風の生まれる場所

海藍のような言ノ葉の世界

空や雲や海や星や月や風との語らいを
言葉へ置き換えていけたら・・・

水の棘

2009年06月29日 22時02分51秒 | エッセイ、随筆、小説




どんなにセクシーな男が目前に裸でいようともちっともそそられない気分。
・・・・・・・ていうか、セックスなんかこの世から無くなってしまえばいいのに、と思ってる。

私よりも10歳も年下の男友達から連絡がきて、
「今日の気分はどう?」なんて下らない質問メールが届いたせいで、
今日の気分がどうこうよりも、水に棘があるように体中で暴れるのよ、
だから不快、と答えた。

交通事故からセックスにまつわることが多くて、
私の愚痴を静かに聞いてくれる友人に、今日はちょっぴり冷たくあたる私。
いけないと、申し訳ないと思いつつも、どうしても不調だと優しさが体内から漏れ出すのか、
そもそも優しさなど私は持ち合わせていないのか・・・・・はどっちでもいい。

交通事故に遭ったときに交際していた男とは遠距離だったのと、
彼はどうしても子供が欲しいという理由で別れた。
言うまでもなく、私のこの体調では子供は産むのにリスクが伴うし、
もし仮に産んだとしても、子育て経験者のひとりの意見としては、育児などできない。
で、あっけなく別れることになった。
たとえ健康な女性との間でも子供に恵まれるか否かは天のみぞ知ることだと心の中で思ったが、
いちいち言葉にしても負け犬の遠吠えみたいで格好悪いので、
お元気で・・・・・と短く締めくくった。

その後も恋はいくつもやってきた。
でも、いつしか私の中には男と付き合えるのか?という不安が充満していて、
それがセックスにまつわることだと気付いたとき、
セックスをしなくて済む愛情関係の構築が安心に結びつくのだと自覚した。
だから、ときどきはセックスをすることになっても、それが前面に押し出されたような男とは
恋愛関係に発展しない。
理由は単純で、自分の体を思うためと、セックスが怖いからだ。

40も目前にして「セックスが怖い」などと馬鹿げているとも思う。
恋人が欲しいと思うのだから動物的観点からもメスとして発情はしているのだろうが、
今の私の体調では、セックスに体力も気力ももたないことは目に見えている。
セックスレスではなく、あえて「しない関係」もあってもいいと思うのだが、
それを理解してくれるのは、アメリカに住む前の彼のみで、
他とはその話題にすら自分でも触れないようにと気遣っている。

体内にある水分が棘になるみたいに、突き刺さってくるから血まみれになるんです。
その血は流れもしないし、目にもみえないけれど、
私は赤く染まってしまう。
だから、しないんです。


腹を括る(考える葦)

2009年06月24日 17時43分55秒 | エッセイ、随筆、小説




雨の音を聴いていた。
ときどき、相槌を打ち、ほぼ忘れかけている米語を必死に脳内で検索して、
ニューヨークに住んでいる友人との長電話が、1日のはじまりとなった。

そして、今、緋色に染まる空を眺めている。
きらきらと輝く太陽の終焉が、あたかも人生を物語っているような気がして
一瞬、昨日と同じかと錯覚しそうに一見平穏にみえる街並みを見渡し、
突然、近所のじじが亡くなったのだと思い出していた。

昨日とは違う今日。
おそらく太陽も毎日生まれ変わりながら世界を駆け巡っているのだろう。

どこからともなく聞こえてくる赤ん坊の泣き声が、
その終焉へ向けた叫びのようにも思える。
人生は謎だらけでありながら、単純で、甘美だ。

腹が括れるならやりましょう、と言った。
どんな結果になったとしても、それを受け入れるという覚悟です、
泣き叫ぼうが、飢え死にしようが、障害が一生残る現実を前にしても、
あなたが自殺をしようが、必死に生き抜こうが、世の中の視野には誰も入ってはいない。
あなたも私も、誰も・・・です。
医療が、司法がどのような判断を下そうとも、それを受容するのがあなたの役割です。
わかりますか?

