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風の生まれる場所

海藍のような言ノ葉の世界

空や雲や海や星や月や風との語らいを
言葉へ置き換えていけたら・・・

医療に何を求めているのか?

2007年10月28日 09時35分18秒 | 医療








仮に私たちは、としよう。

私たちは医療に何を求めているのだろうか?

また、医師はじめ看護師やその他、医事まで含む医療従事者としよう。

彼らは何を期待し、医療の門、命に関与する重厚な扉を開け、

なぜその世界に身を置くのだろう?










先に記したとおり、医療放棄をした作家の方に詰問を受けた。

あなたは医療に何を求めているのか?と。

今更・・・・・・と投げやりな言葉の裏に潜む彼女の心情を察すると胸が痛く、

苦しくてたまらなくなった。

詰問を受ける私は正直いい気分はしなかったが、

それを発せずにはいられない彼女の方が数倍辛く苦しんでいるのだと思うと

彼女の一言は私にとって重く、受話器がどれほど腕を痺れさせ、

脳裏から離れない一言一言が、今日はやけに身に染みる。

なぜならば、私も医療を受けられない状況が目前に迫ったためだ。










10月31日をもって、私は2年も通院した病院を後にする。

主治医の変更は正直、私にとってはリスクの高い選択となる。

けれど、責任について問う私が間違っているのだろうか?とか、厳しすぎるのだろか?など

私は私なりに、クレームを出す際もお願いをする場合も、何日も思慮した上、

それを病院へ伝えていた。

体調の悪いときに限っても、我慢できる間は無理など言わず、

ずっと耐えてきた経緯があっての今なのだ。

処方ミスにも受診拒否も大きな問題にせず、病院を、主治医をかばってきたのだ。

けれど、もうその必要はなくなった。

そして、その事実やなぜその選択に至る経緯を知った主治医は、

どのような表情をみせ、私と別離するのだろう。

もうあの満面の笑みを私に向けることはないと想像容易い。









昨日はビートたけしさんや爆笑問題さんが出演する5時間にもおよぶ番組を視聴した。

テレビを観るのは本当に久しぶりのことだった。

それは「責任について」がテーマだったので私の興味を惹いたのだろう。

どうしてこうも責任を取らない大人で溢れた国になったのだろう?という内容に、

責任すら何を指すのがが教育されていないことを私は考えながら番組に参加していた。

つまり、行き着くところは慈悲さではないかと思うのだが、

共依存するようなかたちも不自然だが、無関心もやはり異常なことなのだ。

人身事故があるといくつかの舌打ちが聞こえる車内。

電車が延滞することで、もちろん自分のペースも予定を狂うのは人生というものだ。

誰かが敷いたレール上を生きるのではなく、

私たちは大地に自分の足で立ち、踏ん張り、

時には方向転換やそうした延滞を余儀なくされる。

そこに慈悲さが加われば、なぜ、人身事故を起こす背景があったのだろう、とか、

他者の命にほんのすこしの時間、冥福を祈る、黙祷する、手を合わせるなどは

そんなに難しいことなのだろうか?

私は以前、男性が飛び込んだ地下鉄車内にいた。

こつん、という音、急停車する電車。

となりに乗り合わせた中年の女性はさっきも誰かが飛び込んだ車内でその音を聞いて、と

わんわんと大人の女性が嗚咽を漏らし泣くとはどういうことなのか。

私は見ず知らずの女性の背中をさすりながら考えていた。

命があっけなく消えてしまう音が壊れたレコーダーのように何度も何度も繰り返され、

今でもあの音を忘れてはいない。

いいや、忘れられないといった方が正解だ。

プノンペンで嗅いだ死臭のように。

 






先日、男手ひとりで息子を育てている友人が言っていた。

親友が突然、心不全で亡くなったのだ、と。

だから、自分の人生、つまり、息子を育て上げた後の人生を考えたとき、

やはりパートナーの存在は必要不可欠だと思ったのだそうだ。

そうやって人間は本来、自分の多忙さから離れて「自分」という不可解な存在を眺め、

欠如している部分を補修し、できれば補いたいと思うのが業ではないのだろうか。

会社でもそうだった。

契約書の改ざんをしているにも関わらず、

そこに関与する責任は誰も理解できていなかったのだ。

誰ひとり、役員に至るまで、部下の責任を取るなどとは誰も思っていないことに

私ひとりが驚愕し、会社にいた(まだ籍はある)7年もの間、

責任を取らずに生きている方々の生態を、別の動物を見ている感覚で慣れることはなかった。

欠如している部分を補修できないことは、人間としてある意味終わっている。

そうした集団の中にいると、汚染される人はいとも簡単にそうした人間となって

誰かを汚染したり、汚染できない人間を攻撃して自らも傷付いていくのだ。







 

医療に話を戻そう。

私は何を求めているのだろうか?と考えるうちに、

私は『慈悲さが感じられないものは医療ではない』という結論に至った。

それはトップの方の人格や生き様に通ずる反映がまさにその現場での色彩であり、

生の長短や生活の質の上下という問題以前に、ここに安心が感じられなければ

すでにその場は死んでいるのと同然なのだ、と。

私が神経質で繊細に物事を感受するからでは済まされない。

医療とは、人間の命や体や心を扱っているのだとの認識こそ、

私が希求する医療に求める回答であるように今朝、ふと思った。

それはおそらく、医療だけではなく、世の中全体の、欠如した部分がそれであるように。









台風一過の朝日は、なぜこんなにも希望の光に満ち溢れているのだろう。

さて、点滴だ。

あと数日、残されたこの病院への通院を全うし、心の整理を私自身もはじめよう。

















記録として、患者を護る医療とは?

