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小さな花の輝く世界

小さな植物や花の知られざる輝きをご紹介いたします。くわゐ(匙太sagittaria)です。お間違えなきよう

赤間川散歩❽失われた川の記憶

2020-08-05 00:05:55 | 探求散歩

「探求散歩シリーズ」埼玉県川越市の「旧赤間川」に沿って、いろいろ調べながら歩いています。

この川、昔は伊佐沼の源流でしたが、八十余年の間に大きく変わっているようです。

 

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今は、川越市氷川町の田園地帯を流れるあたりにいます。

田圃の中の「旧赤間川」沿いは、ただの畦道です。特に紹介するようなモノもありません(❶)。

 

手前に見える小さな水路が「旧赤間川」に相当します(❷)。

川というには本当に小さいですね。河川として扱われているのでしょうか?

 

今回の撮影地点です。❸❹は下に掲載された航空写真の範囲を示しています

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

今回から、埋め立てられて無くなってしまった川筋について書きます。

最初は航空写真を見ていて、下の画像のように田圃に不自然な線があるのに気付き、興味を持ちました。

このラインは、かつて川だったらしいと知り、調べてみましたが、ネットでは航空写真のほか記述無し。

図書館に行ってもそれほど資料はありませんが、自分と同じように「旧赤間川」が気になった方のために、分かったことを記載します。

航空写真が示す範囲は、上に掲載した地図上のの範囲となります。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

この河道?ラインですが、1980年代まで確認できました。範囲は地図のの枠内です。

失われた川が「私のことを覚えていて」と、昔の記憶を田圃に残していったかの如く。

最近の画像はデジタル写真ですが、ラインは見られません。農耕車の進歩で平坦に耕されたためでしょうか?

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

地上から見ると、川の面影なんて全くございません(❺)。

埋立前の川は、こんな方向に流れていたようです。

 

どこから手を付けたらいいのか、悩みました。

まずは、耕地整理前の旧赤間川の航空写真です。気になった場所をピックアップしました。カッコ内は出典です。

詳細は次回以降にお話ししたいと思っております。

(1)北田島堰というのがあったらしい(荒川右岸土地改良区誌)

(2)北田島堰のところで橋になっているようだが、これが「青橋」に相当するのか?(赤間川物語)

(3)北田島堰から配水される、今は無き北田島用水(荒川右岸土地改良区誌)

(4)曲目(マゴメ)の位置は、どの辺りなのか?(赤間川物語)

(5)曲目(マゴメ)の一本橋の位置はどこか?(赤間川物語)

(6)捨て場のあった河川敷はどのあたりか?(赤間川物語)

(7)貮丁町(貮町畦、二丁町)と貮丁町用水の位置(赤間川物語)

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

画像加工ソフトのフォトショップを使用して、古い川を復元するため、特殊な地図を作製しました。

古い写真の上へ、現代の道路、建物、水路を重ねています。

貮丁町は、御成町に統合され、寺井溝町は氷川町と名前を変えています。

花の画像では無いですが、細かいので大きいサイズの画像で表示します。

タイルと航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

季節は移り変わり「旧赤間川」沿いの雑草は、シロツメクサが多くなりました。

 

それでは次回より、失われた川のトピックをお話ししてまいります。

埋められた「旧赤間川」河道は結構広いようなので、伊佐沼代用水路の画像と合成しようか?なんて悩んでおります。

次回もどうぞよろしくお願いいたします。


赤間川散歩❼青橋ってどこ?

2020-08-02 00:05:55 | 探求散歩

いろいろ調べながら歩く「探求散歩」です。

今は埼玉県川越市の「旧赤間川」沿いを歩いています。

この川はもともと伊佐沼の源流でしたが、現在は繋がっていません。

赤間川散歩❷縁はいつ切れたの? - 小さな花の輝く世界

 

前回の散歩の途中、川が途切れてしまいましたが、何とか上流が分かりました。

しかし、長雨で行く先の畦道が水浸しなので、散歩は梅雨明けまで待つ事とします。

 

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今回の話題ですが、実は「合併橋」と「第二合併橋」の間に、もうひとつ橋があります。

まだ、こちらを紹介していなかったので、今回は「第二合併橋」の先からスタートです。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

この辺りは左右とも護岸です(❶)。川から水をくみ上げるのか?ポンプが見えます。

この先で川が右カーブしているようですね。

 

「旧赤間川」は、県道を横切って流れて来ます(❷)。

90°近く方向が変わりますが、カーブになっているので自然の河道のようです。

 

こちらが下流から4番目の橋、県道51号川越上尾線に架かる「赤間川橋」です(❸)。

チョット違和感。川の名前を付ける橋とは珍しくないですか?