腹が括られていくのがわかった。
今までで一番きつい括り方をしたせいか、体のあちこちが妙に痛む。

運命だと思っていますから・・・・・と私は回答した。
腹が括れるならやりましょう、と言ったのは有名な弁護士だ。
腹が括れないならやらないわけではないが、
その後、被害者の痛手が大き過ぎることを心配しての、質問と確認なのだろう。

東から登る太陽が希望なら、西へ沈む夕日は感慨や内省や思慮や与えられた人生への受容が
内包されているのかもしれない。
世の中には天国もあれば地獄も、落とし穴も、なんでも存在する。

人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦に過ぎない。
しかしそれは、考える葦である。
これを押し潰すのに宇宙全体が武装する必要はない。
一つの蒸気、一つの水滴もこれを殺すのに十分である。
しかし宇宙がこれを押し潰そうとしても、そのとき人間は、
人間を殺すものよりも、崇高であろう。

なぜなら人間は、自分の死ぬことを、
それから宇宙の自分よりもずっとたちまさっていることを知っているからである。

宇宙は何も知らない。
だから我々のあらゆる尊厳は考えるということにある。
我々が立ち上がらなければならないのはそこからであって、
我々の満たすことのできない空間や時間からではない。

だからよく考えることを努めよう。
ここに道徳の原理がある。






※トルストイ「人生論」から、パスカル「パンセ」の一文を引用しています。







知の構造、フレームワーク

2009年06月23日 04時41分59秒 | エッセイ、随筆、小説




 

結局、眠れなかった。
そして、随分と長い間、しんしんと降り続く雨のように、私は泣いていた。

泣いたのはなにも悲しいわけではなくて、
おそらく対象に対するせつなさや愛しさや悲しみや弱さといった部類の風景が
人間を通して、その奥から垣間見えてしまったからだろうと思う。
抱きしめたい。
随分と年上のその方を「抱きしめたい」など私が言語化する失礼を少なからずわきまえていたことで、
素直な胸のうちを引き出しの奥の、ずっと奥の方に押しやって、
裁判や問題処理は、その対象を通じて、自分を語る作業であり、
対象への物事の判断は、ひとつひとつが「自分を焙り出して行く行為」だという話に
聞き入っていた。

言葉で相手を誹謗するものが言語の役割ではありません。
司法で使用する「言葉の概念」も、私は例外ではないと思っています、と語った。

職業的には日本でも最高の位置に存在する肩書きを持っている。
頭もきれる。
人格的位置も、相当高い方だとお見受けする。
けれど、私に意地悪を言って、どこまで耐えうる素質なのかを冷静に見計らっているところがある。
私もひねくれているので、言われた言葉、意地悪な言動の数々をノートの端っこに書き留めて
判決後の人生を飢え死にする覚悟で」とはなんなんだ?とか、
不幸になり続ける人生の要素を持っていますよ”とは失礼なとか、
帳尻が合わないのが人生であって、社会や世間をあなたはまだまだ知らないのだと言い終らないうちに
「私は順風に生きてきたわけではありません」と反撃に転じた。
私の依頼を受ける気がそもそもないのではないかと不信まで顔を覗かせた。

世間に精通している方で、法律家だ。
たとえそうではなくても、個人情報をここで書くわけにはいかない。
が、そうした言動が彼の生い立ちをお聞きすることで納得でき、
また私が生き方として結果選択してきた「自分への責任の取り方」みたいな共通する確信に触れると
彼自身が勝手に描いていた「私」というイメージが払拭できたのか、
「今後、どのような生き方をしていくのか見届けたいと思った初めてのタイプです」と微笑み、
「人間は科学反応を起こし合う生き物なのですよ。
お互いを高めあっていくこともあれば、毒にしかならない場合の反応もある」と言った。
そして、「おそらくあなたがあなたの人生を生きていたならば、絶対に関与し難い人種が
交通事故の加害者側に関与した全員と一部の医師たちなのでしょう。質もレベルもあなたとは違う」と。