2007年10月27日 22時35分50秒 | 医療






これは私自身の記録または覚書とする主旨で書くため、

シリアスな問題に関心のない方へはまずその旨お伝えしておきます。

また、公開するか否かを自分自身で考えましたが、

これは紛れもない現実であり、医療が抱える問題の多くを内包している実情であり、

車社会である私たちの身近での出来事であることをご理解いただければ幸いです。








目前には私のレセプトと診断書が何枚にもわたり、きれいにファイリングされている。

日付をみると9月末までの私の診療内容の詳細が記載された書面であり、

個人情報漏洩の事実を、それを目前にしながら私はまだ信じられずにいた。

弁護士はそれを楯に「今月末日をもって医療費支払い打ち切り」を告知してきたのだ。






本日、医事課の担当者からカルテと画像コピーをいただく約束をしていたこともあり、

なぜ、第三者である弁護士が私の個人情報を入手しているのかを質問した。

すると、通常とか、普通はとか、常識ではとか、みんなはとか、

私には関係ない前置きの言葉が連呼された後、レセプト開示の何が問題なのか自覚などなく、

同意書を提出していないのにもかからわず担当者レベルの勝手な解釈で流失させていたのだ。






私は今年4月、医事課へレセプトや診断書は一旦、私を経由し、

私から保険会社へコピーを送付するので・・・と告げていたのだ。

その後も何度となくレセプトや個人情報についての取り扱いは厳重にと通告し、

病院側は保険会社との直接的やりとりをきつくやめていただくように伝え、

それを病院側も了承していたはずだった。

つい先日も、当時の担当者へ確認をとると、

その後はレセプト開示は第三者に行っていません、絶対に、と私に言った。

なら安心しました、と私は回答した。

私は医事課、ケースワーカーを同席させた3者面談にて

その旨が医師法に抵触する行為であること、

被害者である私、つまり、病院にとって患者の利益を損なう行為であることなどを説明し、

その知識を備えていなければいずれ問題になることを再三にわたり私は勧告してきたのだ。

にも関わらず、損保会社ではなく弁護士が個人情報を入手していた。

損保会社へも同意書を提出する際、常に条件を付け、

私の診断書やレセプトを目にする者の会社側および関連会社などの氏名、

外部機関であれば医療者の専門分野、病院、医師名の提示を求め、

その回答の書面も手元にあるのだ。

そこには弁護士の氏名記載はされていない。

私の了承など問題とせず、弁護士は職権乱用を行うと共に損保会社の言うとおり、

医療費打切りを通告する役割りを担ったのだ。

要は医療放棄にて、自殺をしろと言っているようなものだ。

そこに病院も加担していたとは。








引継ぎの際、そのようなことは一言も聞いていないので、

一枚の同意書が一生分の役割りを果たすのは通常、常識ですよ、と逆切れされた。

私は言った。

あなたは私の個人情報を一時預かっているだけに過ぎず、本人の同意も確認もなく、

病院とは一切の契約のない第三者へ開示した結果、私は医療を受けられなくなりました、と。

これは私の人生や体調に影響することであり、

あなた方の仕事に対する責任のなさにもう目を瞑ることはできません、と

気がつくと私は医事課長という女性を睨みつけていた。

彼女も私を睨みつけている。

これが患者へすることか?

まして、自分たちの注意および処方ミス、

電話での主治医への連絡ミスなどを怠ってきたことにより、

私は今までにも治療に専念できない状況が続いた。

私は今回のことで転院を決意した。

こんな病院とは付き合う意味もなく、それを放置していた主治医も同罪だ。

彼らの行ってきたことが結果、私の医療費打切りへと直接関与したのだから。








私は高額医療費を支払う余裕などすでにない。

休業損害や他院医療費、交通費、主治医からの指示による水分摂取などにかかった費用は

ざっと計算しても300万は下らないのだ。

その上、毎日の点滴代や診療代金を含めると、月額20万近くになる。

医療者ではない者が医療放棄しろと脅迫し、

実際に医療の打切りを伝えるためだけの面談を行った。

もちろん、弁護士は治療を毎日必要としている者について口出しも関与もできない。

まして「神経症」だとの勝手な病名にて、医療放棄しないから現状なのだなどと

勝手な言い分など通らないことは病院の問題とは相違する。

がしかし、カルテコピー、レセプトおよび診療内容守秘違反は私に大打撃を与えた。

損保会社の未払いもさることながら、こうして患者や被害者が追い詰められ、

預金額が命の長短、医療を受けられるか否かの判断となるとき、

私は他人のためにこれ以上、人生を左右される筋合いはないと思った。

「責任は取っていただきます」と告げると、その医事課の女は「同意書を見ろ」と言った。

点滴終了後にその女は受付にいたが、挨拶もせず、主張する同意書を見せるわけでもなく、

私の存在をなかったもののように、とんでもない態度で無視し続けたのだ。







まさか、こんなことで主治医変更となるとは思いもしなかった。

10月31日の外来にて主治医へはこの事実を伝え、紹介状を何枚か作成してもらい、

なぜ、2年も通院した病院および主治医を変えざるを得ないのかの一筆をいただき、

私はそれなりにこの件についても補償をさせようと考えている。








普通の会社ではないのだ。

生身の人間を扱う、医療機関のモラルや知識レベルがこの程度なのだろう。

あえて病院名は記載しないが、

この病院では怖くて医療を受け続けることができないと思った。

それは点滴針を何度も刺し違えるレベルにも通じるだろうし、

その苦痛が毎日続くことへの無関心さが、彼らの人間としての限界なのだ。

それはすべてに責任がなく、どのような約束でも厳守できないということは、

何もできない、やらないという回答だと私は考えている。

何もできないものが突然、それ以上の重圧ある責任を負えるわけがない。

今まで軽く流してきた不具合、私が容赦し続けたことへのつけが、

このようなかたちで病院は責任を負うかたちで終焉を迎えた。









医師のみならず、医療事務含め病院内の従事者全員の質や問題意識の足並みが揃わなければ

よりよい医療などの実現は不可能だ。

なぜ、私が医師法を勉強し、レセプト開示が医師法に抵触する行為だと伝えたのか?