近くに「九十川」がありますが、「九十橋」はあっても「九十川橋」は無いです。

 

竣工したのはいつでしょうか?側面に銘板がありました(❹)。

昭和49年(1974年)3月です。それ以前は先代の橋だったのでしょう。

 

以前もご紹介しましたが、昭和49年(1974年)頃は、県道の改修があった時期ですね。

赤間川散歩❸昔は県道も川沿いに - 小さな花の輝く世界

 

先代の「赤間川橋」はどんな感じでしょうか?航空写真で比較してみましょう。

県道の拡張工事前、先代の「赤間川橋」は現在より5mくらい北にありますね。

緩いカーブですが、民家の陰に入って見通しが悪そうです。

県道の拡張工事の際、道路を直線にしたのが分かります。

旧道は側道となり、上尾方面との往来は、この側道を使う人が多いようです。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

今回の撮影は以下の地点になります。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

側道が昔の県道の名残ですね。先代の「赤間川橋」も今より北側にあったみたい(❺)。

 

上尾側から見てみます。側道(旧県道)に入ると建物の陰に入って見通しが悪そう(❻)。

 

上流の「合併橋」は50m先、緩やかにカーブしていきます。

先代の「赤間川橋」は、こんな方向に架かっていたことでしょう(❼)。

 

前回、図書館で偶然「赤間川物語」という小さな本を見つけたことを書きました。

平成11年(1999年)発行で、著者は当時、齢93歳の嶋田勝郎 翁ですが、すでに故人のようです。

明治大正期の赤間川沿いの街並み、橋、寺などについて、想い出を交えて書いてあり、他の本には無い興味深いお話があります。

この中に手書きの「旧赤間川沿線社寺佛閣案内圖」があるのですが、チョット気になることがありました。

ちょうど田谷堰から伊佐沼までの描写が、下図のような感じでした。

 

この北田島の「青橋」とはどこなのでしょうか?

通り過ぎた名前のない橋?それとも今は無くなった橋?

航空撮影のある終戦直後でも、赤間川に架かる橋は少ないです。

芳野村の大字北田島だと下のような範囲ですので、該当する橋は決まってきます。

「今昔マップ on the web」より加工 今昔マップ on the web

 

「赤間川橋」なんて、後で付けたような名前みたいな気がしました。

そこで「赤間川物語」に載っている、北田島の「青橋」は先代の「赤間川橋」だと推測しました。

戦後間もない写真でも、橋の数が少なく、この地内では「赤間川橋」しかなさそうです(➑)。

しかし、「芳野村郷土誌稿」の巻頭にある「芳野村概勸圖」を見ると「赤間川橋」との記載です。

「芳野村概勸圖」は青年学校にある図を昭和22年(1947年)に書き写したものらしいです。

そうすると、「青橋」は明治大正期の名前だったのか?ほかに橋があるのか?謎ですね。

 

さらに遡ると「合併橋」のすぐそばに記念碑がありました(❾)。

芳野耕地整理組合の完成記念碑のようです。昭和28年(1953年)3月の建立です。

 

碑文には、川越市の一部(馬喰町、荒田町、柳橋町)の名前もあり、上流の「旧赤間川」も改修されたのかと思いました。

でも、明治期の「川越地誌」の記述から推測すると、馬喰畦や柳橋畦は河川改修された場所ではなさそう。

嶋田氏の「赤間川物語」でも、上流域は川越北部土地改良区の区域で昭和28、29年で水田になったと書いてありました。

下図は「赤間川物語」に添付していた「川越町他五ヶ村測量縮図(明治10年高柳家所蔵)」地名を現代地図へラフに書いてみました。

「川越地誌」では畦(「まち」と読むようです)と書いてありました。耕地字の事らしいです。

馬喰畦、柳橋畦はもっと東にあるみたい。こうして図にしてみると「田谷堰」各用水の配水範囲も一目瞭然ですね。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

