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SENgoKU anD VISIon -乱世を追う-

戦国・江戸時代 武将 甲冑・刀剣・茶道具 博物館・美術館・城・茶室などを巡る拝見記。その他の雑記もあり。

1705 森記念秋水美術館 秋水の美Ⅳ

2017-05-31 | 探訪
富山
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森記念秋水美術館
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所蔵名品刀展 秋水の美Ⅳ
期間:4月18日(火)~7月9日(日)
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宮本武蔵所用 太刀 銘 了戒(号 武蔵了戒)
刃長85.4cm。鎌倉時代後期山城の刀工・了戒の作。
熊本藩細川家に伝来した宮本武蔵の佩刀とされ、武蔵が一乗寺下り松の決闘で吉岡一門と闘った際に使用したとされる。
島津義弘所用 刀 無銘 西蓮
刃長69.4cm。鎌倉時代末期筑前の刀工・西蓮の作。棟の部分に切り込み傷がある。
薩摩藩島津家の一門である重富島津家に伝来した刀で、それ以前は島津義弘が朝鮮の役で使用したとされる。

その他、佐土原島津家伝来の太刀(定利)や島津家重臣・種子島家伝来の太刀(景秀)など九州(特に島津)ゆかりの展示が多かった印象。

1704 加賀本多博物館 加賀本多家と家臣たち

2017-05-28 | 探訪
今回も金沢
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加賀本多博物館
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特別展 加賀本多家と家臣たち
期間:3月18日(土)~7月12日(水)
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本多政重像
赤袍の束帯姿の肖像画。「寛永十三年五月」の年記があり寿像である事が分かる。
上部には政重自筆による「一たちと~」の自詠の和歌が記されている。
本多政重所用 烏帽子形兜
鉄の兜鉢に木と紙で烏帽子と後で結んだ鉢巻を作り黒漆塗している。後立は背美鯨の髭製。
本多政重所用 黒漆塗黒糸威両引合胴
兜は立物の無い頭形兜。胴は鉄板を黒糸で威している。
上杉景勝の甲冑にも類似のものがあるそうで、米沢時代の具足かもしれません。
本多政重所用 大身槍 銘 政俊
室町末期の駿東鍛冶であった政俊の作。全長156.3cmで柄までいれると3mとなる。
宇喜多勢で参加した関ヶ原の戦いで使用したとされ、「御先祖槍」と呼ばれる。

久しぶりに本多家のあれやこれやを拝見できました。

1704 石川県立美術館 茶道美術名品選Ⅰ

2017-05-24 | 探訪
金沢
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石川県立美術館
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茶道美術名品選Ⅰ
期間:3月27日(月) ~ 4月16日(日) 

黒楽茶碗 銘 北野 長次郎作
大名物。引き締まった形の茶碗。比較的厚めに黒釉がかけられ荒めのカセ膚となっている。
「北野黒」と称され利休が北野大茶湯で使用したとされる。江岑宗左の箱書・添状によればかつて利休の判が書かれていたが今は消えていて見えないと記されており利休所持を裏付けている。
江岑宗左の時代には北野天満宮の近く興善院(良淳)が所持、その後塗師の中村宗哲さらに表千家七代如心斎に伝わった。
その如心斎に師事していた川上不白は、江戸の豪商冬木家に利休自筆の遺偈が在る事を知り交渉、表千家に戻す事となった。その際返礼として表千家より冬木家に古田織部宛利休書状「武蔵鐙の文」とこの北野黒が贈られている。
その後は大和郡山藩主・柳沢保光(尭山)そして松平不昧へと渡り大名物に格付けされている。
粉引茶碗 銘 楚白
中興名物。白釉を施した茶碗でその釉面が粉を引いたような状態から「粉引」と呼ばれ、釉が掛かっていない笹の葉状の火間が見所となっている。
粉引茶碗の代表格「三好」「松平」とは碗形が異なり、また碗が傾いているのも面白い。
前田利常所持で以降加賀前田家に伝来した。
赤楽茶碗 銘 山科 本阿弥光悦作
落着いた色の赤樂茶碗。腰から胴にかけて丸く張った鞠のような姿だが、腰の一方がぷくりと膨れているのが光悦らしい。
口はキッパリと切り取られたかの如くで、高台は小さいながらも存在する。

