2010年のGWのお話。
最初はここ

中津です。写真は駅前の福沢諭吉像。

中津城
黒田孝高(如水)の築城。関ヶ原の戦い後に細川忠興が入り、細川氏が熊本転封後は小笠原氏、奥平氏が入り廃藩置県まで続く事となる。
現在の天守は1964年に建てられた模擬天守だそう。天守は北東隅櫓跡に建てられている為かかなり張出している印象。

奥平神社
天守横にある。如水や忠興の有名武将の居城であったが一番長く居たのは奥平氏である。その為場内の展示も奥平氏のものが多い。

白鳥の槍
鎮西八郎こと源為朝所用とされる鏃で後に、信長→家康へ。そして奥平忠昌が家康より賜った奥平家家宝。

奥平信昌所用 錆地打延五枚胴具足
信昌が長篠の戦いで着用したものと伝わっている(武田に攻められた長篠城に籠城し守り抜いた)。
他にも武田信玄より拝領の陣羽織や松平忠明(奥平信昌の4男)の陣羽織等展示があった。
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杵築城
元は「木付」だったが徳川幕府の朱印状に誤って「杵築」と記されていた事から現在の名に改められた。現在の天守は1970年に建てられた。

浅井直政(万菊丸)所用具足
直政は浅井長政とお市の方次男。浅井三姉妹は有名だが、男子も2人おり長男万福丸は小谷城落城後発見され磔にされたが、次男万菊丸は生き残った。
その他石田正澄(三成兄)所用の兜もありました。前立は鍬形、脇立は鳥毛となっている。
杵築城下は武家屋敷等がよく残っている。
南北の高台に武家屋敷その谷あいに商人の町があり「日本唯一のサンドイッチ型城下町」などと言われている。

北台の酢屋の坂から南台の志保屋の坂を望む
次の目的地へ続く。
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中津です。写真は駅前の福沢諭吉像。

中津城
黒田孝高(如水)の築城。関ヶ原の戦い後に細川忠興が入り、細川氏が熊本転封後は小笠原氏、奥平氏が入り廃藩置県まで続く事となる。
現在の天守は1964年に建てられた模擬天守だそう。天守は北東隅櫓跡に建てられている為かかなり張出している印象。

奥平神社
天守横にある。如水や忠興の有名武将の居城であったが一番長く居たのは奥平氏である。その為場内の展示も奥平氏のものが多い。

白鳥の槍
鎮西八郎こと源為朝所用とされる鏃で後に、信長→家康へ。そして奥平忠昌が家康より賜った奥平家家宝。

奥平信昌所用 錆地打延五枚胴具足
信昌が長篠の戦いで着用したものと伝わっている(武田に攻められた長篠城に籠城し守り抜いた)。
他にも武田信玄より拝領の陣羽織や松平忠明(奥平信昌の4男)の陣羽織等展示があった。
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杵築城
元は「木付」だったが徳川幕府の朱印状に誤って「杵築」と記されていた事から現在の名に改められた。現在の天守は1970年に建てられた。

浅井直政(万菊丸)所用具足
直政は浅井長政とお市の方次男。浅井三姉妹は有名だが、男子も2人おり長男万福丸は小谷城落城後発見され磔にされたが、次男万菊丸は生き残った。
その他石田正澄(三成兄)所用の兜もありました。前立は鍬形、脇立は鳥毛となっている。
杵築城下は武家屋敷等がよく残っている。
南北の高台に武家屋敷その谷あいに商人の町があり「日本唯一のサンドイッチ型城下町」などと言われている。

北台の酢屋の坂から南台の志保屋の坂を望む
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