国土地理院所蔵の航空写真は昭和22年(1947年)の画像以降、昭和31年(1956年)まで存在しません。

昭和22年では、古い川筋が確認できますが、昭和31年には埋め立てられて水田になっています。

現代の地図上に耕地整理前の「旧赤間川」の河道を重ねてみましたら、こんな感じです。

撮影方向が違うので、起点終点を合わせるため旧河道を少々加工。若干の誤差はあると思います。

直角に曲がった2本の直線ラインが新しい川で、耕地沿いにキレイに走っていますね。

国道254号の先と「合併橋」の先は、土手が残っています。この間を改修したようですね。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

「赤間川橋」を飛ばしたのは、「合併橋」先で「旧赤間川」を見失う出来事を先に描きたかったからです。

話の流れとしては、耕地整理による河川改修、「赤間川物語」の記述など、後で紹介する方が良い感じだったので。

 

次回から失われた川の軌跡を辿っていきたいと思います。

ここから最終回までが、私がこのシリーズを始めた核心部分です。しかし、何せ存在しないものなので・・・。

想像の産物、正しいかどうかは定かでない話と思ってください。

でも、こんな話題は今まで誰も書かなかったので、それはそれで楽しんで作ってみます。

梅雨は開けましたので、取材を再開しますが、少々お時間をください。

次回もどうぞよろしくお願いいたします。


赤間川散歩❻川が消えた

2020-07-30 00:55:55 | 探求散歩

いろいろ調べながら歩く「探求散歩」。

かつて伊佐沼の水源であった「旧赤間川」を歩いています。

 

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ゴールの「田谷堰」まで、やっと半分ほど来たでしょうか?

この先は、田園地帯に入るので単調となります。

進む速度が上がって、後わずかで終了となるでしょうか?

 

今回の撮影地点は以下の通りです。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

今回の出発点は、「合併橋」の先です(❶)。

「赤間川橋」を飛ばしてしまいましたが、細かいことは気にしない・・・。

 

途中に橋がありましたが、個人宅の通行専用橋のようです(❷)。1995~98年くらいの建設か?

 

さらに歩いて行くと、川の方向に民家が建っています(❸)。

水路らしき水面が見えません。ここで川が途切れました。どうしたものか?

 

よく見ると樋のようになっています(❹)。暗渠になっているのでしょうか?

しばし、周囲を確認します。画像は田植え前の4月末です。

 

今回の撮影地点は以下の通りです。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

道を挟んで水路になっているようです(❺)。

フタがしてありますが、どうやらここと繋がっているようですね。

 

上流とおぼしき方向へ歩いて行きます(❻)。5月末の撮影。

農業用水がたくさんあるけれど、どれが「旧赤間川」なのでしょうか?

 

スマホで地図を確認します。

どうやら、この水路が「旧赤間川」に相当するようです(❼)。

舗装されていない農道沿いですね。

この日は雨上がりなので、この先へ行くのを中止しました。

 

こちらは7月の状況(❽)。草刈りがあったばかりです。

どちらにせよ、雨で水浸しです。梅雨が明けるまで、しばらく待とうと思います。

 

航空写真で見てみるとこんな感じです。

水路にフタが無いと分かりやすいので、画像は昭和49年(1974年)です。

住宅地になったのとは関係なく、「合併橋」の上流で水路は直角に曲がっていました。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

田圃に沿ったこの水路は、後から人工的に掘られたモノみたいですね。

今まで歩いて来た河道と明らかに雰囲気が違います。

この直線の水路をたどっても、あまり面白くなさそう。

実際のところ、何の情報も持たずに5月初旬に歩いてみました。

コンクリート水路では無かったですが、土管が多くて橋もない単調な水路でした。

川越バイパス(国道254号線)に出るまで、花くらいしか撮るものが無かったです。

 

ほぼ1kmほどの距離ですが、何も話題がないので、飛ばしてしまおうと考えていました。

その矢先、図書館で「赤間川物語(閲覧のみ可)」を偶然見つけました。

この本に「田谷堰」から下流についての記述もあり、こちらを参考に歩きたいと思います。

次回もどうぞよろしくお願いいたします。


赤間川散歩❺合併橋と市制問題

2020-07-27 00:55:55 | 探求散歩

今回の散歩のテーマは、昭和初期まで川越伊佐沼の水源だった「旧赤間川」です。

普通は2~3回で紹介できる川なのですが、5回目でまだ半分も行けません。

そこは「探求散歩」ですので、焦らずジックリやっていきます。

最近、天候のせいもあり花写真が撮れないので、こちらに専念します。

 