この他にも利休・高山右近・光悦の書状。利休・宗旦の竹花入に織部・宗旦・本阿弥光甫の竹茶杓などなど見所が多かったです。
 

1704 日本橋高島屋 熊本城と加藤清正・細川家ゆかりの品々

2017-05-21 | 探訪
日本橋
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日本橋高島屋 8階ホール
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熊本復興祈念展 熊本城と加藤清正・細川家ゆかりの品々
期間:4月12日(水)~4月24日(月)
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加藤清正所用 白檀塗蛇の目紋蒔絵仏胴具足
兜は左右に蛇の目紋を金箔押しで表した長烏帽子形。朱塗りの胴にも金箔で蛇の目紋を表す。
加藤清正の菩提寺である熊本の本妙寺蔵。
加藤清正自筆書状(ゆめのこと)
本妙寺蔵。 伝存する数少ない清正直筆の書状。
内容は清正が見た夢の事が記されている。清正が捕まえてきた鷹を見た豊臣秀吉が「暇だから鷹でも捕まえたのか」と言ったのに対し清正が「川に落ちて傷ついていたので看病しょうと思い捕まえてきました」と釈明している。清正の秀吉に対する敬慕の情が窺える内容。
加藤忠広所用 金白檀小札紫糸威胴丸具足
本妙寺蔵。兜は椎実形で金箔押し蛇の目紋の前立を挿す。胴は金白檀塗に紫糸を威した華美なもの。
加藤忠広は清正の後を継いで熊本藩主になったが、寛永九年(1632)改易され、加藤家はわずか二代で熊本を去る事となった。代わって細川忠利が豊前小倉より転封となった。

この他の展示では今回の震災で熊本城より落ちた瓦や崩れた石垣の一部が展示されていました。修復には長い道のりが待っているかと思いますが、また必ず登城して天守から熊本の街を一望したいと思いました。 

1704 泉屋博古館 分館 屏風にあそぶ春のしつらえ

2017-05-17 | 探訪
六本木
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泉屋博古館 分館
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屏風にあそぶ春のしつらえ ―茶道具とおもてなしのうつわ
期間:2月25日(土)~5月7日(日)
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瀬戸肩衝茶入 銘 打出
中興名物。瀬戸金華山のうち大津手の茶入。総体柿金気を帯びた明るい鉄釉で、肩から一筋くっきりとしたなだれが置形が景色となっている。
「打出」の銘は近江の打出の浜にちなむ。小堀遠州所持の後は松平備前守、秋元但馬守と伝来した。
紅葉呉器茶碗
紅葉のような淡い紅色の茶碗。丸い碗形を高めの撥高台が支えるのが特徴的。
内箱蓋裏の円窓には山水画が描かれており松花堂昭乗筆とされる。
朝ドラで有名になった加島屋広岡家伝来で、他に鴻池家・平瀬家に伝来した紅葉呉器茶碗と共に浪花の三名物と称された。
二条城行幸図屏風
寛永三年(1626)将軍徳川家光と大御所秀忠が上洛。2人の招きに応じ後水尾天皇が二条城へ行幸する様子を描いた六曲一双の屏風。 
華やかな様子を描いているが、後水尾天皇の心中は如何ばかりであったろうか。
徳川幕府による「禁中並公家諸法度」の公布による天皇・公家への締め付け、徳川家康の孫娘和子を後水尾天皇の女御として入内させるなど圧力を強める中で行幸も行われている。
この後も紫衣事件や家光の乳母お福(後の春日局)を無位無官のまま参内するなど事件が続いた結果、後水尾天皇は幕府に無断で譲位を行う事となる。

