仮に私たちは、としよう。
私たちは医療に何を求めているのだろうか?
また、医師はじめ看護師やその他、医事まで含む医療従事者としよう。
彼らは何を期待し、医療の門、命に関与する重厚な扉を開け、
なぜその世界に身を置くのだろう?
先に記したとおり、医療放棄をした作家の方に詰問を受けた。
あなたは医療に何を求めているのか?と。
今更・・・・・・と投げやりな言葉の裏に潜む彼女の心情を察すると胸が痛く、
苦しくてたまらなくなった。
詰問を受ける私は正直いい気分はしなかったが、
それを発せずにはいられない彼女の方が数倍辛く苦しんでいるのだと思うと
彼女の一言は私にとって重く、受話器がどれほど腕を痺れさせ、
脳裏から離れない一言一言が、今日はやけに身に染みる。
なぜならば、私も医療を受けられない状況が目前に迫ったためだ。
10月31日をもって、私は2年も通院した病院を後にする。
主治医の変更は正直、私にとってはリスクの高い選択となる。
けれど、責任について問う私が間違っているのだろうか?とか、厳しすぎるのだろか?など
私は私なりに、クレームを出す際もお願いをする場合も、何日も思慮した上、
それを病院へ伝えていた。
体調の悪いときに限っても、我慢できる間は無理など言わず、
ずっと耐えてきた経緯があっての今なのだ。
処方ミスにも受診拒否も大きな問題にせず、病院を、主治医をかばってきたのだ。
けれど、もうその必要はなくなった。
そして、その事実やなぜその選択に至る経緯を知った主治医は、
どのような表情をみせ、私と別離するのだろう。
もうあの満面の笑みを私に向けることはないと想像容易い。
昨日はビートたけしさんや爆笑問題さんが出演する5時間にもおよぶ番組を視聴した。
テレビを観るのは本当に久しぶりのことだった。
それは「責任について」がテーマだったので私の興味を惹いたのだろう。
どうしてこうも責任を取らない大人で溢れた国になったのだろう?という内容に、
責任すら何を指すのがが教育されていないことを私は考えながら番組に参加していた。
つまり、行き着くところは慈悲さではないかと思うのだが、
共依存するようなかたちも不自然だが、無関心もやはり異常なことなのだ。
人身事故があるといくつかの舌打ちが聞こえる車内。
電車が延滞することで、もちろん自分のペースも予定を狂うのは人生というものだ。
誰かが敷いたレール上を生きるのではなく、
私たちは大地に自分の足で立ち、踏ん張り、
時には方向転換やそうした延滞を余儀なくされる。
そこに慈悲さが加われば、なぜ、人身事故を起こす背景があったのだろう、とか、
他者の命にほんのすこしの時間、冥福を祈る、黙祷する、手を合わせるなどは
そんなに難しいことなのだろうか?
私は以前、男性が飛び込んだ地下鉄車内にいた。
こつん、という音、急停車する電車。
となりに乗り合わせた中年の女性はさっきも誰かが飛び込んだ車内でその音を聞いて、と
わんわんと大人の女性が嗚咽を漏らし泣くとはどういうことなのか。
私は見ず知らずの女性の背中をさすりながら考えていた。
命があっけなく消えてしまう音が壊れたレコーダーのように何度も何度も繰り返され、
今でもあの音を忘れてはいない。
いいや、忘れられないといった方が正解だ。
プノンペンで嗅いだ死臭のように。
先日、男手ひとりで息子を育てている友人が言っていた。
親友が突然、心不全で亡くなったのだ、と。
だから、自分の人生、つまり、息子を育て上げた後の人生を考えたとき、
やはりパートナーの存在は必要不可欠だと思ったのだそうだ。
そうやって人間は本来、自分の多忙さから離れて「自分」という不可解な存在を眺め、
欠如している部分を補修し、できれば補いたいと思うのが業ではないのだろうか。
会社でもそうだった。
契約書の改ざんをしているにも関わらず、
そこに関与する責任は誰も理解できていなかったのだ。
誰ひとり、役員に至るまで、部下の責任を取るなどとは誰も思っていないことに
私ひとりが驚愕し、会社にいた(まだ籍はある)7年もの間、
責任を取らずに生きている方々の生態を、別の動物を見ている感覚で慣れることはなかった。
欠如している部分を補修できないことは、人間としてある意味終わっている。
そうした集団の中にいると、汚染される人はいとも簡単にそうした人間となって
誰かを汚染したり、汚染できない人間を攻撃して自らも傷付いていくのだ。
医療に話を戻そう。
私は何を求めているのだろうか?と考えるうちに、
私は『慈悲さが感じられないものは医療ではない』という結論に至った。
それはトップの方の人格や生き様に通ずる反映がまさにその現場での色彩であり、
生の長短や生活の質の上下という問題以前に、ここに安心が感じられなければ
すでにその場は死んでいるのと同然なのだ、と。
私が神経質で繊細に物事を感受するからでは済まされない。
医療とは、人間の命や体や心を扱っているのだとの認識こそ、
私が希求する医療に求める回答であるように今朝、ふと思った。
それはおそらく、医療だけではなく、世の中全体の、欠如した部分がそれであるように。
台風一過の朝日は、なぜこんなにも希望の光に満ち溢れているのだろう。
さて、点滴だ。
あと数日、残されたこの病院への通院を全うし、心の整理を私自身もはじめよう。