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前回は「伊佐沼堰」まで遡ることが出来ました。

「日本の近代土木遺産」ですから、前半のヤマ場になるはずなのですが・・・。

概要については、いまさら説明など入れる必要もなく・・・。

堰板が入っていたという、安直なネタを膨らませてしまいました。

今回も無理矢理ネタに仕立て上げた感じがしますが、どうぞお付き合いください。

 

撮影地点は以下のようになります。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

出発点は伊佐沼堰の先からです。

上流へ向かってしばらく歩いて行くと、3つ目の橋に出会いました。

「第二合併橋」昭和丗二年五月竣功、だそうです(❶)。

フレアーな橋ですね。なんでこんな形にしたのだろう?

 

「第2合併橋」の架橋前後の地形を見てみます。

画像の濃淡の差から想像するしかないですが、土手沿いに農道があるように見えます。

上尾県道は道路を拡張したのか?橋の辺りは右折レーンを設けられる位の広さです。

それに比べ、大字伊佐沼からの新道は、橋の半分くらいの幅で、車が通れるか分からないくらいの畦道。

右左折が楽そうな道ですが、当時は車が進んで行けるか分からないくらいの狭さです。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

「第二合併橋」のこの形状は何のためか?本当のところは不明ですが、考えてみるのが「探求散歩」。

➊将来、畦道を広げて大きな道にするつもりで、右左折が円滑になるように欄干をカーブさせた。

➋橋直前の空き地に農業用の施設を作るつもりで、農耕車の駐車や出入りを考えて間口を広くとった。

➌農耕馬や一輪車を引いて通りやすいように、欄干をカーブさせて畦道と農道に緩やかに接続した。

こんなところくらいしか思いつきません。でも「第二合併橋」は中途半端な広さで、車2台がすれ違えるかどうか?

 

「第二合併橋」の欄干は、川に沿って歩いて行けよ!と言いたげなカーブを描きます(❷)。

壁のようなヨシ群落と柵で入れないようになっていますが、先人はどんな意図でこの橋を作ったのでしょうか?

 

「第二合併橋」があるのだから、第一もきっとあるのだろうと思います。

そう思って、橋を少し遡ると予想通り、上流に「合併橋」があります(❸)。

車の往来が激しいのか?県道側の銘板は欠損しておりました。

 

「合併橋」に竣工日の刻んである銘板はありませんが、「第二合併橋」とほぼ同時期と思われます。

何故なら昭和31年(1956年)6月26日、第3回定例市議会にて議案となっております。

「芳野支所前より上尾県道に通ずる道路並びに橋梁新設方請願の件」(採択)。

また「川越市合併史稿」では、合併前の芳野村要望書中に記載があります。

一、本村役場前道路(上尾県道より役場へ入る所)の改良(新設)を早急に実現せられたい。

少し粗いですが、この頃に米軍が撮影した航空写真です。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

芳野支所(現:芳野市民センター)方面から川越へは曲り辛く、見通しも悪そう。

昭和31年春「合併橋」は未着工ですが、道らしいものが薄っすらと見えます。

道の造成なのか?不便だから皆ここを歩いて獣道になっているのか?審議前だから後者かな。

対して「第二合併橋」は道のカタチはあるし、建設中の橋らしきものも認められます。

もしかしたら「第二合併橋」のほうが、先に完成した可能性もあります。

「第二合併橋」は、特に市のほうに請願されたという記載はありませんでした。

ちょうど「合併橋」と同時期に出来たので、「第二」という名前が付いたのかも。

 

いまひとつ気になるのが「合併橋」のガードレール(❹)。昔は無かったのではないでしょうか?

1970年代の航空写真(カラー)は、かなり細かく見えるのですが、白いガードレールの形跡が見えません。

また、「合併橋」の銘板の付き方、竣工年板が無い点、長手方向の不自然なえぐれ、モルタルの継ぎ目等々。

オリジナルは「第二合併橋」のようなカタチで、改修されてガードレールが付いたのでは?

 

「第二合併橋」の出来を見ると、「合併橋」も最初は格好良かったのではないでしょうか?