それは医事課の軽率な行いによって主治医が罰せられないためだったことを

主治医にも伝えてあったはずなのに・・・・・・








痛手となるだろう。

おそらく、厄介な患者がひとり減ったという状況では済まされない問題だ。

自分ですら見たことのない診療内容や主治医の診断書を他人が持っていたら、

誰でも驚きはしないだろうか?

まして、幾度となく第三者への開示は行わないことの取り決めができていたのだから。

この責任は重い。

そして、常に責任を感じず、重視せずきた結果が他人の人生を、医療環境を左右し、

病院にとっても不利益となる事態へと自らが導いた要因だ。

おそらくこうした積み重ねが医療事故へとつながる。

小さなことへの配慮ができるか否かが、大きなことへの結果の良し悪しへと作用する。






院内での引き継ぎがどうのなど私には関係ない話だ。

さて、主治医はこれを知ったとき、どんな顔をするのだろう?

同罪なのだ、何も疑問に持たず、毎月診断書を第三者のために書いていたのだから。

これ以上の縁がなかったのだろうけれど、

もう少し気持ちよく病院を後にさせて欲しかった。

医療不信など再度抱かせずに・・・・・・・












 


たくさんの病院に電話をかけてわかったこと

2007年10月25日 00時08分28秒 | 医療








今日はいろいろな疲れがまとめてやってきた。

子犬の世話をしているとき、ふと思った。

もし子供を産んでいても、育てることには限界がきただろう、と。

だから、この子がきて、この子でもこんなに大変なのよ、と

しっかりとした諦めと自覚をさせるように私に促しているようにも思えた。







そのような状況が続き、疲労困憊し、起きている自体が辛かったので

「移動に耐える体力もないので、今日の点滴はお休みします」と病院へ電話した。

すると「まだ受付まで二時間もあるので、そんなときこそ点滴しなくては・・・」と言われ

起き上がることが苦痛なので、点滴をした後、帰宅する気力体力もないと思います」と。

けれど、食い下がらない医療者は「来てください」の一点張りで、

空港で倒れたときは『外来診察時間外』で救急扱いではなく他院への搬送を勧め、

外来診察時間内なら「来てください、必ず!!」と言って一歩も引かない。

そのやりとりだけで疲労困憊だ。

「いける状況になればそのときはお願いします」と伝えても、

「必ず・・・・」

その一言は体調の悪いときこそ、核爆弾のようにすべてを破壊する。

起き上がれない、揺れに耐えられない、でも入院はできない、一泊も含めだ。

通院できるということはまだそれでも体調がいいときに限るのであって、

点滴は気休めに行っているわけではないことを理解して欲しいと今日ほど思ったことはない。










さて、今日は「脳脊髄液減少症」について、

他の大学病院での取り扱いや検査のみの依頼でも引き受けてくれるかどうかを

電話にて確認する作業に終始した。

研究チームの代表である某大学病院での見解含め、

某医学学会で口演を行った某大学病院ですらその取り扱いはなく、

すべて独自の研究であることがより深く理解するに至った。

受診を引き受けることはそこにその後の責任が生じ、

検査方法も治療も独自の状態で行っている一部の医療機関とは異を呈する姿勢、

治療あきりとの解釈で受診希望する問い合わせが非常に多いので、

某医学学会の見地からも適切な判断がなされ皆の一致という意見の下でなければ、

それまでの不具合がなにを原因とするかの判断が出来かねるというのが

多くの受入をしない大学病院の見解であった。

脳外科の医師とどこも直接話ができたこともあり私は納得し、

ひとつの医療機関、つまり、某教授を指名し、

その方の判断を仰ぐしかやはり方法がないことを引き合わせの縁であると

ここでも縁を感じずにはいられなかったのだ。

やはり大学病院、対応の丁寧さはどこも共通する教育レベルや職業意識の高さを

感じさせるものだった。

それに比べ通院先は・・・・・・

必ず・・・・・か。

脅迫に聞こえてしまうときがあるのだよ、体調が悪いときには特に。










最後に某医学学会での見解をお聞きする手はずを整え、

弁護士と最初の面談を行うことにする。

体力が持つのか、気力は?

不安だらけだが、今の私をみてもらい、正直に状況を伝えようと思っていた矢先、

仕方ないですね、あなたの都合に合わせてあげます、と言われ切れた。

お前は何様だ?

加害者側の代理人だろう?

他人の人生を変えておきながらその自覚など一切なく、あわせてあげましょう、とは

傲慢ちきであり、まともな人間ではなく、プライドの塊、

もっといえば、偏った人間であることはすぐさま理解できた。

電話だけでも、手紙だけでも、嫌な気を感じてしまう。

できるだけこいつと同じ空間では息をしたくない、と思った。

なぜなら、体調が悪化するのが目に見えているのであって、

人間にまだなれていない魂しかもっていないことを嗅ぎ取ってしまったためだ。









できれば・・・・・・・と思う。

静かに暮らしたい。

たぶん、田舎暮らしの発端は、病気になろうとなるまいと、皆が疲れている証拠なのだ。









お母さんになることも、疾患を抱えることも大変なことだ。

けれど、再度お母さんになったことで、何か変わった気がする。

やっぱり赤ちゃんはかわいい。

だって、お母さんに甘えて、お母さんの鼻を噛んだり舐めたりして、

いろいろなしぐさで会話して、お母さんの子供に本当になってゆくのだから。

相性とは、縁とは、きっと、そんなものだ。


















医療相談員とは?

2007年10月22日 12時10分47秒 | 医療







某行政とでも記しておこう。

私自身の検査をし尽くしていないことに気付き、

それをどのように行っていくべきかの意見を拝聴しようと思っていたところ、

自分で判断して受診や検査をし続ける以外、どんな方法があるんです?と逆に問われた。






あの・・・・・では、なんのための相談場所なのですか?

