今回の散歩のテーマは、昭和初期まで川越伊佐沼の水源だった「旧赤間川」です。
普通は2~3回で紹介できる川なのですが、5回目でまだ半分も行けません。
そこは「探求散歩」ですので、焦らずジックリやっていきます。
最近、天候のせいもあり花写真が撮れないので、こちらに専念します。
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前回は「伊佐沼堰」まで遡ることが出来ました。
「日本の近代土木遺産」ですから、前半のヤマ場になるはずなのですが・・・。
概要については、いまさら説明など入れる必要もなく・・・。
堰板が入っていたという、安直なネタを膨らませてしまいました。
今回も無理矢理ネタに仕立て上げた感じがしますが、どうぞお付き合いください。
撮影地点は以下のようになります。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap
出発点は伊佐沼堰の先からです。
上流へ向かってしばらく歩いて行くと、3つ目の橋に出会いました。
「第二合併橋」昭和丗二年五月竣功、だそうです(❶)。
フレアーな橋ですね。なんでこんな形にしたのだろう?

「第2合併橋」の架橋前後の地形を見てみます。
画像の濃淡の差から想像するしかないですが、土手沿いに農道があるように見えます。
上尾県道は道路を拡張したのか?橋の辺りは右折レーンを設けられる位の広さです。
それに比べ、大字伊佐沼からの新道は、橋の半分くらいの幅で、車が通れるか分からないくらいの畦道。
右左折が楽そうな道ですが、当時は車が進んで行けるか分からないくらいの狭さです。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html
「第二合併橋」のこの形状は何のためか?本当のところは不明ですが、考えてみるのが「探求散歩」。
➊将来、畦道を広げて大きな道にするつもりで、右左折が円滑になるように欄干をカーブさせた。
➋橋直前の空き地に農業用の施設を作るつもりで、農耕車の駐車や出入りを考えて間口を広くとった。
➌農耕馬や一輪車を引いて通りやすいように、欄干をカーブさせて畦道と農道に緩やかに接続した。
こんなところくらいしか思いつきません。でも「第二合併橋」は中途半端な広さで、車2台がすれ違えるかどうか?
「第二合併橋」の欄干は、川に沿って歩いて行けよ!と言いたげなカーブを描きます(❷)。
壁のようなヨシ群落と柵で入れないようになっていますが、先人はどんな意図でこの橋を作ったのでしょうか?

「第二合併橋」があるのだから、第一もきっとあるのだろうと思います。
そう思って、橋を少し遡ると予想通り、上流に「合併橋」があります(❸)。
車の往来が激しいのか?県道側の銘板は欠損しておりました。

「合併橋」に竣工日の刻んである銘板はありませんが、「第二合併橋」とほぼ同時期と思われます。
何故なら昭和31年(1956年)6月26日、第3回定例市議会にて議案となっております。
「芳野支所前より上尾県道に通ずる道路並びに橋梁新設方請願の件」(採択)。
また「川越市合併史稿」では、合併前の芳野村要望書中に記載があります。
一、本村役場前道路(上尾県道より役場へ入る所)の改良(新設)を早急に実現せられたい。
少し粗いですが、この頃に米軍が撮影した航空写真です。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html
芳野支所(現:芳野市民センター)方面から川越へは曲り辛く、見通しも悪そう。
昭和31年春「合併橋」は未着工ですが、道らしいものが薄っすらと見えます。
道の造成なのか?不便だから皆ここを歩いて獣道になっているのか?審議前だから後者かな。
対して「第二合併橋」は道のカタチはあるし、建設中の橋らしきものも認められます。
もしかしたら「第二合併橋」のほうが、先に完成した可能性もあります。
「第二合併橋」は、特に市のほうに請願されたという記載はありませんでした。
ちょうど「合併橋」と同時期に出来たので、「第二」という名前が付いたのかも。

いまひとつ気になるのが「合併橋」のガードレール(❹)。昔は無かったのではないでしょうか?
1970年代の航空写真(カラー)は、かなり細かく見えるのですが、白いガードレールの形跡が見えません。
また、「合併橋」の銘板の付き方、竣工年板が無い点、長手方向の不自然なえぐれ、モルタルの継ぎ目等々。
オリジナルは「第二合併橋」のようなカタチで、改修されてガードレールが付いたのでは?