欄干部を削り落としている感じなので、「第二合併橋」のパーツを合成してみました(❸と同位置)。

 

今回の撮影地点は以下の通りです。芳野支所(市民センター)や赤間川橋の位置も下の記事に関連します。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

さて、ここからが今回の本題です。

「合併橋」「第二合併橋」の命名となった「合併」とこの場所の因縁について考えてみたいと思います。

文章ばかりになりますので、背景に興味のない方は飛ばして結構です。

 

昭和30年(1955年)4月1日、川越市は隣接9村と合併しています。

山田、芳野、名細、霞が関、福原、高階、古谷、南古谷、大東の各村です。

「合併橋」のある大字北田島は、芳野村に属しておりました。

合併後まもなく完成していること、市議会で採択された事案であることから、合併したことを記念して名付けたのでしょう。

「第二合併橋」の凝った作りを見ると、合併を祝う気持ちが表れている気がします(❺)。

 

「川越市合併史稿」では、芳野村は川越市との合併について、一貫して推進派だったという感じがします。

昭和初期、紀元2600年記念事業(1940年)や戦時体制下で、市町村合併が行われたそうです。

当時の川越市も隣村へ大規模な合併を呼び掛けていましたが、けっきょく実現しなかったとのこと。

しかし、このとき北部稲作地域に属する芳野村は、常に合併賛成の立場をとっていたそうです。

 

戦後、昭和28年(1953年)10月1日に「町村合併促進法」が制定され、昭和30年に川越市との合併を果たしました。

記念に新しく建設した橋を「合併橋」と名付けて(❻)、めでたしめでたし・・・。

 

というのは後年の話だそうで・・・。

以下は、明治33年(1900年)11月27日、芳野村会が埼玉県知事に出した建議書の抜粋です。

「当芳野村に住する戸主四百六名は本村を廃し川越町へ合併は利害の何たるを問わず徹頭徹尾不同意を表し」

「当芳野村と川越町とは、全然地勢上隔離し剰え人情風俗を異にし、仮市政を布くも市街地となすの目的なく、之より数百年の後と雖も商戸軒を並ぶ見込みなき」

「川越町市制に合意するは害あって亳も利なきものと断言するものなり」

「本村は従来の区域を存して之を変更せず、専ら一村を永久維持し人民の安寧幸福を謀らんとする所以なり」

・・・随分キツイ言葉が並びます。でも「百年の後と雖も商戸軒を並ぶ見込みなき」はその通りですね。

「川越市合併史稿」に記述はないですが、「芳野村郷土誌稿」には市制問題で揉めたことが書いてあります。

明治期の芳野村の人たちは、川越町と合併して市制になることを断固反対したようです。

「合併橋」どころではなかったようですね。

遡ること、明治22年(1889年)4月に市制・町村制が施行され、全国で大合併が行われました。

これは71,314あった町村が、15,820まで減ずるほど大規模なモノでした。

市町村の合併は、現代でも複雑な利害が絡み、揉めることがありますが、当時もいろいろあったようです。

でも、6ヶ村を統合して出来た芳野村は、異議なく進んだそうです(揉めそうな村の名前は、新たに決めた)。

この時、川越町も6つの村と一部地域を加えて、大きくなりましたが、小仙波村の合併で少し揉めています。

 

明治期、埼玉県には市制を敷いているところは、まだありませんでした。

故に明治の大合併の頃から、市制施行は川越町の指導的人士の願望だったそうです。

そのため町政の充実を図り、「東洋一の町役場」を建設(1912年)して市制施行に備えていました。

大正9年(1920年)末、遂に機運が高まり、大正11年(1922年)12月1日、仙波村を編入し市制施行に至ります。

「川越市合併史稿」の記載はこんな感じ。でも、この本で触れられていない合併騒動があったようです。

 

念願の市制施行から遡ること22年、明治43年(1900年)の芳野村を巻き込んだ騒動です。

この事件は、同じく川越市が発行した「芳野村郷土誌稿」にしか記述はありません。

合併史の黒歴史なのか?川越町としては関与していないので、記載しないのか分かりません。

顛末は以下の通りですが、芳野村からの視点ですので、川越側がボロクソに書いてあります。

川越町有志が、実力もないのに、虚栄と自尊心から市制を施行しようと策謀したそうです。

すなわち芳野村を合併し、その犠牲を踏み台にして市制の実現を目論んだようです

そんな話に反対意見が出るのは当然なので、悪辣にも村会議員4名を抱き込んで、村会を操ろうと企みました。

芳野村民は、この話を知ると激昂し、断固反対の決議のもとに結束して迎え撃つ手筈を整えました。

9月に川越町に籠絡された村会議員から、合併の是非を問う村会の開催申請があると、大荒れになったようです。

村会開催日の9月15日には、怒った村の群衆が、議場である村役場へ押しかけてきました。

川越に通ずる道の上も、裏切り者の村会議員が来たら「目にモノ見せてやろう」と村民が待ち伏せていました。

 