また「医療改革」を目標に知事は掲げていらっしゃいますよね? というと、

頚椎は整形外科以外で診るなど聞いたことはないし、

脳外科で頚椎診療や手術を期待されているあなたの方が無知なのでは?と言われてしまい、

某医学学会でも演目に「頚椎」に関することや「髄液」などのことは、

他の疾患以上に多く目立つ発表がなされていたのは、気のせいかしら?と

私はまた嫌な女になっていくのがわかった。

 

 


納得がいかないのであれば患者自身が転院しないことにも問題があり、

検査をし尽くそうという姿勢がまったくみえない、とまで言われたので

腸がぐつぐつ音を立てていく様子が自分でも見て取れた。

2年近く主治医の下で信頼関係を構築してきた経緯やそれを無視して、

主治医の判断を否定する行為は患者としてよりも人間として円滑な関係など望めるわけもなく、

また、それが当然のような言い方をするあなたが相談員として発言することで、

患者は戸惑い、ドクターショッピングの温床にはなりませんか?と問うた。







医療に精通している弁護士を探し、医師の判断が悪かったと損害賠償を、というので、

行政員であるあなたがそんな軽率な発言をして許されるのですか?と聞いたが、

たぶん、あなたには現実などみえていない、と捨て台詞を残し、私は電話を切った。







驚いたのだ。

頚椎を脳外科が診るなんて聞いたことがない、医師を訴えればいい、

信頼関係など無視して検査し続けろ、信頼関係やコミュニケーションの重要性を

まったく無視した発言に。

だから医療費など削減できるわけはないし、

税金で食べている人が無駄な税金をまだ支払わせようとする思考回路の劣悪さに、

呆れたとはこういうことを言うのだと思ったら、私は笑いがこみ上げてみた。









医療相談をしている者が医療を知らない。

いいのだろうか?

私は自分の耳を疑ったし、これでは改革を叫ぶ某知事がすこしだけ哀れに感じた。

その知事は好きではないが、これでは足を引っ張られているのと同様だ。








 




ある作家との対話

2007年10月21日 13時53分00秒 | 医療








世の中は残酷よ。

私はいち読者として作家である彼女へ電話をかけるのは、これで3度目だ。

彼女自身が闘病中であること、命の長短に関わる病気であるため、

ときどきふと、電話で話がしたいなぁ~と思っても、なんと言えばいいのかわからず、

それが躊躇へつながる。

けれど、今日はいつもの私とは違っていた。

携帯電話で彼女のアドレスを探し、少しお話できませんか?と確認し、

時間を頂戴することができ、彼女の私見を拝聴する機会に恵まれたのだった。








世の中は残酷よ、という。

確かに残酷なことも知っているつもりだけど残酷な部分ばかりでもないと言いかけてやめた。

医療へ期待する側の方が間違っているのだし、

受診拒否されて何が問題なの? と冷静な口調で言われ、返答に困ってしまった私。

医師に切り捨てられたことを書いて、医療の現実を書いて、何が面白いの?と。

お涙頂戴的な本はメディアではこぞって紹介されるだろうが、

交通事故に遭って、難病を患って、私はこんなに大変なのよ、

大変な思いをしてきたのよ、と訴えたいならおよしなさい、と。

残酷な世の中が受話器の向こう側にいて私は驚いた。

言葉を失っていると、それが世の中よ、現実よ、と

次々に押し出される言葉の嵐に巻き込まれていくのがわかった。

それを言わなければならない彼女の背景を思うと、心が痛んだ。









それだけ医療に関わって傷付いてしまったのだろう、と思った。

余命を告知されたわけではないのでしょう? と言われたが、

いっそ、死んだ方が楽だという病気も世の中には存在する。

尊厳死という名の下で、呼吸器を外すことを推奨された難病患者の方は、

国家は間接的な殺人をも厭わないといって、起業までして、

自立して生を温存している人は、生きたいだけだという執着ではないことを

私には痛いほどに伝わってくる。








だからこそ、人間というものは勝手なのだと思う。

余命宣告を受けたものは私たちなど甘ちゃん扱いだ。

がしかし、私たちの立場から言わせてもれば、

仕事もできない、生活もできない、けれど、生きなければならないとは過酷なものだ。

私に限っては、その中で娘の養育をしなければならず、

その一瞬の判断ミスが彼女の人生を左右してしまう要因になると思うとき、

痛みや不具合に打ち勝つ母に変身しなければならない。

それぞれの立場が相違する以上、

私はそれらを同じ机上では空転もしくは傷付けあうだけにしか作用しないと考えている。








疑問を持てないのよ、と彼女は言う。

あなたのように私は医療にも社会にも人間にも疑問をもてなくなってしまっているの、と。

閉鎖的な環境または教育を受け、密室な世界で生きている人たちは、

おそらくなぜ、あなたが怒っているのか、あなたが何を言いたいのかすらも、

わかっていないと思うわ。

エリート意識の強い専門職にはそうした傾向があるのは当然のことよ、と。







自分の能力を超越した患者など面白みがない。

自分の知識よりも深い洞察を備えた者は、患者ではなく人間として面白みがある?

私は面白いと思います、と答えた。

自分の限界を知り、その限界に挑むことによって、私は成長の機会を与えてもらえますし、

知恵も授かります、と。

なら頑張りなさい、と諦めなのか、呆れなのか、激励なのかわからない溜息混じりの言葉。

エリートだからこそ、必死であること、プライドを切り裂かれることに耐えられないこと、

想像以上の不安、自負心、やってあげるという領域で生きている人たちの心を理解しないと

ただの自己満足の文章にしかならないわ。

それを私は作品とは呼ばせない。









今日は日曜日だ。

秋晴れだ。

お昼から随分と手厳しいことを言うものだと思いつつも、

彼女の見えない部分で流れ続ける緋色の血液を、どうしたら止血できるのか想像を馳せた。

どうしてこんなにも傷ついてしまったのだろう?

