![]() | 偉大な生涯の物語〈特別編〉 [スタジオ・クラシック・シリシーズ]20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパンこのアイテムの詳細を見る |
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(今日、キリストが生まれ給えり
今日、救い主が現れ給えり)

毎年この日には、『素晴らしき哉、人生!』をお奨めしていますが、今年は初心(?)に返ってこれ。奇を衒わず正攻法で描いた「イエス=キリストの物語」です。DVDは最新のこちらを。
『ダ・ヴィンチ・コード』が話題になった年でもありますが、原点となるべきものを観ずしてトンデモに走るなかれ、ということで。
それで、この映画ですが、各福音書のエピソードをうまく配置して、ナザレのイエスの誕生から十字架上の死、そして復活までを描いています。
但し、イエスが行なったとされる数々の奇蹟は、殆どビジュアル化されていません。盲目の老人の目が見えるようになるエピソードも、はっきり彼がなしたこととしては描かれませんし、前半部クライマックスのラザロの復活も「そのシーン」は出て来ず、周りの人たちのリアクションで表現されています。
例外は、歩けなかった男が歩けるようになるくだりくらいですが、これも本人の意志の力によるものとも解釈できるような描き方になっています。
これらからも判るように、ハッタリを極力排した静かな淡々とした展開は、時に眠気を誘いますが、その流れに身を委ね、宗教画を眺めるように観るのが、正しい鑑賞法と言えましょう。
大ロングショットや空撮も駆使して、自然の風景とその中の人とを捉えた画面は、本当に絵のように美しく、長い歴史の中で多くの芸術家たちが描き、造形して来た「キリストの物語」を、映画というジャンルに於いて描き尽くそう、これを歴史に残そう、という監督の意図、または志(こころざし)が、画面の隅々にまで感じられます。
けっこうなオールスター大作であるにも関わらず、殆どそう見えないのも意図的なことでしょう。
有名な話ですが、ローマの百人隊長役ジョン・ウェインなどは、あれだけの大スターが台詞は一言だけ。アップがないどころか、顔さえはっきりと映らず、言われなければ誰にもそれが彼だとは判らないような使われ方です。
登場人物は、バプテスマのヨハネ(チャールトン・ヘストン)やイスカリオテのユダ(デイヴィッド・マッカラム)、ヘロデ王(ホセ・フェラー)、総督ポンテオ・ピラト(テリー・サバラス)等少数の例外を除き、敢えて「キャラを立てない」描き方をされていると感じました。力点が置かれているのは、寧ろ民衆(または群衆)であり、名のある登場人物たちも、彼らの、また彼らの作る「歴史」の、そして全てを包含する「風景」の一部として表現されています。
そして、その中に佇むキリスト=イエス。
「人の子」にして神の子。この世界の全てを背負い、かつ何処にも属さない存在。
或る意味象徴として描かれる「救世主」を、人間らしくはあっても人間臭くはならず、その聖性、穏やかさ、慈しみ、激情、悲しみの全てを体現し得たマックス・フォン=シドーは、やはり得難い人だったと思います。
その後ハリウッドでは、知性と品格のある悪役などで登場することが多かったですが、キリストを演じ、悪魔祓い師(エクソシスト)を演じ、悪魔そのものまで演じたことがある(ニードフル・シングス)のは、この人くらいなのでは?
人間のいる世界とそうでない世界の境に位置することが、何ら不自然に感じられない──そういう希有の名優です。
ところで、キリストの生涯を扱った映画で最もドラマチックなのは、実は自身は顔も出さず(昔はそういう描き方が一般的だった)、ひとことの台詞もない『ベン・ハー』(1959)なのではないかと思います。
ハリウッド製史劇や超大作は数あれど、あれほど格調高いオープニングは他に類を見ません。
決して戦車競争だけが売り物の映画ではなく、ストーリイと登場人物の感情に即したカット割りの素晴らしさを観てほしいと思います。あの映画が数ある大作の中で図抜けた「名作」と呼ばれるのは、スペクタクルなシーンの為だけではないんですよ。