 この他「四季草花図屏風」( 伊年印)など春らしい展示が多かったです。

1704 京都国立博物館 海北友松

2017-05-14 | 探訪
さらに京都
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京都国立博物館
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開館120周年記念特別展覧会 海北友松
期間:4月11日(火)~ 5月21日(日)
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海北友松夫妻像 海北友雪筆
海北友松と妻・妙貞の姿を息子の友雪が描いたもの。上部には後年孫の友竹が友松の来歴等を記している。
妙貞が着る三葉葵の紋付と朱の縞の小袖は春日局よりの拝領品。これは友松が春日局の父・斎藤利三の友人で山崎の合戦の後処刑された利三の遺骸を共に友人であった真如堂の東陽坊長盛と奪い手厚く葬った事、局自身も海北夫妻に母と共に匿われた事があり、徳川家光の乳母となった後に局は旧恩に報いるため友松の死後ではあるが、妙貞と友雪を江戸によんで歓待したとされます。また友雪に対しては徳川家光へ推挙し御用絵師を務めさせています。
春日局像 狩野探幽筆
京都・麟祥院蔵。赤い袴と白い衣を着た肖像。注目すべき点は長刀が描かれている事。武家の出身である事を誇示しているかの様。
歴代年譜景勝公
米沢藩上杉家歴代藩主の事績を記した内。文禄三年(1594)京都の自邸に豊臣秀吉を招いて歓待し様々な品を献上した景勝に対し、秀吉からは名物庖丁籐四郎などと共に友松筆の濃彩松鳥画屏風一双を賜った事が記されている。
秀吉と友松は、文禄二年に秀吉の側近施薬院全宗の茶会で出合っている。武士として海北家再興を夢見る友松に対し秀吉はその画才を褒め絵師として生きる道を示唆したとされる。
近衛信尹書状
展示の友松筆「漁村夕照図」「瀟湘夜雨図」(共に瀟湘八景図のうち)に附属する書状。
絵の注文主と友松の仲介者の間に信尹は居たようで、仲介者から友松への礼の事を注文主に伝えるよう促された信尹は、必ず晩に訪れるか人を遣わして伝えるとしている。
名前は出てこないが近衛信尹を間に挟める注文主と仲介者は誰なのか非常に気になるところ。
禅宗祖師・散聖図押絵貼屏風 海北友松筆
6曲1双の屏風。禅宗の祖師・散聖の故事を12図描き上部に禅僧が賛を認めている。
この屏風に賛を記した人物では沢庵宗彭・玉室宗珀・江月完玩と大徳寺の僧が最も多い。
飲中八仙図屏風 海北友松筆
唐の詩人である杜甫の詩を題材とした屏風絵。元は1双の屏風だったが現在は左隻のみが残る。
慶長七年十月三日の年記や、因幡国鹿野城主・亀井茲矩の依頼で製作された事が記されている。
2人は仲が良かったようで、ある時友松が茲矩に良馬を求めたところ茲矩から選りすぐりの数頭が送られて来たが、友松はどれも気に入らず送り返し自ら駿馬を探し出した逸話があります。

海北友松は狩野永徳や長谷川等伯ほど有名ではありませんが、武士の子でありながら絵師として生きた生涯はなかなかに興味深いものがありました。 

1704 京都文化博物館 戦国時代展

2017-05-10 | 探訪
京都
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京都文化博物館
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戦国時代展 -A CENTURY of DREAMS-
期間:2月25日(土)~4月16日(日)