彼女もそれだけ激しいエネルギーを医療にぶつけてきた結果だろうか?

こっちからすると人生が左右される医療という領域が、あっちでは仕事でしかない。

でも、本当にそうであろうか・・・・・・・









滅私奉公をしろとは言っていない。

けれど、医療従事者にとっても患者にとってもよりよい環境とは何かに疑問をもてなければ、

何もはじまらないというのが私の持論だ。

すくなくとも、私は知っている。

権利とわがままを履き違えている患者の存在も、人体実験まがいのことをする医師も、

金儲けにしか興味のない医師も、患者が患者をあおり、そこから利益を得ている団体も。

がしかし、まともに、フェアーな立場で真摯に医療に取り組む医師も、患者の存在も、

私は知っている。

被害者や患者の壁などとは思わずに、私は私のできることで、私の視点を失わず、

どのような誹謗中傷を得ても、やっぱりそれが使命なのだと思った。








だって、何を言われても余計に闘志がわいてくるし、

一晩寝れば、すっきり爽快、秋晴れなら尚よしなのだから。








社会とマイノリティー側の意識の相違。

それこそ寄り添うことこそがその溝を埋めることに寄与するのだと私は信じて止まない。

 

 


 








 


ある疾患を持つ友人からの指摘

2007年10月21日 11時35分06秒 | 医療







安定剤ですが・・・・・と

いつもの彼の口調はその後に重大な事柄を秘めていることを予感させる。

それは現主治医、つまり2年近く付き合った脳外科医の処方ですよね?

これも検討材料に十分問題視されることになると思いますよ、と言った。

私はわけがわからないまま、これから何が始まるのか、何が発表されるのか想像すらできず、

聞いていますので続けてください・・・・・と声を出すだけで一日分の体力を消耗、

鼓動の高まりがパジャマ上着を揺らす。






最近になってわかったことは、

「脳脊髄液減少症」「外リンパ漏」「正常圧水頭症」「甲状腺機能低下症」

この4つのパターンの併発が大多数を占めるという彼の調査結果に私は唸った。

検査としては、MRIしじょう断、

外リンパ漏は起きている時と寝ているときの聴覚比較、

甲状腺は血液検査にて。

もちろん、行っていますよね? と言われ、私は言葉を失った。







もしかして・・・・・・と彼は心持肩を落とした声を出して、

検査していないの? と言った。

MIR画像に関しては初診時、再度撮影は今年の8月、それも頭部のみというので食い下がり、

頚椎まですべて撮影しろといって、ひと悶着あってようやくよ、と私は答えた。

血液検査や心理テストに関しては、脱毛がひどく、

また心療内科受診を併用するように指示を出しながら、

心理テストを主治医の下、行ってはじめて、

その結果から受診が必要か否かを判断するのが当然の流れですよ、と

当然ごとくある医師に言われ、受診するか否かの決定ははその後に・・・と

帰されたことを伝えても、脳外科の主治医は何もしなかったことを思い出した。

その医師の決断は正しい。

2年も通院させ、心療内科受診が必要であると指示を出しながら、検査もせず、

なぜ、患者に病院検索までさせるのだ、と。

それを問いただしたとき、机下では貧乏ゆすりがはじまり、口調は早口に。

たとえ見ずともそれが想像できることが彼の弱みだ。







処方されたデパスはラムネ以下で、もともと薬が効く体質ではないみたいで・・・と言うと、

僕の方は「ドクマチール」「ホリゾン」「トフラニール」

抜群に効いている最中の自己決断の断薬だったので、

その後は地獄の苦しみを味わい、何ヶ月をかけて依存断から抜け出した経緯があるから、と。

私の場合は漢方に切り替えてもらい、確かに他の処方もされているものの、

それが依存になるほど強い作用は起こしていない。

それはその処方を行っている心療内科医は投薬のプロであることが幸いして、

食事ができない時期が続いたため、服用をしない時期も経過した今であり、

主治医のみならず薬剤師などとチームを組み、私の詳細を知りえていることにも所以する。







とにかく・・・・・・と言う。

今の病院にいる間に、脳外科医へ検査をしなかった理由を聞き、

可能な限り、疑いのある部分への検査はするべきだ、と。

その病院でできないのであれば主治医から検査病院を紹介してもらい、

そこへ紹介状を持って検査すべきだ、と。

もし今までのように検査に対し消極的な態度を示すのであれば、

なぜ、心療内科医ではすぐに血液検査をしてくれるのに、ここではできないのか、

またはしない理由を聞いてみた方がいいとアドバイスをもらった。

検査をしない理由、検査をしても原因がわからないというのであれば話は別だが、

やるだけやったという状況ではないと思うよ、と。

そのくせ、完治できないという告知は何度もされてきたわけだし、

それは何を根拠にしているのかも、あわせて質問した方がいいよ、

いつもの書面でね、と。








半器官烈激は内耳CTで。

現状のめまいや聴覚の閉塞感、それがはじまると話難いことは併発パターンではないかと

通常疑いを持つことが自然なのですよ。

耳の閉塞感、音の脅え、リクルートメント現象は、外リンパ漏の典型的症状ですよ。

めまいに関してはメニエールでない限り、

地震型のぐらり、非回転性のめまいであることが主訴であり、

継続しなくてもある一定期間、何かの要因からその症状が頭痛や頚椎痛などの他にあるなら

まずはそれを疑い、検査すべきこと。









当初、低髄疑いからはじまり、低髄の診断書も書いている。

患者には「完治なし」との告知まで何度もして、その根拠を聞くと答えられない。

何度も書き換わる診断書について疑問をなげかけると、

現状では低髄についてはしっかりとした検査方法がないからと逃げにはしり、

けれど、髄液循環の悪さは頚椎狭窄から誘発されている画像所見は撮れており、

その他、吐き気や下痢、痴呆、視力障害などは自律神経の乱れとして片付けられてしまう。

確かに。

検査をし尽くしたというわけではない。

けれど、さまざまな告知はされている。

その心的打撃は他院である心療内科医に押し付け、

その紹介もせず、自分で探せだ、と。

冷静になって考えたとき、おかしなことが山のように出てきた。

そして、それを私自身が訴えたにも関わらず、検査せず、今に至る。

納得などしていないから転院前の質問としてぶつけ、

他院の医師へそれを伝えようとしているのではあるまいか。









某医学学会に出席した理由も、自分には疑問が多々あったからだ。

自分の疾患の取り扱い、他医師の見解を知ることも当然だが、

なぜ、2年も私を見続けた主治医が何もしてこなかったのか?

