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言無展事

徒然に禅語など。

詩仙堂

2007年01月24日 02時44分33秒 | 
京都市内に戻り、詩仙堂丈山寺に行く。
ここは京都通の評価も高いし、人気の観光名所でもある。その秘密を知りに、かねてより訪れたいと思っていた。訪れてみれば、その理由は明らかだった。

江戸時代に生きた石川丈山が隠棲したこの庵は、個人が所有し得る空間として限りなく完成度が高い。住居に恐るべき感性と情熱を持った男が、自分の住まう家をひとつの小宇宙として存在させようとし、まさしくそうした、といったところのものだ。敷地の地形を生かした簡素な堂、繊細な庭。詩仙堂という名のもとになる狩野探幽の「中国三十六詩仙像」は、四畳半の間に飾られている。

芸術は常に生活の中にあり、生活に奉仕するものだという、私たちが背負うものであったはずの伝統。それは難しいことだが、単純なことでもある。

寂光院

2007年01月21日 23時48分04秒 | 
大原に、三千院とならんで高名な寂光院という寺がある。縁起の不思議な寺だった。
594年に聖徳太子が建立したというのも不思議だが(なにせ京都駅から北にバスで一時間弱の山奥にある)、天台宗の尼寺でもあり、建礼門院や阿波内侍が住んだらしい。その後、淀君によって再興されたりしている。
建礼門院といえば平家物語だが、そういえばあれは歴史だったと思ったりした。
なんのことはない、大原御幸だ。ずばりこの寺を後白河法皇が訪れるのだ。だが、大原とは随分都から遠いところだった。。バスで一時間弱であるから、歩いたら随分かかるのではないか。私の想像の中では、京と大原は実に新宿から中野ぐらいの距離かと思われていた。
寂光院は大げさに言うと山の中の庵、なんということもない寺だった。何年か前の火災で本堂が再建され、新しかったためになんとも茫洋としていた。だが、

思ひきやみ山のおくに住居して雲井の月をよそに見むとは  (建礼門院)

と彼女も言っている。こんな山奥に住むことになるとは思わなかった、と。
800年も前に生きたひとりの女を思い歩いた。




宝泉院

2007年01月16日 00時26分36秒 | 
更新が滞るので、昨年末に見歩いた寺の話を書こうかと思う。
その時ちょうど禅語について書いていて、機会を逸していた。

ようやく京都の大原に出掛けた。天台の隠れ里で、見たい物が多くあったが、距離があるのでなかなか足が向かなかった。最も期待していたのは宝泉院の、客殿から見る額縁庭園だ。
これは実地に見ないとわからない。自分も話には聞いていたが、目で見て驚愕した。
客殿の二方は大きく開けていて柱が配置され、その柱を額縁と見立てて庭を見る。庭には四季を楽しむ草花と木々に溢れ、遠景に深い山を背負う。風の音、鳥の声。他には何もない。
この庭のもつ精神は、この地球上でもっとも贅沢なもののひとつだ。これほどに計算し尽くされ、簡潔で豊かなもの。似ているものが思いつかない。これを見て生きる人生と、見ずに生きる人生とでは、何程か違うだろうとすら思わずにいられないものだった。

補陀落山

2006年03月30日 05時44分35秒 | 
夜間の特別拝観に、ライトアップされた音羽山清水寺に行く。

清水の舞台は、南方浄土の補陀落山の崖を模したものだと最近知った。そういわれてみれば本尊は千手観音であるし、よく考えればそれ以外の何ものでもないのだが、よく考えることもないままに、あの舞台は長年の謎だった。

清水寺の歴史は平安京遷都以前に始まり、京都にあまたある寺院の中でもかなり古い。宗派も北法相宗という一寺一宗のもので、京都の中では際立って独特な雰囲気がある。高名な音羽の滝が祭って(?)あるところなど、全体に少し神社に似ている。なにしろ日本で最もポピュラーな観光地でもあるから、誤解を恐れずに言えば「浅草」「ディズニーランド」といったニュアンスも強い。総じて不思議なお寺だ。

舞台の素晴らしさなどは私が言うまでもない。多くの方がその目でご覧になったであろう、公然の事実だ。
夜のライトアップは初めて見たが、よかった。
でもなぜか、舞台が補陀落山と知ったゆえか、電灯のない時代に月明かりだけに照らされるそればかりを幻視した。
それは確かに、観音浄土を現していたに違いない。