不幸という表現が場違いだと知りながら、あえて使うことにしよう。
不幸にも交通事故に遭い、ときには自殺か寝たきりの人生になるなどと暴言を吐かれた出来事も
医療過誤や拒否、交通事故被害者の辿る険しい現実は不幸に値するだろうと思う。
しかも他者の不注意によって引き起こされたものであるなら尚更、過失は向こう側にある。

が、私は交通事故に遭ってよかったです、と8時間にも及ぶミーティングを締めくくった。
どのような結果、つまり、不本意だと思う結果に仮になったとしても、
親切な2名の医師に出会えたこともそうですが、
法律家である先生方に出会えたことで、私の帳尻はすでに合っていると思っています。

交通事故が接点となり、縁が紡ぎ出されたのですから、
人生はうまくできていると、私は信じています、と。

腹の据わった気の強い女であるあなたなら、何が起こっても笑えるでしょう。
きっとこれからの人生にしても、あなたなら知性が化粧することもなく、
自然体で原石が磨かれることでしょう。

それを、今こうして、これからもずっと、見続けたいと思うのです・・・・・








勝負の日

2009年06月22日 09時54分16秒 | エッセイ、随筆、小説




朝風呂に入り、体を念入りに洗った。
足の裏は特に気合を入れて、ぴかぴかに磨き上げた。
最後に爪の甘皮の処理を行ってから、髪にあわあわのシャンプーを乗せ
地肌から不純物を取り除くように指先を使って1,2,3。
リズムに乗りながら頭皮をマッサージして、仕上げに水をかぶって終了。
気合十二分に注入。

今日は弁護士と私の後見人である方々と、今後の方針、
戦略についての会議がある。
当初、軽度だと思われていた交通事故が5年も引き摺る結果となって、
医療の、司法の、企業の問題が浮き彫りとなった。

そして、ようやくたどり着いた元弁護士2名と後見人を得て、
軽度の、全治2週間であったはずの被害が5年(後遺症は残存するが)となり、
当初の見解が覆される。
高次脳機能障害の一種である「びまん性軸策脳傷」の疑いが浮上し、
検査可能な病院への受け入れ可能な解答まで得ている。

なぜ、こんなに事故処理が時間を要するのだろう?
当初、軽度と診断された人たちが本当に「軽度」であったかは不明だ。
もちろん、社会復帰できていr人もいるだろうけど、
私のように仕事を失い、社会復帰の目処がつかないままの被害者も多いだろう。

軽度だといわれたはずの交通事故が軽度でなかった場合の対策の情報収集は
今の時点ではとても難しい。
重傷事故がいいわけではないが、診断がつきやすいだけ、
私たちのように病院から放り出されることも、医療拒否に遭うことも、
診断がつかないということもないのだと思うと、複雑な心境に陥る。

さて、出掛けることにしよう。
カフェで一服しながら、刑事裁判記録を再度読み直し、疑いのある機能低下について復習をし、
弁護士たちの見解に傾聴したあと、自分の意見を発言したいと考えている。


※交通事故処理で苦しんでいる方々へ
  諦めないで闘ってください。





「人間失格」太宰治

2009年06月20日 10時00分19秒 | エッセイ、随筆、小説




※タイトルと内容がリンクしない場合はご了承ください・・・・・



「飯を食わなければ死ぬ」
と電話口の友人が慌てている姿が目に浮かんだ。
確かに私はそのとき、一週間記憶がぶっ飛んでいて、食べる・・・という行為も忘れてしまって
ただベッドの上で横になり、にわかに用のもよおしが確認できると、
部屋から10歩ほど歩けばたどり着くトイレに腰を落とすのを暮らしと呼んだ。
そして、その10歩に、帰り道にかかる時間があまりにも長く、ときに壁にぶつかったりするものだから
ようやく「飯を食わなければ死ぬ」という友人の言葉が真実味を帯びて聴覚をかき回し、
「あっ、飯を食わなければ死ねるのか?」と一筋の希望をみた心境になったのは
意外にも幸福な出来事だった。
体重は裕に10kgは減っていた。