点滴治療での入院を当初から断られた経緯があり、

点滴についても一年半前に私からの強い要望で

高速点滴が効果がある場合が多いといいながらも気休めにされただけだったのが現実だ。

それも一度だけ。

もしも・・・・・・と思う。

ここでも適切な処置や検査がなされていたら、違う展開、

つまり、疾患の取り扱いや治癒力への影響を考えると、私は震えが止まらないのだ。









比較できることで私は知恵を得た。

援護者に恵まれたことで、某医学会に出席できたことで、

医師側の現実見解を知る機会を得た。

さて、主治医の責任は?

開頭するばかりが医師の役割りではない。

その後のケアも傷の治りやすさも、執刀を行った者の責任だ。

私の点滴痕ひとつ、市販の保湿剤を塗れば済むだろうなどという発言は、

では、なぜ通院の意味があるのだ?

なぜ、一度では刺せない看護師のスキル問題を棚上げし、

通常であれば30箇所で済んだ傷が90を越しているのか?

それに疑問を持てない医師に、医師の資格などあるのだろうか?









 


患者とは何か」 田口ランディさん参加イベントのお知らせ

2007年10月20日 10時29分14秒 | 医療

 

 

 

【患者とは何者か?】

 


*患者-医療者間の「せつなさ」と「幸福な関係」



*日時 2007年11月3日  12時30分~

*場所 ドーンセンター4階大会議室3  京阪天満駅下車5分

*参加費 無料

*問い合わせ先
 
 特定非営利活動法人 ネットワーク医療と人権
 
 http://<WBR>www.me<WBR>rs.jp/<WBR>

 06-6364-7677





□第一部 「医療に哲学は必要か?」 西川 勝



 医療に対する当事者の違和感

 ヨシノユギ




 医療、福祉、そして癒し

 田口ランディ





□第二部 「パネルディスカッション「患者とは何者か?」


 田口ランディ  西川勝  ヨシノユギ  日笠聡










カルテは誰のものか?

2007年10月19日 22時04分20秒 | 医療








約2年におよぶ診療記録のすべて、

つまり、カルテ(私の提出した書類含め)と画像のコピーをお願いします、と言うと、

なぜですか?と、医事課の担当者はしつこく問う姿勢をみせた。

点滴だけでは内科へ移動しろという指示がでているようで。

けれど、なぜ、今の私に点滴が必要であるのか、誰もご存知ないのかしら?

私は続けた。







私は頚椎狭窄もあり、髄液循環が高低を繰り返す。

頭痛や頚椎痛などは脳神経外科の分野であり、内科の取り扱いではないのが一般だ。

よって、ここの内科医にそれが判断できるという解釈で宜しいですか?

体重減少など最近危機的状況であったことも知りながら、内科とは・・・・・

病院のシステムがよくわからないのですが、これはいつものことなのですか?







私は自分の人生においてまだ生かされるのであれば、やらなければならないことも多く、

娘も育て上げなければならない責任も義務も果たしませんと申し訳ないですから。

医療者のレベルやスキルの低さで点滴痕が一生残るのとは違いますよ。

あなたが私なら、どのように選択するのかしら?

担当者は黙っていた。






主治医へ確認をとって・・・・・・というので、その必要はないと思いますよ、と私は言った。

これは私の判断ではなく、彼からの告知と提案であり、

事実上、看取れない=責任放棄を意味した内容の話をされたのだから。

治らないと何度も告知され、ずたずたに心身を切り裂かれ、

その心のケアはできないと、他科を勧めた。

がしかし、院内にはその科がないため自分で探せ、という。

患者が病院を、私がなぜドクターショッピングをしなければならないのか、

何度あなたに話しても、聞いていなかったことがここで判明した。







点滴中も何度も医事課は「カルテ開示」について質問を投げかけてきた。

あまりにもしつこいので、

国内だけではなく海外の友人の医師へも診察出来るか否かを確認するため、

翻訳の時間を考えるとできるだけ早めに欲しいこと、

また、移動病院をもうひとりの主治医にも協力して検索を願い出ているので、

その移動先が2年の詳細を知らないとどのように取り扱うか否かを検討できるのです?

それまでの点滴はご迷惑でしょうが指示書とおりお願いしたいと考えています。

紹介状は日本語・英語になるか不明ですが、

T先生なら英語でもお願いできるとおっしゃっていたのでその時はぜひ、と言葉を加えた。

嫌な女だ、私。

だって、嫌味たっぷりの口調でありながら、笑顔を振りまき、目は笑っていないのだから。








いつもの私であれば、直接、主治医へこうした内容を相談していた。

けれど、次に会うときは受入先の病院が決まったときでしかない。

診断書の内容や所見についての言動がそのときどきで変動することへの確認、

誤診なのか過誤なのかは聞けないだろうが、

検事曰く、なぜ、転院するかに至る詳細ははっきり聞いておいた方がいい、と。

これは被害者や患者の問題ではなく、すべて医師の、医療者側の不具合や勝手で

振り回されている現実なのだから、と。

元または前になる主治医へも伝えよう。

脳神経外科管轄の疾患を内科で・・・・・

主治医の移動を面識のない看護師に伝えられたこと、

そのことについて執拗に主治医を誰にするのかとの質問を浴びせられたこと、

点滴についてのレベルで、その病院の教育状況など見えない部分が見えてくる。

挨拶ひとつとってもそうだ。

私を無視しているのであれば当然のことだが、

毎日通院している患者に対し、目が合っても挨拶もしない。

それは婦長然りだ。





さて、カルテは誰のものか?

