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『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』(2005)

2008-05-21 22:09:54 | 映画・DVDレビュー
メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬 スペシャル・エディション

アスミック

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現在カンヌ国際映画祭が開催中だが、2005年カンヌで脚本賞、主演男優賞を受賞したのがこの作品。主演トミー・リー・ジョーンズの初監督作品としても知られている。
以前から観たいと思っていたが、『ノーカントリー』とトミー・リー・ジョーンズ繋がりでの鑑賞となった。ともに舞台が彼の故郷であるテキサス、彼が演じるのが「西部の男」であるということで。
以下すべてネタバレ有りの感想。

ストーリー:アメリカ・テキサス州、メキシコとの国境沿い。ある日、メキシコ人カウボーイ、メルキアデス・エストラーダの死体が発見される。初老のカウボーイ、ピートは彼を不法入国者と知りながらも親しく付き合い、年齢を越えて深い友情を築いていた。悲しみに暮れるピートは、彼と交わした約束、「俺が死んだら故郷ヒメネスに埋めてくれ」という言葉を思い出す。そして偶然、犯人が新任の国境警備隊員マイクだと知ったピートは、彼を拉致誘拐すると、共同墓地に埋葬されていたメルキアデスの遺体を掘り返させるのだった。そして、そのままマイクを引き連れ、遺体と一緒に故郷ヒメネスへと旅立つのだった…。(allcinemaより)

映画前半は、メルキアデス(フリオ・セサール・セディージョ)の死からピート(トミー・リー・ジョーンズ)がマイク(バリー・ペッパー)に辿り着くまでと、マイクが国境警備隊に着任してからメルを死に到らしめるまでの、二つの時間軸に基づくエピソードが交錯して語られ、それと織り交ぜてピートとメルの生前の友情が描かれるので、当初少し混乱した。

何がピートを無謀な行動に駆り立てたのか、映画の中で説明的な描写や演技がなされることはない。親友の死が、不法入国者ということでまともに捜査されることもなく、国境のこちら側では文字通り「なき者」として処理されてしまうことに憤ったのかも知れないし、正義がなされぬのであれば自ら行うべし、という「西部の男」の価値観に従った行動であるかも知れない。
しかしそれよりも、ピートはただメルキアデスの「孤独」に堪えられなかったのではないだろうか。遺体と旅し、故郷に送り届けることで、彼はメルキアデスの生きた証をこそ確認したかったのだ。

スペイン語しか話せないメルキアデスがたったひとり国境を越えて来た真の理由は、最後まで謎のままだし、ピートのそれまでの人生や背景が語られることもない。
しかし、メルキアデスが故郷や家族について語る傍らで、ピートが突如涙ぐむシーンがある。ピートにもどこかに残して来た家族や失った何かがあったのではないか、との推測も可能だが、それよりも、彼らはただ、沁み入るような互いの「孤独」によってのみ共感し合い、心を通わせることが出来たのだと思う。
生前のエピソードを通じてメルキアデスの純朴な人柄が十分伝わって来たことも、ピートの行動に説得力を持たせていた。

一方、かつては人も羨むカップルだったというマイクとその妻ルー・アンには、もはや通じ合うものはない。夫の勤務中トレーラーハウスにひとり取り残されるルー・アンは、娯楽施設もなく近所づきあいも出来ない田舎町で、日がな近くの食堂に入り浸るだけ。その食堂の主人の妻でウェイトレスのレイチェルは、ピートともベルモント保安官とも浮気を重ね、ルー・アンにもそういう「暇つぶし」を勧めたりする。
主な登場人物は皆それぞれの孤独を抱え、この辺境の町で自らの人生をもてあましている。それでも自覚できる人たちはまだましで、マイクは自らの虚しさに気づいてさえいない。妻の孤独に気をとめることもなく、セックスは単なる性欲処理でしかない。
そんな彼がうっかり殺めてしまったのがメルキアデスだった。実のところそれは「不幸な事故」に近いのだが、空ろなアタマを不安でいっぱいにしながらも、その罪や責任と向かい合うことのなかったマイクが、無理矢理ピートに連れ出され、その旅を経て次第に変わって行く──というのが後半の展開である。