虎の子渡し

2006年03月28日 02時40分33秒 | 
京都で落ち合った友人が枯山水が見たいと言い、行く気のなかった南禅寺に行った。
初めて枯山水を見るならやはり龍安寺かと思うが、夕方で時間が足りなかったので、とりあえず南禅寺の虎の子渡しでお茶を濁そうと思った。

しかしより楽しんだのは結局私だった。
一月に一度見て「何かが足りない」とかなんとか偉そうに記事にもしたが、その感覚も生々しいままに再び見ると、なんたることか、びっくりする程美しかった。
西日を受けて輝き、調和した一つの旋律が充満して、それが空間に納まり切らずに方丈の縁側にあふれ出していた。こんなにも豊かな表情を、庭というものが持ち得ることに今更ながらに感服した。

無論四季や一日の中で庭はその見かけを変えるし、いいタイミングで見るというのも重要なことだ。本当に一つの庭を見ようと思ったら、そこに住むのが一番だが、そうもいかないから一生をかけて通うしかないなと思う。
しかし何より、この目なぞ、今のところちっとも信頼に足るものではないのだ。
いいものはいいもの程、この目を痛快に裏切ってゆく。
だから私は、見ることの深みにますます陥ってゆく。

桜図

2006年03月26日 04時32分52秒 | 
前を通りかかったので、以前から気になっていた真言宗智山派の総本山、智積院に行った。
長谷川等伯派のすごい障壁画があると聞いていた。

特に有名な桜図は、実際目眩がするほど素晴らしかった。絵が絵として生きていると言うような、まるで生きているかのように描かれているのではなく、描く対象が生かされているのでもなく、画家がそこに生きているのでもなく(この差は優劣ではないが大きい)。そんな絵だった。画家の全てが絵に捧げられ尽くしていて、その影は残っていなかった。そういう芸術作品は、どこか奇跡に似ている。

しかしなにしろ展示の仕方が最悪だった。これはもう、致命的だった。
障壁画の前に柵があり、どう頑張っても全体像が見えない。さらには展示室に延々と作品の解説のアナウンスが流れている。。たまに僅かばかりのお金を払って眺めて、尤もらしそうな事を言って楽しむ人間が、国宝と呼ばれる作品を何百年も保存し管理する側に文句をいっても仕方がないが、しかしものが素晴らしかっただけに余計に残念だった。

だが、周りの環境などに左右されずに作品と相対する心を持って、機会があれば一度訪れて頂きたい。

法然

2006年03月25日 01時05分21秒 | 
もうかなり食傷気味の方も多いと思うが、許しを請いあと幾記事か寺の話を。

高台寺にあわせて東山に遊び、ついでに今まで縁のなかった知恩院に行った。
浄土門の寺院はなぜか後回しにして、普段なかなか行かない。
浄土宗の総本山、法然の終焉の地である知恩院は、これまたいかにも浄土宗の伽藍で、他の宗派の寺院にはない明るさのようなものがあった。

平安時代末期から鎌倉時代へとなだれ込む乱世を生きた法然は、全ての人に救いがあってほしいと専修念仏を教義とする浄土宗を開いた。六字名号を称えれば死後に浄土に往けるとは、今となってはごく一般の日本の仏教の代表的な信仰であるが、当時はまさしく革命であっただろう。そして現在に至るまで、莫大な数の日本人がその恩恵にあずかって来た。

例えば、同じく宗派の開祖であり仏教史の偉人である空海や道元に比べて、法然は無論ものすごい精神であったことは変わりないが、それでもいい意味で普通の人だったような気がする。乱暴な言い方をすると、空海や道元はもはや奇人の域に達する天才であったが、法然は常人の天才であったという印象がある。そして両者を比べると、数だけならより多くの人間に影響を与えられるのは、やはり常人の天才である。「数だけなら」などと限定するとネガティブなニュアンスがあるように聞こえてしまうが、そうではなく、それが本当にすごいことなのだと最近思えて来た。

