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SENgoKU anD VISIon -乱世を追う-

戦国・江戸時代 武将 甲冑・刀剣・茶道具 博物館・美術館・城・茶室などを巡る拝見記。その他の雑記もあり。

2010 茶道資料館 北野大茶湯

2020-12-23 | 探訪
京都

茶道資料館

特別展「北野大茶湯 -天正から現代へ-」
期間:10月6日(火)~12月3日(木)


長闇堂記
奈良春日大社の神人・久保権太夫利世による茶の湯回想録。
天正15年(1587)10月1日、豊臣秀吉が京都・北野天満宮にて催した大茶会に久保権太夫は奈良衆36人に同行して見物した事を記している。
秀吉は境内の茶席を見物し、美濃の一化の席では焦がしを一服し白扇を与えたり、丿貫の席では朱塗りの大傘が照る日に輝き、人目を驚かせこれにも諸役御免を与えている。
これに感化されたのか権太夫はこの年より茶の湯を始めている。
ただし「長闇堂記」には大茶会の年紀を天正13年の事としている。
茶湯秘抄
元文三年(1738)土門(松屋)元亮編著による茶書。
先祖の松屋久政・久好父子が北野大茶湯に参加(奈良衆36人)した際の席の図が載せられている。
久政の席には床に松屋三名物の徐熙の白鷺の絵。盆に肩衝(松屋肩衝か?)を載せている。
久好は対照的に名物道具の無い侘び数寄の席であったが、藤に釜を吊る等工夫している。

さて上記2組は北野大茶湯に無事参加できましたが、以下の人物は・・・
宗湛日記
博多の商人・神屋宗湛による茶の湯の記録。
宗湛の元にも津田宗及を取次として御朱印が飛脚にて届いた。9月22日に博多を発った宗湛だが、大坂に到着したのは10月4日、つまり大茶湯には遅刻して参加できなかった。
8日に上洛し宗及取次により関白秀吉と対面「可哀そうに、遅く上洛したものだ、直ぐに茶を飲ませよう」と慰めの言葉をかけられている。
その言葉通りこの晩、宗及の振る舞いにて一服している。
古芦屋姥口雹釜
「山上宗二記」に記載される名物の釜で唯一現存する。元は平釜であった。
伝来は鳥居引拙、秀吉、古田織部、家康、尾張徳川家。
北野大茶湯では、拝殿の前に茶室四席が用意され、それぞれ秀吉・利休・宗及・宗久が茶頭を務めた。姥口雹釜は宗久席に置かれた「御釜うはくち」がそれだと考えられている。

豊臣秀吉が北野天満宮にて催した大茶会「北野大茶湯」、身分の上下にこだわらず広く参加を呼び掛け1500余りの茶屋が建てられたと伝わります。秀吉の催したイベントの中でも最大規模のこの大茶会、秀吉は意図するところは一体何だったのでしょうか?


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