ここのところ些事に追われて本も読まない。
しかしなんだかよくわからないが何か言葉を思い出しそうで、思い出せず、数日の間放っておいた。
だが今日、突然思い出した。閃いたと言った方が近いかもしれない。
思い出したと言っても、どんな言葉だったかはちっとも思い出せない。
ああ、八木重吉だと、それだけがわかった。
家にちくま文庫の八木重吉全詩集があり、これ以上のものはかつて読んだ記憶はない。
だからこの中にあるのだろう。
なぜか『貧しき信徒』ではなく、『秋の瞳』の中にその言葉はあるような気がした。
早速はじめから捲って文字を追い、それを探した。
果たしてあった。だが見つけてしばし放心した。これだ。
「「おもひ」
かへるべきである ともおもわれる」
(八木重吉『秋の瞳』)
引用するのも難しいが、「おもひ」という題の一行詩である。
私が何かを思い出しそうで思い出せずにひっかかっていたのは、おそらく「かへるべきである」と「ともおもわれる」の2つの句の、それぞれ2音目と4音目を合わせることで作られる、音の妙だ。
しかしわかってみれば、今度は自分自身が謎だ。
なぜ、その仔細を覚えていない言葉の音の妙などを思い出しそうで思い出せない状態に陥るのか。
人間は認識は、言葉からその「音の妙」だけを全く切り離し、独立した情報として扱うことができるのか。
そしてなぜそれがここ数日なのか。その音の妙を連想させるような体験は、少なくとも身に覚えはない。
仮にそれがあったとしよう。例えば、私がそうと確かに認識せずに誰かが(もしくは自分が)、それぞれの2音目と4音目が同じ2つの句(とおぼしきもの)を発語するか、何かで読んだかしたとする。そんなことは日常でいくらでも起こりうる。
しかし、それによって無意識に自分では思い出せないこの言葉を連想し、脳内の奥底の記憶を検索し、答えに辿り着いたとして。
その作業に数日かかるとはなんたることか。
しかも。なぜ、よりにもよって、「かへるべきである ともおもわれる」なのか。
私は全くの無意識だったが、もしこれが「音の妙」の連想に仮託した、私の深層意識や「人生の智」からの何らかのメッセージだったとしたら?これは難題だ。
どこに?と問うことはもちろん、この微妙な統語の意味合いを自分に引き寄せて解釈するなど、余程の体力が必要だ。
冗談が過ぎてきたが、さらに言うなら。
私はなぜこの言葉をみつけられたのか。
なぜその言葉を思い出せぬまま、八木重吉だと思いあたったのか。
この詩の「へ」と「も」がふたつずつあるのを見て、ああ、自分が思い出しそうで思い出せずにいたのはこの音のことだ、と思ったのは確かだ。
しかしそれ以上に、ああ、あった、と思った。
きっと私は確かに音から連想して、しかしこの言葉そのものを探していたのだ。
だとしたら、なぜ?
「かへるべきである ともおもわれる」
私はしばし放心した。
おかしな記事になってきた。
しかしこれも確かに私が生きている、言語体験の現在である。
しかしなんだかよくわからないが何か言葉を思い出しそうで、思い出せず、数日の間放っておいた。
だが今日、突然思い出した。閃いたと言った方が近いかもしれない。
思い出したと言っても、どんな言葉だったかはちっとも思い出せない。
ああ、八木重吉だと、それだけがわかった。
家にちくま文庫の八木重吉全詩集があり、これ以上のものはかつて読んだ記憶はない。
だからこの中にあるのだろう。
なぜか『貧しき信徒』ではなく、『秋の瞳』の中にその言葉はあるような気がした。
早速はじめから捲って文字を追い、それを探した。
果たしてあった。だが見つけてしばし放心した。これだ。
「「おもひ」
かへるべきである ともおもわれる」
(八木重吉『秋の瞳』)
引用するのも難しいが、「おもひ」という題の一行詩である。
私が何かを思い出しそうで思い出せずにひっかかっていたのは、おそらく「かへるべきである」と「ともおもわれる」の2つの句の、それぞれ2音目と4音目を合わせることで作られる、音の妙だ。
しかしわかってみれば、今度は自分自身が謎だ。
なぜ、その仔細を覚えていない言葉の音の妙などを思い出しそうで思い出せない状態に陥るのか。
人間は認識は、言葉からその「音の妙」だけを全く切り離し、独立した情報として扱うことができるのか。
そしてなぜそれがここ数日なのか。その音の妙を連想させるような体験は、少なくとも身に覚えはない。
仮にそれがあったとしよう。例えば、私がそうと確かに認識せずに誰かが(もしくは自分が)、それぞれの2音目と4音目が同じ2つの句(とおぼしきもの)を発語するか、何かで読んだかしたとする。そんなことは日常でいくらでも起こりうる。
しかし、それによって無意識に自分では思い出せないこの言葉を連想し、脳内の奥底の記憶を検索し、答えに辿り着いたとして。
その作業に数日かかるとはなんたることか。
しかも。なぜ、よりにもよって、「かへるべきである ともおもわれる」なのか。
私は全くの無意識だったが、もしこれが「音の妙」の連想に仮託した、私の深層意識や「人生の智」からの何らかのメッセージだったとしたら?これは難題だ。
どこに?と問うことはもちろん、この微妙な統語の意味合いを自分に引き寄せて解釈するなど、余程の体力が必要だ。
冗談が過ぎてきたが、さらに言うなら。
私はなぜこの言葉をみつけられたのか。
なぜその言葉を思い出せぬまま、八木重吉だと思いあたったのか。
この詩の「へ」と「も」がふたつずつあるのを見て、ああ、自分が思い出しそうで思い出せずにいたのはこの音のことだ、と思ったのは確かだ。
しかしそれ以上に、ああ、あった、と思った。
きっと私は確かに音から連想して、しかしこの言葉そのものを探していたのだ。
だとしたら、なぜ?
「かへるべきである ともおもわれる」
私はしばし放心した。
おかしな記事になってきた。
しかしこれも確かに私が生きている、言語体験の現在である。
八木重吉全詩集〈1〉 (ちくま文庫)八木 重吉筑摩書房このアイテムの詳細を見る |