久しぶりの浄土門の伽藍は気持ちがよかった。禅門のそれのように何かしら曰くありげな空気などなかった。そこは間違いなく、不特定多数の、求める人間に開かれていた。

利休

2006年03月22日 14時49分28秒 | 
場所を京都に移し、臨済宗建仁寺派の鷲峰山高台寺に行った。

高台寺は豊臣秀吉の夫人、北政所が秀吉の死後にその菩提を弔うために慶長年間に創建した寺院だ。そのことに対する興味はほとんどないが、しかしここには利休の意匠との説のある、傘亭と時雨亭という二亭の庭園建築がある。どの程度まで利休と関わりがあるか、私には確かなことはわからないが素晴らしかった。伏見城から移築されたというそれは、利休の茶室のような侘び寂びはほぼ無いように感じたが、技巧を凝らしつつも簡明、開放感があり力強い印象だった。
400年という時間の重さも付加されてか、存在がそれ自体充足し豪胆な印象さえあった。

桃山の武家が作った庭を歩きながら、利休について思った。青山次郎の『利休伝ノート』の最初のページには、「茶人;無欲、非情、静寂」とある。
その人については、「野心家であり懐疑家であり、魅力があって実力があり、地位があって才能があり、美の天才であって人間心理の洞察家、血なまぐさい楽天家の弟子と幸運、自信と芝居と孤独とその死。」
「利休の根本的な思想の中には、本当は茶道も礼儀も無い、何も無かった。この世がことごとく虚偽に見えたのだ。美も亦利休には嘘だった。ただ人があり、社会があり、からくりがあり、嘘八百があり、厭わしかったのだ。」ともある。
最後には、「彼等は考えない。これは特徴だ。普通考えを追うところでは、彼等は或る感じを繰返すことで会得する。五年も十年もかける。審美探求という思想を彼等は肉体化したのである。」と茶人の心を書く。

現代の茶道が何であるかは知らないが、根本のそれは、この決して輪郭を明らかにしない一人の人間、利休の精神を生きることかと時に思う。能が世阿弥を生きることでしかないように。貧相、饒舌、優美、軽薄、そのようなものと無縁でいることは、凡夫にとってほぼ不可能と思える程に難しいことだ。




阿修羅

2006年03月18日 04時12分30秒 | 
高校生の頃、知人にこの御像に顔が似ている(?)と言われ、思わず見に行ったのが、今に続く仏像を訪ねる放蕩のはじまりだった。
興福寺の阿修羅像だ。
奈良に行く度に必ず拝する故か、どこか人生に融和してもはや言う言葉も摩滅しかけている。
だが、この非天の闘神について絶えず考えている。修羅とは何か。なぜ阿修羅像はあのような表情で人間を凝視し続けるのか。
戦う心は哀しい。それは全て必敗の定めを逃れられない。
修羅とは、戦う心であると同時に、戦う心をもつ人間の苦しみでもあるだろう。
この阿修羅はその苦しみを、強く耐えて見つめる姿に見える。己をそれそのものに化して、衆生の修羅の苦しみ、哀しさをも体現しているように見える。

薬師寺・唐招提寺

2006年03月15日 03時54分25秒 | 
奈良で時間があり、雨の西ノ京に薬師寺と唐招提寺を見た。

法相宗総本山の薬師寺は、やはり法相宗の伽藍だった。一見気難しい外観を持つ唯識所変の教学は、ひどく大らかな意識から展開されたのだと思う。ご本尊の薬師如来は、人間の阿頼耶識の孤独を癒すためにおわすように感じられた。

一方、律宗総本山の唐招提寺は、これもまたいかにも律宗の伽藍だった。
金堂は現在修復中だが、それについて拝観料を払う入り口のブースにいた男性の言い草がよかった。
「今ちょっと金堂を修復しておりまして、国宝の盧舎那仏坐像等の御仏のいくつかがご覧になれませんが、よろしいですか。」
もう5年も修復中であり、あと5年以上はかかるであろうに、「今ちょっと」もないものだ。

最近、井上靖の「天平の甍」を読んだのでテンションは十分だった。
鑑真和上の御像は何年か前に上野の美術館で見ていたが、その精神は仏教徒として最上のものであると思う。
勁く、厳しく、やさしい。深くて高い。そんな平凡な言葉で十分である。
宝蔵に金堂の鴟尾が展示されており、手を伸ばせば触れられそうだった。東方のものは鎌倉時代のものだが、西方にあったものは創建当時そのままのものだという。
1200年前の、まさしく「天平の甍」だ。




天平の甍 (新潮文庫)
井上 靖
新潮社

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