「合併橋」が無かった頃は、村役場(芳野支所)へ行くのに、ひとつ下流の橋を渡る必要がありました。

群衆はきっとこの辺で、手ぐすね引いて待ち構えていたのでしょう(❼)。

 

不穏な空気を察して、川越警察署からは署長以下全員が出動し、警戒に当たったそうです。

こんな状況の中、川越町傀儡の村会議員は、議場へ赴くのを諦めて引き返し、流会となったそうです。

警察署を介して籠絡議員から、合併の提議取下を聞いた村民は、諸手を挙げて万歳三唱したということです。

その後も川越町有志は、虎視眈々と合併の機をうかがっていたそうです。

芳野村民も警戒を怠らず、11月末に村会は、上記のキツイ言葉の並んだ建議書を埼玉県知事に提出します。

これに至って、川越町有志も合併は無理だと諦め、芳野村に平和が戻ってきたとのこと。

 

この出来事から20年を経て、市制施行に向けて環境を整えてきた川越町は、仙波村と県下初の市制となります。

社会、経済的なつながりが深い両者が、町、村ぐるみで市制施行を推進したので、反対は僅かだったようです。

この反対は仙波村の岸町の区長が、村会議員選挙に落選した腹いせにやくざを雇い、近隣を脅迫して合併反対に調印させた工作。

この件も内務省や県の実情調査が入って、全てばれてしまったそうです。

 

さらに33年後、市制騒動から55年後に因縁のある芳野村とも合併します。

芳野村は昭和14年(1939年)、昭和18年(1943年)、合併案が出た時も賛成の立場でした。

さらに昭和30年の合併には、芳野村長が中部行政支会長として関係各村に合併推進を図ったそうです

 

昭和期には、県道など交通の利便の良く、生産消費面の取引が多い川越市との合併は、望ましい形だったのでしょう。

でも、機は熟していないですが、明治後期でも県道は開通しており、状況は似ている気もします。

それなのに何故、市制問題の騒動は起きたのでしょうか?合併時とは世代が違うというのもあります。

でも一番の問題は、市制施行を得るためだけに、近隣屈指の豊かな芳野村を利用したことでしょう。

村会議員を酒食その他で抱き込んで、村会を牛耳り、一気に賛成決議を得ようすれば、誰でも怒ると思います。

どんな事柄も不正を用いたり、やり方を間違えると、こじれて手が付けられなくなるのが分かります。

 

昭和の合併と「合併橋」(❽)、正反対の明治の市制問題、これらを調べてつくづく思った次第です。

今回は文章ばかり長々となってしまいました。

橋の名前の裏に、合併絡みでこんな騒動が起きたことを、是非書きたかったので。

今回は350mほど進めましたが、橋をひとつ飛ばしてしまいました。

次回もどうぞよろしくお願いいたします。


赤間川散歩❹伊佐沼堰は死なず

2020-07-24 00:05:55 | 探求散歩

今回の散歩のテーマは、昭和初期まで川越伊佐沼の水源だった「旧赤間川」です。

紆余曲折あって、3回目から「旧赤間川」をたどり始めました。

赤間川散歩❶いきなり頓挫 - 小さな花の輝く世界

赤間川散歩❷縁はいつ切れたの? - 小さな花の輝く世界

赤間川散歩❸昔は県道も川沿いに - 小さな花の輝く世界

 

前回はスタート地点の四ツ谷橋のところから、やっと100mほど遡れました。

今回はどれくらい進めるでしょうか?

 

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出発地点は、県道51号川越上尾線が側道(旧道)と交わる所からです(❶)。

草刈りされてサッパリ。川幅は3~4m位あるでしょうか?けっこう広く感じました。

右端の護岸は、昭和49年(1974年)辺りの航空写真から視認できます。

橋と同じく護岸も、県道の拡張整備工事と同じ頃に建設されたのだと思います。

 

普段、草刈りが入っていないと、水路であることすら分かりませ~ん。

5月下旬は、草ボーボーでこんな感じでした(❷)。

 

今回の画像撮影地点です。「田谷堰」の画像もあり地図が広めです。

「伊佐沼堰」と「再建橋」の辺りをたくさん撮りました。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

川沿いに県道を遡っていくと、2つ目の橋「再建橋(さいけんはし)」に到着(❸)。

竣工は昭和62年(1987年)3月です。再建された橋ということでしょうか?

