席に置かれた「御釜うはくち」がそれだと考えられている。

豊臣秀吉が北野天満宮にて催した大茶会「北野大茶湯」、身分の上下にこだわらず広く参加を呼び掛け1500余りの茶屋が建てられたと伝わります。秀吉の催したイベントの中でも最大規模のこの大茶会、秀吉は意図するところは一体何だったのでしょうか?

2010 本能寺大寶殿宝物館 本能寺の変と天下人

2020-12-19 | 探訪
今回は京都

本能寺大寶殿宝物館

本能寺の変と天下人
期間:10月3日(土)~2021年1月31日(日)


豊臣秀吉肖像画
唐冠に白の直衣、虎の毛皮の上に座して背後に兜が配される。
江戸時代に描かれたものか、あまり見かけない像形である。
武田晴信感状
天文二十四年七月十九日付、秋山式部右衛門尉宛。
川中島の戦いで首一つを討ち捕った事への感状。
川中島では武田・上杉の戦いが行われたが、これは第二次合戦で犀川の戦いとも呼ばれるもの。
200日余りも長期対陣した戦で、信玄が出した感状が多く残されているのも特徴。
秋山式部右衛門尉に関しては秋山虎繁の関係者と考えられている。
信長記
小瀬甫庵の著した織田信長の一代記。これは元和八年の古活字版。
展示場面は桶狭間の戦いの場面。公爵毛利家旧蔵。
本多忠勝所用 陣羽織
朱地で、袖無の陣羽織。背中に本多家の家紋「立葵」を表す。
特に説明文も無かったので詳細は不明。ただ時代は下るように思います。

展示物のほとんどが複製品だったのが残念でした。

2010 安土城考古博物館 信長と光秀の時代

2020-12-16 | 探訪
今回は安土

安土城考古博物館

特別展「信長と光秀の時代―戦国近江から天下統一へ―」
期間:10月10日(土)~11月23日(月)

六角氏式目
近江の戦国大名・六角氏が定めた戦国法、本文は六十七箇条からなる。正本は確認されておらず展示は元和9年(1623)八月十四日付の写本。
起草した重臣20名が連署し、六角承禎・義治父子が起請文でその遵守を誓う形となっている。
観音寺騒動による六角氏と重臣たちとの対立、浅井氏による六角領への侵攻で弱体化した六角氏と重臣たちの結束を再度強化する必要から制定されたが、織田信長による南近江侵攻は目前に迫っていた。
江侍聞伝禄
寛文二年(1662)に書かれた、近江の武将に関する伝聞を集めた書物。
明智光秀の生国については美濃説が有力であるが、この書物には明智十左衛門という侍が美濃から移って二・三代が過ぎ子孫の十兵衛光秀が越前の朝倉義景に二百石で召し抱えらえた事。
近江が生国であったので山崎合戦では近江の地侍が力を貸したと記されている。
紫糸威具足
黒漆塗の胴に、金蒔絵で鍾馗像が描かれた紫糸威の甲冑。
胴や籠手に桔梗紋や雁金紋が見られ、安土桃山期のものと考えられる事から、光秀や明智家ゆかりの具足の可能性があると考えられている。

常設展示より関連の展示を

明智光秀書状
(天正七年)八月廿四日付、愛宕山威徳院法印御坊宛。
内容は戦勝祈願の約束により柏原の二百石の地を奉納すると記されている。
宛先の愛宕権現は光秀との繋がりが深く、本能寺の変直前にも光秀は参拝しており何度も籤を引き、有名な「ときはいま~」の発句を詠んだ連歌会を催している。

足利義昭御内書
(天正元年)八月三日付、渡辺土佐宛。
信長と対立した足利義昭は元亀四年(1573)7月に山城国槇島城で兵を挙げたが、たちまち織田軍に攻められ長子を人質として降伏した。
この手紙は、その後若江城に移る前に出されたもので、やがては毛利領国へ下向すると伝えている。
実際に義昭が毛利の領国である鞆の浦へ向かうのは天正四年の事になる。