「第二合併橋」の出来を見ると、「合併橋」も最初は格好良かったのではないでしょうか?
欄干部を削り落としている感じなので、「第二合併橋」のパーツを合成してみました(❸と同位置)。

今回の撮影地点は以下の通りです。芳野支所(市民センター)や赤間川橋の位置も下の記事に関連します。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap
さて、ここからが今回の本題です。
「合併橋」「第二合併橋」の命名となった「合併」とこの場所の因縁について考えてみたいと思います。
文章ばかりになりますので、背景に興味のない方は飛ばして結構です。
昭和30年(1955年)4月1日、川越市は隣接9村と合併しています。
山田、芳野、名細、霞が関、福原、高階、古谷、南古谷、大東の各村です。
「合併橋」のある大字北田島は、芳野村に属しておりました。
合併後まもなく完成していること、市議会で採択された事案であることから、合併したことを記念して名付けたのでしょう。
「第二合併橋」の凝った作りを見ると、合併を祝う気持ちが表れている気がします(❺)。

「川越市合併史稿」では、芳野村は川越市との合併について、一貫して推進派だったという感じがします。
昭和初期、紀元2600年記念事業(1940年)や戦時体制下で、市町村合併が行われたそうです。
当時の川越市も隣村へ大規模な合併を呼び掛けていましたが、けっきょく実現しなかったとのこと。
しかし、このとき北部稲作地域に属する芳野村は、常に合併賛成の立場をとっていたそうです。
戦後、昭和28年(1953年)10月1日に「町村合併促進法」が制定され、昭和30年に川越市との合併を果たしました。
記念に新しく建設した橋を「合併橋」と名付けて(❻)、めでたしめでたし・・・。

というのは後年の話だそうで・・・。
以下は、明治33年(1900年)11月27日、芳野村会が埼玉県知事に出した建議書の抜粋です。
「当芳野村に住する戸主四百六名は本村を廃し川越町へ合併は利害の何たるを問わず徹頭徹尾不同意を表し」
「当芳野村と川越町とは、全然地勢上隔離し剰え人情風俗を異にし、仮市政を布くも市街地となすの目的なく、之より数百年の後と雖も商戸軒を並ぶ見込みなき」
「川越町市制に合意するは害あって亳も利なきものと断言するものなり」
「本村は従来の区域を存して之を変更せず、専ら一村を永久維持し人民の安寧幸福を謀らんとする所以なり」
・・・随分キツイ言葉が並びます。でも「百年の後と雖も商戸軒を並ぶ見込みなき」はその通りですね。

「川越市合併史稿」に記述はないですが、「芳野村郷土誌稿」には市制問題で揉めたことが書いてあります。
明治期の芳野村の人たちは、川越町と合併して市制になることを断固反対したようです。
「合併橋」どころではなかったようですね。

遡ること、明治22年(1889年)4月に市制・町村制が施行され、全国で大合併が行われました。
これは71,314あった町村が、15,820まで減ずるほど大規模なモノでした。
市町村の合併は、現代でも複雑な利害が絡み、揉めることがありますが、当時もいろいろあったようです。
でも、6ヶ村を統合して出来た芳野村は、異議なく進んだそうです(揉めそうな村の名前は、新たに決めた)。
この時、川越町も6つの村と一部地域を加えて、大きくなりましたが、小仙波村の合併で少し揉めています。

明治期、埼玉県には市制を敷いているところは、まだありませんでした。
故に明治の大合併の頃から、市制施行は川越町の指導的人士の願望だったそうです。
そのため町政の充実を図り、「東洋一の町役場」を建設(1912年)して市制施行に備えていました。
大正9年(1920年)末、遂に機運が高まり、大正11年(1922年)12月1日、仙波村を編入し市制施行に至ります。
「川越市合併史稿」の記載はこんな感じ。でも、この本で触れられていない合併騒動があったようです。