その後、ふらふらとした足取りで近所の薬局まで行き、
ゼリー状の栄養補助食品を買うのだが、買った量のせいか、私にそれを運ぶまでの体力がないのか
店員さんに「近所なので自宅まで届けてもらえませんか?」と蚊の鳴くような小声で言ったものだから
「一緒にお供しますよ」と店員さんは親切にも自宅まで荷物と私を運んでくれたのだ。

自分は「失格」なのではないか?と思っているのだと気付いたとき、
「仕事ができない自分」「家事をこなせない自分」「友人との会合にも出席できない自分」など
普通なら当たり前に、たぶん、普通の人よりも精力的にこなしてきた行動的な自分が
その行動的だった自分すら、設計ミスだったのではないかと思えてしまうようになってしまった。
だから体調が悪くても「罪悪感」がまず顔を覗かせて、
“さぁ、寝たきりでしかいられないなど理由になりませんよ”、と肩を叩かれるために
ゆっくりと眠ることができなかったのではないかと仮説を導いた。

今日は天気がいい。
6月だというのに寝苦しい日がすでに数日続いたせいで、
私は冷房をつけなければ、気に入りの毛布の中にもぐって眠ることができなくなっている。
しかし、朝になれば、東の窓から燦々と降り注ぐ光のシャワーが嘘のように
薄ら寒くて、毛布をもう一枚増やさなければベッドで休むことができない状況が
果たして不眠気味かといえばそうでもないし、
寒暖の差が激しい陽気なのだといえばそれに尽きてしまういそうだし、
朝の短い不快を取り除けば、体調は確実に上向きになっている。

だから「飯を食わなければ死ぬ」と聞いたときのなんともいえない幸福感が
今は「失格中」である事実の方が水のようにすうっと体内に入って染み入るし、
心地よい気持ちになるのは不思議だ。

一生失格なのかもしれないし、失格というおどろおどろしいシールが剥れるときがくるかもしれないし、
まぁ、人間失格なのだから、失格者らしく暮らそう、となぜか気軽に思えたことが
社会との隔離に焦りを感じずにいられる所以になり、気が晴れた。

自分での不思議なのは、医者に言われた「あなたの運命なのですよ」が印象的で
こうした生活を余儀なくされる原因をつくった人間へは、なんの感情も持っていないということだった。
許したわけではない。
ただ、なにもその人に関しては感じない・・・・
それこそが、究極の反撃なのか、とも思うのだが。




 


基礎ゼミ「世界の貧困について」

2009年06月19日 18時08分33秒 | エッセイ、随筆、小説




「リハビリだと思ってレポートを手伝ってみない?」
そう娘に言われたのが一昨日の夜で、大学に提出するレポートを張り合って作成することになった。

テーマに選んだのは「世界の貧困について」で、
原稿用紙約5枚完結の中には以下を明確に記載しなければならない規定になっている。

まずは「テーマ(私たちは“世界の貧困について”に選んだ)」だ。
環境、社会、人生、その他、各人が独自に考えて問題提起する、と書かれている。
次に「疑問点の確認」とあり、「問題の性格付け、特徴付け」、
「解決法の提案」、「問題解決実施策の検討」、「議論のまとめと今後への課題の提示」で終わる。

私は「娘の視座」を考えながら、当時の状況を思い出し書いた。
米国・シンシナティーに滞在していたときの出来事、
まるでここからお互いに立ち入り禁止ですよ、と線を引いたかのような富裕層向けの住宅地と
貧困層の住む地域との区別に、娘は言った。
「いくら私が恵まれた環境でアメリカに滞在できるとしても、たぶん慣れることはない」と。
富裕層向けの住宅地に住むことも、車で何十分か走れば目に付く貧困層の住む地域の光景も。