前後期拝見しました
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足利義輝像
京都・真正極楽寺蔵。烏帽子をかぶり片身替りの小袖の上から透直垂を着る。
右手に扇子、左腰には桐紋のあしらった腰刀を佩く。
足利義輝は室町幕府第十三代将軍。剣豪塚原卜伝に指導を受けており永禄八年(1565)三好一党に御所を襲撃された際は、自ら太刀を振るって応戦したとされる。
細川勝元像
勝元が創建した竜安寺に伝わる肖像。黒の袍を着た姿で、特徴的なのは眼球に赤が彩色されている事。勝元の常人ならざる様が描かれています。
細川勝元は室町幕府で管領を3度務めた人物。応仁の乱では東軍の総大将として西軍と戦った。
細川政元像
政元の父勝元が創建した竜安寺に伝わる。
細川政元は勝元の後を継ぎ細川京兆家の当主となった人物。明応の政変により将軍足利義材を廃し義澄を新将軍に据え傀儡とし「半将軍」と呼ばれた。一方で修験道に凝り生涯独身を通した為、実子が無く3人の養子を迎えたが後継者争いが起こりその一人澄之の一派に暗殺されている。
住吉千句連歌懐紙  三条西実隆筆
大永元年(1521)十一月に大坂住吉大社の祭神に捧げる目的で詠まれた連歌を実隆が書いたもの。
大部分は実隆と連歌師・宗碩によるもの。また料紙は金銀泥で草花を描いたもので、「実隆日記」によれば天皇へ進上する目的であった為この様に美麗になったと思われる。
真如堂縁起 下巻 後柏原天皇外題 三条西実隆、公助詞書 掃部助久国画
真正極楽寺蔵。大永4年(1524)奉納された三巻よりなる絵巻。下巻では応仁の乱での戦闘場面が描かれており貴重な史料となっている。
秋景冬景山水図 徽宗筆
国宝、金地院蔵。もとは四季を描いた4幅揃いだった。現在では徽宗より若干後の作品とされている。
足利義満の蔵有を示す「天山」印が捺されており足利様軍家に伝来していたが、足利義材より大内政弘が拝領した。後に金地院崇伝の所有となった。

折角の京都展ですので応仁の乱をクローズアップしてほしかったところ。東軍の細川勝元の展示はありましたが、西軍の山名宗全の展示はなし(他の武将たちも)。応仁の乱がプチ注目されている今なので残念でした。

1704 北村美術館 薫風

2017-05-07 | 探訪
またまた京都
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北村美術館
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春季茶道具取合展「薫風」
期間:3月11日(土)~6月11日(日)
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金輪寺茶器
円筒形の茶器で、蓋はやや甲盛り。底に利休のケラ判が直書されている。
「金輪寺」の名は吉野の金峯山寺の事。ここで後醍醐天皇が衆僧に茶を振舞った際に山頂の蔦の木株で作ったとされるものが本歌。
黒樂茶碗 銘 いさり船 道入作
筆洗形と呼ばれる楕円形で二ヶ所段が付いている。高台は四方形で、切り込みが2ヶ所ある割り高台となっている。同形の茶碗が樂家にも伝来している。
肩衝姥口筒釜 大西浄林作
筒型の茶釜で、胴には4段に大小の霙地紋が鋳出されている。鐶付と蓋には蜻蛉を表す。
大西浄林は京都三条の釜師で今に続く大西家の初代。 

北村美術館を代表する優品は東京へ出張中。ややこじんまりした展示でした。 

1704 古田織部美術館 古田織部と慶長年間のかぶき者

2017-05-03 | 探訪
京都
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古田織部美術館
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春季展「古田織部と慶長年間のかぶき者」
期間:1月21日(土)~ 5月14日(日)
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古田織部書状
七月廿日付、大野修理治長宛。内容は織部が大野修理に何かを借り、それを明日取りに行かせる。また織部自身は明日の晩に下向(駿府・江戸)するというもの。
豊臣・徳川分け隔てなく交流する織部の姿がある。
織部肩衝茶入 銘 円扇 有来新兵衛(十蔵)造
やや背の低い筒型の肩衝茶入。底に「十蔵」と作者名が入れられている。
京の商人有来新兵衛が駿府の土を用いて作ったとされる。
島津家伝来。
脇差 銘 肥後大掾下坂
太刀 無銘(西蓮)

「駿府御分物元帳」には織部の遺品として2振の脇指が記されている。
下坂市左衛門(初代越前康継)は越前で結城秀康に仕え、その縁で幕府にも仕えた。
西蓮は鎌倉後期筑前国の刀工。
今回展示品は織部所持の品そのものでは無く、あくまで同じ刀工の作品を展示している。
織部所持の茶道具は現在も残っているが、武器・武具は無いのではないだろうか 。