念願の市制施行から遡ること22年、明治43年(1900年)の芳野村を巻き込んだ騒動です。
この事件は、同じく川越市が発行した「芳野村郷土誌稿」にしか記述はありません。
合併史の黒歴史なのか?川越町としては関与していないので、記載しないのか分かりません。
顛末は以下の通りですが、芳野村からの視点ですので、川越側がボロクソに書いてあります。

川越町有志が、実力もないのに、虚栄と自尊心から市制を施行しようと策謀したそうです。
すなわち芳野村を合併し、その犠牲を踏み台にして市制の実現を目論んだようです
そんな話に反対意見が出るのは当然なので、悪辣にも村会議員4名を抱き込んで、村会を操ろうと企みました。
芳野村民は、この話を知ると激昂し、断固反対の決議のもとに結束して迎え撃つ手筈を整えました。

9月に川越町に籠絡された村会議員から、合併の是非を問う村会の開催申請があると、大荒れになったようです。
村会開催日の9月15日には、怒った村の群衆が、議場である村役場へ押しかけてきました。
川越に通ずる道の上も、裏切り者の村会議員が来たら「目にモノ見せてやろう」と村民が待ち伏せていました。
「合併橋」が無かった頃は、村役場(芳野支所)へ行くのに、ひとつ下流の橋を渡る必要がありました。
群衆はきっとこの辺で、手ぐすね引いて待ち構えていたのでしょう(❼)。

不穏な空気を察して、川越警察署からは署長以下全員が出動し、警戒に当たったそうです。
こんな状況の中、川越町傀儡の村会議員は、議場へ赴くのを諦めて引き返し、流会となったそうです。
警察署を介して籠絡議員から、合併の提議取下を聞いた村民は、諸手を挙げて万歳三唱したということです。

その後も川越町有志は、虎視眈々と合併の機をうかがっていたそうです。
芳野村民も警戒を怠らず、11月末に村会は、上記のキツイ言葉の並んだ建議書を埼玉県知事に提出します。
これに至って、川越町有志も合併は無理だと諦め、芳野村に平和が戻ってきたとのこと。
この出来事から20年を経て、市制施行に向けて環境を整えてきた川越町は、仙波村と県下初の市制となります。
社会、経済的なつながりが深い両者が、町、村ぐるみで市制施行を推進したので、反対は僅かだったようです。
この反対は仙波村の岸町の区長が、村会議員選挙に落選した腹いせにやくざを雇い、近隣を脅迫して合併反対に調印させた工作。
この件も内務省や県の実情調査が入って、全てばれてしまったそうです。

さらに33年後、市制騒動から55年後に因縁のある芳野村とも合併します。
芳野村は昭和14年(1939年)、昭和18年(1943年)、合併案が出た時も賛成の立場でした。
さらに昭和30年の合併には、芳野村長が中部行政支会長として関係各村に合併推進を図ったそうです

昭和期には、県道など交通の利便の良く、生産消費面の取引が多い川越市との合併は、望ましい形だったのでしょう。
でも、機は熟していないですが、明治後期でも県道は開通しており、状況は似ている気もします。
それなのに何故、市制問題の騒動は起きたのでしょうか?合併時とは世代が違うというのもあります。
でも一番の問題は、市制施行を得るためだけに、近隣屈指の豊かな芳野村を利用したことでしょう。
村会議員を酒食その他で抱き込んで、村会を牛耳り、一気に賛成決議を得ようすれば、誰でも怒ると思います。
どんな事柄も不正を用いたり、やり方を間違えると、こじれて手が付けられなくなるのが分かります。
昭和の合併と「合併橋」(❽)、正反対の明治の市制問題、これらを調べてつくづく思った次第です。

今回は文章ばかり長々となってしまいました。
橋の名前の裏に、合併絡みでこんな騒動が起きたことを、是非書きたかったので。
今回は350mほど進めましたが、橋をひとつ飛ばしてしまいました。
次回もどうぞよろしくお願いいたします。