この病院では最後まで約束は守らない主義を通しているらしい。

点滴が終わり、約束とおりカルテがいつできあがるのか?を確認するために医事課へ。

すると誰もいないとのこと。

けれど、点滴が終わる時間も伝えしているし、

そのときに・・・・・といって約束していますよ、と伝えると、電話に出ていただけますか?だと。

すみません、緊急会議で・・・・だと担当者は言う。

私がカルテ開示を求めてきたことで、病院の不具合隠しの偽装作戦会議か?

この病院職員は、すべてが自分の立場や都合ばかりで、患者などみていない。

そのうちドカンと雷でも落ちるのか。

外は秋雨。

雨降って地固まれば私には問題など残らないのに・・・・・・

 







 


医師の前に、検事の前に、人として心を持て!!

2007年10月18日 21時51分36秒 | 医療








私を看取る覚悟はありますか?

これは完治しない、というあなたからの告知を聞いた私が当然持つ問いであると思います。

病院を移る移らない含め、あなたは私を看取れますか?







返答は無責任なものだった。

「ガンではあるまいし・・・・・」

けれど、私たちの疾患は、命の長短には直接関与しないものだとしても

生活の質の低下は免れず、通常の仕事ができないため、生きて死ぬに等しいのだ。

「それをあなたは診てきたのではないのです? 完治しないことを告知していますよね?」

私は聞いた。

「2月の診断書には○○と記載し、けれど、5月の診断書にはそれが完治せず、

悪化しているのに記入されていない。それはなぜですか? 偽装ですか?」

主治医は言う。

「検査方法が確立されていない状況の中でたぶんそうであろうけれど・・・・」と。

「では何を根拠に『完治しない』と告知できるのか?」

その判断は医師が行っている意図が私にはどうも読み取れないのだ。

じゃぁ、検査方法があれば何でもやるのかというとそうではなく、

「私の心理テストも脱毛に関する血液検査もお願いしても行ってくれず、

点滴入院、点滴治療も受診当初提案したが、無視してきた経緯がある。

最低限、必要な検査はすべて他院でそれを補ったのが現状だ。

それも、自分で他科への受診を勧めておきながら病院は自分で探せという。

あなたを主治医としてきた私の人生はあなたの判断によって、

つまり、あなたの能力のなさや誤診や過誤によって左右される責任については?」

目を合わせない、私とは。






別院の主治医が私の点滴痕を不信に思い、医師が看護師へ指示をしないのか?と疑った。

検査をしない姿勢はもとより、この医師の資質を当初から見抜いていたのだろう。

ただし、私は再度ドクターショッピングになることが怖く、嫌であったため、

主治医とは信頼関係を構築していると思っていたし、事実、そうであったはずだった。

けれど、先の看護師の多々なる不祥事に対する医師の姿勢に私自身も疑問を持ち始め、

患者が患者として安心できない病院、

主治医の指示にも関わらず病院は自分で探せという無責任さ、

通院するとその対応から帰路ぐったりする病院や医療とは何であるか、と

考える機会が多くなっていったことは確かだった。







まだ体重は減少したままだ。

交通事故裁判も控えている。

検事は「国家資格を有するものが判断することなのだから、それは正しい」と言う。

けれど、そこには資質や人間性が抜け落ちており、

経験や患者への配慮、医療への姿勢が医師の差異へとつながる。

被害者はいつだって責められてばかりだ。

「医師がそう言っているのだから『あなたは怠け病』だと解釈されてもおかしくはない」と。









私は裁判を某新聞社やテレビ局に取材させようと思う。

医療の現状についても同様であり、私自身も書きはじめている。

これが現実であり、被害者の置かれる立場であり、

それを疑問に思わない人たちが国家資格を有する現状だ、と。(もちろん全員ではない)

事実上、主治医は裁判を前に私を切り捨てたのだ。

自分の判断が私の人生を左右することよりも、面倒から逃れるために。

専門外であること(わかろうとしないのが現実)、

裁判に関与することで書類などの余計な仕事が増えるのが目に見えているからだ。

であれば、最初から、もしくは、こんなに月日が経過する前に、

どこか専門の病院、つまり、自分の大学でも関係のある病院へも転院させることは可能だ。

けれど、それをしなかったのは儲けを捻出するためであり、

私を完治させようとも、快方させようとも、ある程度の維持を存続させようとなど

口先だけのでまかせだったことが今日判明した。









あえて「お前」と言わせてもらおう。

お前には欠如した部分があり、治療や投薬指示はすべて私が行ってきたことを忘れるな。

体重減少した際も点滴の要請は私からであり、

継続していない事実に驚愕した別主治医が激怒し、

毎日しないのであれば意味がないと伝えたことで渋々それを行ったのだ。

空港で倒れた際も、翌日病院に担ぎ込まれた際も、お前は何をやっていたんだ?

看取れるか否かはガンでなくてもそうした危機的状況が現実として起こった背景にはあり、

現に食事ができないことはお前にとって「死」への匂いとは違うのか?










いい医師とはお前が決めるのではない。

患者が決めるのだ。

約2年もの間におよぶ主治医を務めた結果が、切捨てか?

いい医師になりたいと思うのであれば、いい医師に教えを請うことからはじめろ。

能書きなど10年早いのだ。

患者への批判も他医師への疑問も、お前にはまだ早い。

それは、自分のための医療を行っていることに由縁し、患者などは診ていない。

ただ単に開頭、手術をしたいからであり、予後になど関心はないのだろう。







経験の浅い医師、

責任が持てないという理由で的確な投薬ができない自身の未熟さは棚上げし、

別主治医を批判するな。

看護婦の教育すらできずに、点滴すら1回で針を刺せないレベルの医療者ばかりの中で

お前の目指すものは何だ?