上で、この映画の登場人物は孤独な人間たちばかりだと書いたが、その極みとして現れるのが、国境の少し手前の山に独り住む盲目の老人である。何も訊かずピートたちに必要な物や食料を提供してくれる老人は、ただラジオを聴いて日を送りながら、訪ねて来ない息子と、そして自らの死を待ち続ける。ピートとマイクにも、出来ることもかけてやれる言葉もない。

ところが、二人が国境を越えてメキシコにはいってからは、利害関係や暴力のみに由らず、孤独を埋め合わせるためでもない人と人の繋がりが見えて来る。
国境警備隊員としてのマイクは、メキシコからの入国者たちを同じ人間として扱っては来なかった。メルキアデスの死に対する責任から目を背け続けたのも、しょせん不法入国者だという思いがあったからだ。
しかし、毒蛇に噛まれたマイクを救ってくれたのは、かつて彼が手ひどい扱いをした女だった。そして彼は、そこで暮らす人たちの日常生活にも触れることとなる。
また、更なる旅の途中で出逢った男たちは、見知らぬ旅人たちを温かくもてなしてくれる。彼らが観ているテレビ番組は、アメリカでマイクが観ていたのと同じものだ。
ここに到って、マイクはようやく涙を流す。国境の向こうにいるのも同じ人間であることに気づいたからだけではない。妻に対してさえ粗略にしか接して来なかった彼自身もまた、「人間」とは呼べない存在であったことに気づいてしまったからだ。

そして、メルキアデスが帰ることを望んでいた「故郷」で、ピートとマイクが知った真実とは──

そこへ到っても、真実などなかったのかも知れない。すべては徒労であったかも知れない。
メルキアデスは彼の「夢(ファンタジー)」を語り、ピートはそれを実現しようとした。彼らの思いはともに真実だった。そしてマイクがその旅で得たものも、その贖罪も真実だ。

彼らが孤独な存在であることに変わりはない。ひとり立ち去るピートがどこへ向かうのかはわからない。マイクに帰れる場所があるかどうかもわからない。
しかしピートは、メルキアデスから贈られた馬、ともにずっと旅して来た馬を、マイクに託して行った。
そして、マイクはピートに声を掛ける。ひとりで大丈夫か、と。
だから、あれでいいのだと思う。

この映画でもう一つ特筆すべきことは、ロケーションの素晴らしさである。
辺境の町のひなびた雰囲気。どこまでも広がる荒野。国境近くの山並み。そして、案外簡単に渡れる国境の川(これが名高いリオ=グランデ川だそうだ)。
それらの風景はストーリーと乖離することなく、物語にも登場人物の心情にも「これしかない」と言いたくなるほど合致している。
たとえば砂漠とその上に広がる青い空、そこに浮かぶ白い雲。美しいが、これは人間を拒む風景だ……と思った次のシーン、カメラはその向こうの、黄色い花咲き乱れる野原を映し出す。花の中を必死で逃げまどうマイク。ゆっくり馬を進めるピート。
トミー・リー・ジョーンズ監督のそういう映像感覚は心地よいものだった。また、随所に現れる、さりげなく時にブラックなユーモアの感覚と、全体に流れる詩情とのバランスも好もしい。

そして俳優としての彼も、こういう役だと特に魅力的だ。良くも悪くも軽く小綺麗な俳優や人工的なマッチョばかりになった今どきのアメリカ映画界に於いて、体つきや佇まいそのもので「武骨な男」をリアルに表現できる主役級の俳優は貴重だと思う。
トミー・リー・ジョーンズ監督、現在2作目(正しくは3作目らしいが)を準備中とのことで楽しみだ。
シネマトゥデイ

『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』公式サイト

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