さてさて、前回の
「チャンディガルからの移動編」から、
何カ月ぶりでしょうか
たまにマイペースなところのある、おうし座の私ですので…
ゆるしてくださいね(笑)
レーリッヒの描いたヒマラヤ。
マナリという地に、ヨーガニケタンはあります
そして、慧心先生の兄弟子(めずらしい女性です)
アルナさんとラリタさんのもとで、修行です。
毎朝のプラナヤマ、瞑想…
↑写真は、アグニホトラ。
ごま木を燃やし、神に祈りを捧げます。
日々修行をする中で、様々な疑問が生まれる。
この地で修業を続けられる方から、
ありがたいお言葉を頂きました。
「私自身が、そのようにかわっていけば良い」と。
アルナさん、ラリタさんは、ある日同じ夢を見たそう。
そして、南インドから遥かこのヒマラヤの地にやってきて、
日々なんの贅沢もない暮らし。
自身を信じ、神を信じ、誰に褒められるでもなく、
ただただ修行を続けられている。
「自我」は消え、まわりの為に、生命すべての為に、祈りを捧げて。
人を評価しているとき、見ているのは自分。
自分の内にそれを見ている。
改めて、
頭ではなく、こころで感じた。
自身が変われば、まわりもかわるのだと。
だけど、それを目的にしたとき意味は変わってしまう。
前日は断食だったので、軽めのLUNCH
アグニホトラを終えた午後は、マナリの街にでました
街中で、ヴィジュラというおかまさん(正確には違うらしい!)
に逢いました。
お店に一軒一軒まわっていくそう。
リキシャに乗って↓
ヒンドゥー教の寺院に向かいます
このお兄さんの服装でお分かりの通り…
イメージされているインドよりは涼しいです。
マナリは、2050m程の地です
チベット仏教と、ヒンドゥー教との合流地です
そして…
ついにさらに高い地へ…
海抜3,978mまで…
こんなに高い地に、お花、蝶々、羊飼いの少年…
当り前に生きている
私たちが日々
「常識」と
そう呼ぶものが如何に
「常識という名の先入観」
かを感じる。
空気は薄いけれど、呼吸を丁寧にすれば、
からだはとても喜んでくれた
そして…
この光たちの虹のような色を…
瞼を閉じてみても、
わたしの中に、大きな光が入ってくる
瞑想をしようなんて思わなくても、ただ体を忘れ、心を忘れ…
軽く軽くなってゆく…
そんな感覚がありました。
私自身がこの光であり
風であり
大きな空であり
小さな小さなひとつの細胞であり
こんな場所で修行をしていた行者さん達は、
より光に近く。
神を感じられたのだと思う。
冗談ではなく、私は思い残すことはない…
なんて感じてしまった
このテントで生活します
瞑想中やプラナヤーマの最中には、
びっくりする程のあふれ出るエネルギーを感じるばかりでしたが…
テント地に下りてから。
疲れもたまっていたようで、気分が悪くなってしまいました。
そのお陰で、ひとの温かさに触れることができました。
この不便な地のおかげで(トイレも穴を掘った簡易トイレです!)
何もないけど、
確かにある。
そう強く強く感じることができました。
物がありすぎて、いろんなことが溢れすぎて、
感じるのが難しくなっているもの。
わたしたちは、何も持たなくてもしあわせ。
何も持たない方がしあわせ。
そして、
気分が悪くなりながら、
ありがとうが溢れ、
謙虚な気持ちを思い出していました。
自信がなかった頃、生きる意味が見いだせずにいた頃…
自分以外が大きく輝いて見えた。
そして、私はちっぽけだと。
そうやって逃げていました。
そう思ってしまう自分を引き上げてくれたのは
「ひと」
言葉をくれたのも
「ひと」
手を差し伸べることができるのは
「ひと」
ただ、自然のように…
何もせずにそばにいることも素晴らしい。
だけど、
「ひと」
には、
考え、手を差し伸べる力がある。
私は、自分が暗闇から抜けることができたからって…
今、
闇の中で迷子になっているひとに、冷たくなかったかな?
そう思った。
「やろうと思えばできるし変われるよ」
そんな言葉ではなく、
近く近く、寄り添うことができるはず。
それが私にできることじゃない?