今年の大河に関連して明智光秀に関する展覧会が各地で行われていますが、これもその一つ。
場所柄、近江に関する展示が多かったです。

2010 岐阜県博物館 増田孝コレクション 前期

2020-12-12 | 探訪
今回も岐阜

岐阜県博物館
マイミュージアムギャラリー展示

増田孝コレクション 自筆書状の魅力 前期:戦国大名の書状を中心に
期間:9月19日(土)~10月18日(日)

伊達政宗書状
七月十三日付、和久宗是宛。内容は宗是の茶室開きの茶会に招かれた際の礼状。
和久宗是は三好氏、足利将軍家、織田信長、そして秀吉に仕えた人物。秀吉亡き後は伊達政宗に招かれ仕えたが、大坂冬の陣が起こると秀吉の旧恩に報いるため豊臣方に参陣した。
大坂夏の陣での最後の戦いで徳川勢に突撃し討ち死にを遂げている。享年81歳であった。
細川忠興書状
八月廿五日付、内容は「四日」の茶会への出席を知らせる内容。
書面には藤堂高虎や佐久間不干斎の名も見られる。
織田有楽書状
十月廿九日付、永源寺宛。(永源寺が)明日朝の茶会は都合が悪いと連絡して来たのに対して、改めてお茶をさし上げたい旨が記されている。
永源寺は永源庵の事か?永源庵は有楽が隠居していた正伝院ともども建仁寺の塔頭であった。
藤堂高虎書状
二月廿二日付、佐伯権介宛。内容は佐伯権介の所持する肩衝を所望し、対価として金子15枚を支払う旨が記されている。
佐伯権介は惟定の事。佐伯肩衝は現存しているが、その移動過程を知ることが出来る内容となっている。

増田孝氏は「開運!なんでも鑑定団」に出演している方で古文書・書跡の専門家。
なかなか見れないコレクションを拝見出来て良かったです。

レディ・スターダスト 松本まりかの上昇と下降、そして浜辺の美しい波

2020-12-08 | 松本まりかのま
昨日放送の「クイズ!THE違和感」

ゲストに浜辺美波x松本まりか2大女優参戦!で、もうバチバチですよ(嘘

浜辺美波に迫る魔の手・・・
って感じですが、
こちらは築50年以上のマンションに住んでいて

「すきま風ビュービュー」の話のシーン


イメージとしてはこんな感じでしょうか???

さて今回のタイトル「レディ・スターダスト」は番組中に流れていた曲から。
デヴィッド・ボウイのアルバム「ジギー・スターダスト」の収録曲。ピアノが印象的です。


2010 岐阜県博物館 光秀が駆けぬけた戦国の岐阜

2020-12-05 | 探訪
今回は岐阜

駅前の信長像もマスク姿に・・・・やり過ぎでは?

岐阜県博物館

特別展「光秀が駆けぬけた戦国の岐阜」
期間:9月18日(金)~ 11月15日(日)

平絹地肌着
白衣に筒袖の部分が紺色の肌着。
付箋に「大かうさまめしたる御はためし」とあり森長可が秀吉より拝領したと伝わる。
丸紋散刺繍胴服
桐、輪違、巴、井桁の文様が刺繍された袷の胴服。
秀吉の死去に際して、羽織・小袖、腰物(刀剣)が森忠政に下賜されたが、その中の小袖に該当すると考えられる。
古田織部消息
閏三月朔日付、和久宗是宛。内容は約束していた挽切を持たせ参る事や、大坂で対面したい旨が記されている。
挽切は青竹を切ったもので、茶道具を作る為に贈ったと思われる。

他には森忠政所用の二枚胴具足や足利義昭より島津義久へ贈られた太刀「康次」など拝見。
タイトルに「光秀」と出てきますが、光秀色はあまり濃くなく、美濃の武将が広く取り上げられていました。

2009 茶苑「海月」

2020-12-02 | 探訪
名護屋城のほど近く、

茶苑「海月」

茶屋棟
こちらでは

お抹茶がいただけます

茶屋棟の十畳間

続いては茶室棟へ

腰掛待合

茶室棟

四畳半の間の外観。躙口と刀掛もあります。

四畳半内部

こちらは八畳の広間

名護屋城跡には茶室の遺構が発見されており、文献でも度々茶会が催されていた事が分かっています。そういった事を継承していこうとの思いが伝わってきました。