私はテーマを「世界の貧困について」としながらも、
なぜか臓器移植法改正法案が頭から離れなかった。
もしたしたら途上国の貧しい人たちがブローカーに(関係者の詳細は書けない)騙されて、
自分の臓器をわずかな金銭に換える出来事を現地で見聞きしたためかもしれないし、
臓器を必要とする人たちが世界中には大勢いる現実とは裏腹に、
脳死が本当に人の死の定義なのだろうか?という漠然とした疑問が
沈殿するヘドロの中から顔をもたげてくるようでもあるからだ。

それはなぜだろう・・・と考えてみた。
おそらく「脳死」という定義は、臓器移植という問題がなければ過熱し得ないからではないか、と。
またなんらかの人の死という経緯を経て、臓器移植が可能になる現実は、
「医療への納得」という背景が少なからず絡んでいるのではないかと想像してたところで、
やっぱり難しい・・・・・と思った。
助かるか助からないか不明でも、最善を尽くしたいと思うのが人の世の常だ。

ふと、私自身のことを考えてみた。
交通事故に遭ったのは5年前で、まだ原因不明の疾患のため、事故処理が進まない。
理不尽だと思うのだが、日本では被害者に立証責任があるために、
自分の不調が交通事故を原因とするものだとわかっていても、
それを科学的、医学的見地から証明しなければならない。

残念なことに「医療の限界」「医療依存をするな」「うちではこれ以上診れません」など
交通事故が毎日何十件と日本全国で起こっていながらも、
医療は決して、被害者の味方ではないのだと知った。
そして私は、医療に納得していないのではないか?との疑問に気付くのだ。
私自身が、医療に納得などしていないからこそ、臓器問題が頭から離れないのではないか、と。

日本でも社会的弱者が臓器を提供するような事態にはならないのだろうか?
医療の進歩と共に救える命は救いたいと思う一方で、
私たちのように、命はあっても痛みや不具合から日常生活に困窮する立場にあると、
物事が一歩進む前に、まだ片付けなければならない問題が
この国には山のようにあるのだと思えてしまうのは皮肉だ。

さてレポートだ。
日本の貧困について、書き始めたところだ。






映画「ハゲタカ」と刑事起訴記録

2009年06月10日 16時57分45秒 | エッセイ、随筆、小説




刑事起訴記録を開封した。
連絡はすでに10日前ほどに届いていたのだが、
複雑な心境に陥り、開封せぬまま今日まできたのだった。

区役所で税金についての説明を受けた後、
駅前で行われていた「高齢者医療費問題について」、しばし立ち止まり、傍聴した。
医療を必要とする身であるから痛感することだが、
高齢者になるほど体調の不具が生じやすいというのに、
高額医療費が自費になった場合、当然のことながら医療を受けられない人も出現するだろう。
僅かな年金暮らしの方々などは、死活問題なのだということがいえる。
それはなにも高齢者問題だけではなく、私にも、私たちにも問題であることなのだと思った。

行きつけのカフェで、いつもの席に座った。
持参したペーパーナイフで弁護士から届いた封筒を開けた。
すると、目に飛び込んできたのは“刑事起訴記録”という文字の配列と、
加害者のフルネームだった。
私は加害者であるO氏を恨んではいない。
怒りの矛先となるのは、加害者の代理人となった損保会社であり、その顧問弁護士である。

“金がなくても不幸だが、金がありすぎる不幸もある”
映画「ハゲタカ」に出てくる台詞だ。

冷房が直接あたらないようにひざ掛けで体を覆った。
蒸し暑さの中、客の多くはアイス類のドリンクを注文しているが、
その中で私はホットのカフェモカを啜り、ふと考える。
“あなたは寝たきりになるか、自殺する運命にあるのですから”という発言だ。