と、
テントの中の苦しみは、そんな優しい光を思い出させてくれました。
私は私で良くて、その価値観を信じ、
そのまま、まわりに伝えていけば良いのだと。
それ以外に答はない。
「チャンディガルからの移動編」から、
何カ月ぶりでしょうか
たまにマイペースなところのある、おうし座の私ですので…
ゆるしてくださいね(笑)
レーリッヒの描いたヒマラヤ。
マナリという地に、ヨーガニケタンはあります
そして、慧心先生の兄弟子(めずらしい女性です)
アルナさんとラリタさんのもとで、修行です。
毎朝のプラナヤマ、瞑想…
↑写真は、アグニホトラ。
ごま木を燃やし、神に祈りを捧げます。
日々修行をする中で、様々な疑問が生まれる。
この地で修業を続けられる方から、
ありがたいお言葉を頂きました。
「私自身が、そのようにかわっていけば良い」と。
アルナさん、ラリタさんは、ある日同じ夢を見たそう。
そして、南インドから遥かこのヒマラヤの地にやってきて、
日々なんの贅沢もない暮らし。
自身を信じ、神を信じ、誰に褒められるでもなく、
ただただ修行を続けられている。
「自我」は消え、まわりの為に、生命すべての為に、祈りを捧げて。
人を評価しているとき、見ているのは自分。
自分の内にそれを見ている。
改めて、
頭ではなく、こころで感じた。
自身が変われば、まわりもかわるのだと。
だけど、それを目的にしたとき意味は変わってしまう。
前日は断食だったので、軽めのLUNCH
アグニホトラを終えた午後は、マナリの街にでました
街中で、ヴィジュラというおかまさん(正確には違うらしい!)
に逢いました。
お店に一軒一軒まわっていくそう。
リキシャに乗って↓
ヒンドゥー教の寺院に向かいます
このお兄さんの服装でお分かりの通り…
イメージされているインドよりは涼しいです。
マナリは、2050m程の地です
チベット仏教と、ヒンドゥー教との合流地です
そして…
ついにさらに高い地へ…
海抜3,978mまで…
こんなに高い地に、お花、蝶々、羊飼いの少年…
当り前に生きている
私たちが日々
「常識」と
そう呼ぶものが如何に
「常識という名の先入観」
かを感じる。
空気は薄いけれど、呼吸を丁寧にすれば、
からだはとても喜んでくれた
そして…
この光たちの虹のような色を…
瞼を閉じてみても、
わたしの中に、大きな光が入ってくる
瞑想をしようなんて思わなくても、ただ体を忘れ、心を忘れ…
軽く軽くなってゆく…
そんな感覚がありました。
私自身がこの光であり
風であり
大きな空であり
小さな小さなひとつの細胞であり
こんな場所で修行をしていた行者さん達は、
より光に近く。
神を感じられたのだと思う。
冗談ではなく、私は思い残すことはない…
なんて感じてしまった
このテントで生活します
瞑想中やプラナヤーマの最中には、
びっくりする程のあふれ出るエネルギーを感じるばかりでしたが…
テント地に下りてから。
疲れもたまっていたようで、気分が悪くなってしまいました。
そのお陰で、ひとの温かさに触れることができました。
この不便な地のおかげで(トイレも穴を掘った簡易トイレです!)
何もないけど、
確かにある。
そう強く強く感じることができました。
物がありすぎて、いろんなことが溢れすぎて、
感じるのが難しくなっているもの。
わたしたちは、何も持たなくてもしあわせ。
何も持たない方がしあわせ。
そして、
気分が悪くなりながら、
ありがとうが溢れ、
謙虚な気持ちを思い出していました。
自信がなかった頃、生きる意味が見いだせずにいた頃…
自分以外が大きく輝いて見えた。
そして、私はちっぽけだと。
そうやって逃げていました。
そう思ってしまう自分を引き上げてくれたのは
「ひと」
言葉をくれたのも
「ひと」
手を差し伸べることができるのは
「ひと」
ただ、自然のように…
何もせずにそばにいることも素晴らしい。
だけど、
「ひと」
には、
考え、手を差し伸べる力がある。
私は、自分が暗闇から抜けることができたからって…
今、
闇の中で迷子になっているひとに、冷たくなかったかな?
そう思った。
「やろうと思えばできるし変われるよ」
そんな言葉ではなく、
近く近く、寄り添うことができるはず。
それが私にできることじゃない?
と、
テントの中の苦しみは、そんな優しい光を思い出させてくれました。
私は私で良くて、その価値観を信じ、
そのまま、まわりに伝えていけば良いのだと。
それ以外に答はない。