甘えるのもいい加減にしろ。

私は法廷に立ったとき、なぜ、ドクターショッピングをしなければならないのかを明らかにし

その一方で真摯に患者と向き合って、共に歩んでくれる医師の存在を褒め称えよう。








その若さで腐った医師の仲間入りをするとは。

そのような無責任な姿勢は、いずれ取り返しのつかないミスや事故となり、

あなたがしがみ付く医師という立場ではいられなくなるわ。

心のない者、責任の不在、大人になれない人間は、

人を傷つけるだけだ。

だから、自分もいずれ傷付く羽目になる。





私は呼ぶ。

この秋は人間の精査時期である、と。

まさか主治医がそこに名を連ねるとは思ってはみなかったものの、

この時期、本性を聞き出し、化けの皮をはがせただけでも私のストレスはひとつ減る。

患者を、私を、被害者を、なめるなよ。

お前は一番敵にまわしてはならない人間を、踏み台にしてもいいと手を差し伸べた患者を

裏切ったのだから。








気の目覚め

2007年10月08日 20時06分22秒 | 医療





 

なんちゅうても受け合わんこと、

自分をみつめて生きていかんと、なぁ、いいな?







心の中に持ち物を持つということは自信や慈悲や慈愛や深い愛情となって

表層的な幸福を求めるもの、人とは相違してくるのです。

愛をどれくらい受けてきたのか、

または愛をどれくらい配ってきたのかは愛の度数や質量となり

わかる人にはわかり、それをしてこなかった人たちが誤魔化そうなんて所詮無茶な話で。






今朝、シャーマンは私へ連絡をしようと思ったのだという。

帰宅すると子供たちは待ちきれず、叔母がつくったぶどうを嬉しそうに食べていて、

シャーマンは私がぶどうを送ったお礼の後、うちの家紋について関心を示した。





あの家紋は戦国時代、某家のしきたりを家紋にしたものなんですよ、と。






すぐさま叔母へ連絡をすると、ぶどうの木を一本プレゼントしてくれるという。

来年はそれを自分で栽培して、自然と語り合えばいい、と。

家紋のことに触れると叔母も驚いていた。

ぶどうに関心の持つ人はいるけど、まさか家紋に感心を。

さて、しっかりと答えられたの?と聞かれたので、まさか・・・と言って

頭を掻きながら誤魔化した。

ぶどうを育てながら、家紋の由来も教えるわ、と嬉しそうにふふっと笑った。






シャーマンは言う。

「気の目覚め」をはじめています、と。

それは自分で自分の気(役割)を自覚することでもあり、

そこにさまざまな援軍や権威ある方々も関与しつつあるでしょう、と。






まさに今の私はそのとおりの状況だった。

考えれば考えるほど深いテーマの取り扱いに苦戦はしているものの、

私はフェアプレーが成立しなければ書かない、と決めている。

確かに医療にはさまざまな問題があることも事実だ。

けれど、今日の休診日に診察を受けることで、

今までとはまた違う医療への視点を宿題として持ち帰った。

それは医療従事者へではなく、患者の姿勢や行動や卑怯さや責任転換という現状だ。







この時勢、2チャンネルでは病院名は当然のこと、

医師や医療従事者の実名をあげ誹謗中傷がなされているという。

たまたま休日出勤をしていた私の信頼する看護師と話ができる機会があり、

私も攻撃の的よ、と心の内をすこしだけ漏らした。

気に入らなければ自分は匿名で、でも誹謗中傷する相手は実名の時代。

誹謗し合うこと、

治療法などをインターネットで紹介することで本当に病気と決別できればやればいい。

けど、現実はそんなに甘くはないのよ。

そのつけは自分の病気の悪化や生活の質となって必ず自分へ戻ってくる。

それに耳を傾けなかった自分の責任には目もくれず、内省もせず、

ネット上で、匿名で・・・それは意見とは言わないわ。

私も同感だ。

私見を述べる場合、それを意見にするにはそれなりの覚悟がいる。

氏名を明らかにすることは基本中の基本だ。

まして、相手を誹謗中傷するのであれば尚更。

(もちろん、氏名を明かさないからこそ発言できることもあることは承知の上)







逆に○○病院には治療を行ってくれる、となると

インターネットだけの情報で患者が全国から殺到する時代。

ブログにはHPが添付されていることもあれば、

医師側から依頼されて治療法を広めるということも珍しくはない時代。








ここでは治療うんぬんについて語る気はないが、

医師や医療者をさらに忙殺させ、疲労困憊となり倒れた医師がいた。

知人の医師は「過労死しない程度に休ませてはもらっているが・・・」と

医師の本音を吐露し、

主治医のスケジュールをみると、私は気絶しそうになる。







不具合はある。

人間である以上、向き不向き、相性などさまざまな問題が絡み合い医療は成立している。

けれど、過労で倒れた医師はそれが職業であるから当然だと思えるか?

患者を助けるとは完治だけを意味しているのか?

一喜一憂を共有するためだけに患者が集まり、熱を求め合う。

そこで気に食わなければ患者が患者を切り捨てる。

私は切り捨てられてきたときからずっと、そのことが心の隅っこで引っかかり続けている。

人間は残酷だなぁ~と思う。

それは病気になろうとなるまいと関係ないことであって、

人間性の問題なのだろうと受け流すように努めてきたつもりだ。







なんちゅうても受け合わんこと、

自分をみつめて生きていかんと、なぁ、いいな?

シャーマンの祖母が亡くなるとき、最期に残した言葉には人生の奥深さが隠されている。

ニュートラルな視点で、援軍と協力し、

人を護ることを今日も一日、考えながら私は時間を過ごしていた。

私は決して闘わない。

ただし、諦めもしない。

諦めはしない。