損保会社担当者やその顧問弁護士に“私の運命について”語られたとき、
正直、自分の耳を、久しぶりに疑った。
そして、思った。
この人たちは、この人種は、金のためならなんでもするのだろうか?と。
なんでも言うのだろうか?
どんな手段を使おうと、相手を追い詰め、一円でも補償を支払わないように仕向けてくるのだろう、と。

刑事起訴記録に戻るが、開示されたのは去年の暮れのことだった。
交通事故が起こったのは今から4年半前になる。
なぜ開示されなかったかといえば、刑事事件として処分が決定されなかっただけのことだが、
ここの中にも、加害者の困惑が記録されている。
“私は保険会社の言うとおり、わけのわからないままサインをしたわけですが、
まさか被害者であるM氏と示談交渉どころではなく、
まして私の代理人として弁護士が介入しているとは”
知りませんでしたし、驚きました。
私はただ損保会社の言うなりになって、交通事故からのこの4年半を過ごしてきたわけですが、
被害者はいまだに快復の目処がたたず、ある医師の診断では治癒は不可能だろう、と。
そう書かれているのですが、これは事実ですか?

映画「ハゲタカ」も皮肉なことに、
かつては日本を代表する自動車メーカー“アカマ”の買収に関与したストーリーだ。
車がなければ私たちの生活は成立しないのだろう。
が、その陰には私と同じような被害者の存在が見え隠れする。
“金がないのも不幸、だが、金がありすぎる不幸もある”

金は魔物だ。
人を善にも悪にも一瞬で変えてしまうのだから。







 


運命

2009年06月10日 08時10分55秒 | エッセイ、随筆、小説




「すべてが運命だと思って受容するのが賢明です」
ドクターは「運命」という言葉を使った。

私の運命・・・・・・
私の、過去も、今も、未来に起こりうるであろうことも運命なのです、と。

すこし補足するならば、私は5年前の交通事故によって人生の変更を余儀なくされた。
言うまでもなく、5年経過した現在も通院継続はもとより交通事故処理は行われておらず、
被害者でありながら、もし、権利や人権などという小難しい言葉を使用することを許されるならば
この国は「権利や人権」について、後進国である。

そして、言い忘れたわけではないが、女性に対する扱いも想像を絶するものがある。
おそらくそれは男社会の弊害とでもいおうか、
警察も検事(担当官を3人変更してもらい最後に女性を指名した)も加害者も加害者側担当者も
全員が男であり、女性は私ひとりだけだった。
追記するなら、治療にあたった医師も例外ではない。

脳の機能障害とでもしよう(特定の病名を出すのに躊躇を覚えるため)。
痛みにのたうち回る時間を3年半送ったのち、感情障害を発症したと医師に伝えられた。
感情障害とはいわゆる流行のように取り上げられている「うつ病」のことだが、
私の型は「双極Ⅱ型」といわれるもので、他の、躁鬱などに比べると厄介であることを本で読み、
医師からの説明も受けた。

「ふと電車に飛び込みたい心境になるかもしれないから・・・」と
父に、母に、通院に同行してくれないかと尋ねてみた。
厳密には、電車に飛び込みたいのではなく、
ふと、自分でも知らぬ間に、吸い込まれていくような感覚に襲われるのが正解だ。

死んだ者たちの胸中は計り知れないが、電車に飛び込んでしまう人たちの多くは
私と同様の、ふと、自分でも知らぬ間に、吸い込まれていくような感覚に襲われた結果、
命拾いをした者もいるかもしれないし、本当に吸い込まれてしまった者もいるかもしれないと思う。
言うまでもなく、私は前者だろう。

死を傍らに抱えながら生きなきゃならない者も、医師の言うとおり運命であるなら、
死と距離を取りながら、自分が病気に、いつか死ぬなど夢物語のような人生も、運命なのだろう。