ラミーユ浦和 活き活きクラブ

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渋沢栄一翁生誕の地を訪れる

2021-12-13 | 社会見学会

コロナの関係で止む無く中断していた社会見学会でしたが、12月10日久しぶりに実施しました。

行先は、今、大河ドラマで放送中の渋沢栄一翁の生誕地深谷。

参加者は18名でした。

今回訪れた施設は、渋沢栄一記念館⇒旧渋沢邸(中の家)⇒尾高惇忠生家⇒

渋沢栄一青天を衝け 深谷大河ドラマ館⇒誠之堂・清風亭

先ず、最初に訪れたのが「渋沢栄一記念館」

講義室に入り、渋沢栄一アンドロイド(人造人間)による講義を受ける。 その後、資料室に移動し、渋沢栄一ゆかりの遺墨や写真などを拝見。 子供達がボランティアでガイドしていた。 次に訪れたのは、旧渋沢邸(中の家)。 渋沢栄一は江戸時代後期の1840年(天保11年)この地で誕生。渋沢家の長男として23歳まで中の家で過ごした。生家は1892年(明治25年)に火災で焼失し、現存するのは家督を継いだ栄一の妹・てい夫婦が1895年(明治28年)に上棟した建物。

正門、正門の扉はケヤキの一枚板で作られている。 母屋、屋根に「煙りだし」と呼ばれる天窓のある典型的な養蚕農家の形をしている。 母屋の前に渋沢栄一翁の銅像が立っている。 母屋の周囲には四つの土蔵がある。写真の右側の土蔵には大谷石を積んだ半地下室を持ち,藍玉の製造・貯蔵場として使用されていた。 奥の部屋に置かれている渋沢栄一翁のアンドロイド。80歳の渋沢栄一の姿を再現している。 渋沢栄一翁が好んだ深谷の郷土料理「煮ぼうとう」専門店で煮ぼうとうを食べる。 食事後、尾高惇忠の生家を訪ねる。 この尾高惇忠生家は江戸時代後期に惇忠の祖父磯五郎が建てたと伝えられる。「油屋」の屋号で呼ばれ、この地方の商家建物の趣を残す貴重な建造物。 この家の2階で、惇忠若き日に惇忠や栄一らが尊王攘夷思想に共鳴し、高崎城乗っ取り・横浜外国商館焼き討ちの謀議をなしたと伝わる。 焼き討ち計画を立てた時の血判状(大河ドラマ館にて展示されている) 尾高惇忠生家の内部、尾高惇忠の肖像写真が玄関に飾られている。 ボランティアガイドの説明を聞く。後方の建物は煉瓦作りの土蔵で日本煉瓦製造の煉瓦で建てられた。 次に訪れたのが大河ドラマ館。 館内に入るとアンドロイド映像の渋沢栄一と尾高惇忠のパネルが迎えてくれる。天井からは藍で染められた長い布が下がり井戸が設けられている。 渋沢栄一とその妻(パネル)が迎えてくれる。 渋沢栄一翁が育った家として創作された中の家のセット。当時の暮らしぶりが身近に感じられる。 パリ万博のパビリオンで外国人に混じって栄一達一行がエレベーターに乗ったシーンに使われたエレベーターのセット。 平岡平四郎が妻やすへ残した文。実際に撮影に使われたものが展示されている。 大河ドラマで出演者が着た衣装。左:渋沢喜作、 右:渋沢栄一 尾高ゆう 左:尾高長七郎、中:渋沢てい、右:尾高平九郎 この車は1936年(昭和11年)アメリカで製造されたもので、当時の日本煉瓦製造の社長が個人で購入し社用車として活用した。現在は深谷市内の会社経営者が譲り受け管理している。栄一が創設した日本煉瓦で使用された車であることから深谷大河ドラマ館開館期間中に限り特別に展示されている。(説明版より抜粋) いよいよ最後は誠之堂・清風亭 誠之堂の前でボランティアガイドによる説明を聞く。 誠之堂は大正5年(1916)、渋沢栄一の喜寿(77歳)を記念して第1銀行行員たちの出資により建築された。 誠之堂外観、ここで使用されているレンガは日本煉瓦製造で焼かれたものである。 内部 ステンドグラス。中國風の珍しい題材。 清風亭外観、清風亭は大正15年(1926)当時第1銀行頭取だった佐々木勇之助の古希を記念して建てられた。 清風亭内部。 皆さん、渋沢栄一翁の偉大さを改めて知り、学ぶことができたのではないでしょうか。 投稿者:やまちゃん

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