後記:道路台帳を探したら「第三再建橋」と載っていました。何の第3なんでしょうかね?

色褪せたのかどうか分かりませんが、モノクロみたいな「止まれ」の標識、味がありますね。

航空写真では昭和21年(1946年)時点、この場所には橋が出来ていました。

当時から、芳野村大字伊佐沼の集落と県道を繋ぐ橋のようです。

現在の橋は何代目なのでしょうか?

 

「再建橋」のむこうに何か構造物がありますよ(❹)。

あれが土木学会で、日本の近代土木遺産に選ばれた「伊佐沼堰」でしょうね。

 

と歩き始めたら、排水路らしきものが目に入りました(❺)。

この水路からは水が出てきていますよ。多分、近隣の施設の排水でしょうか?

現在の国土地理院のタイルでは、この水路の表示がありませんでした。

でも航空写真では、終戦直後からこの排水路が写っています。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

このあとの回で触れたいと思いますが、元々これは「北田島用水」の排水路(土腐落とし)みたいですよ。

「北田島用水」は無くなってしまいましたが、別の水路がここへ排水しているようです。

後記:実は「伊佐沼堰」と県道を挟んで「芳野用水」が来ています。

ストリートビューで見ると、道路沿いに暗渠となって、少し離れた「伊佐沼堰」下流の樋と繋がっているようです。

「再建橋」は当時何と呼ばれていたか、分かりませんでしたので「?」です。

後記:「第三再建橋」だから3代目?上流の「第二合併橋」と関連がある?

 

やっと「伊佐沼堰」に到着。草刈りのあと、草が少し生え始めてイイ感じに写りました(❻)。

6月中旬頃は草に隠れて何も見えなかったのに・・・。

「伊佐沼堰」、昭和6年に完成した3連アーチ形の特徴ある堰で「伊佐沼用水」へ水を送っていました。

「伊佐沼堰」の概要は、既にいろいろなサイトで紹介されているので、詳しくは書きません。

他のブログに載って無さそうな事柄をメインにしたいので、有名な「伊佐沼堰」だと逆にネタが少ないです。

!!もう使われていないとのことですが、堰板(角落とし)が入っていますよ。

 

田植え前に来たときは、板なんか入っていなかったです(❼)。

各アーチの下に文字が刻んでありますが、写真ではよく見えませんね。

 

すぐ傍には、現役とおぼしきポンプらしきモノと新しそうな配電箱。

井戸水でも汲んでいるのかな?・・・。でも、堰のところに取水口があります(❽)。

堰板を入れ、水を貯めて取水口から取っているのでは・・・。

すなわち、まだ堰としての役割を果たしているのではないでしょうか?

 

「荒川右岸土地改良区誌」によれば、「伊佐沼用水」は八反田地内に設置された堰から、38haの耕地を灌漑とあります。

「伊佐沼堰」から南側の「伊佐沼通り」辺りくらいの範囲でしょうか?

現在は「八反田」で検索しても、別物の「小仙波八反田公園」しかヒットしません。

普通の地図には、大字伊佐沼の「八反田」という地名は載っていません。

道路台帳などで調べないと、細かい地名までは分からないようです。

 

今回撮影した地点の地図になります。❶の地点から「伊佐沼通り」まで直線で約600mです。

38ha(380,000㎡)は、大体600m四方より少し大きい位の面積です。

 

ここだけでなく、川のあちこちにポンプが置いてあります(❾)。

今でも「旧赤間川」を用水のひとつとして利用している感じです。

上流の田谷用水は絶えているのに、この水はどこから来るのでしょうか?

伊佐沼代用水路、芳野用水や御成排水路の水が回ってきているのか?地下水か?

後記:東耕地には井戸ポンプみたいなのがたくさんありました。

いつか調べてみたいと思いますが、徒歩で調べるのは厳しそう。

 

「伊佐沼堰」の各アーチの中心上に鉄製の部品が付いていました(❿)。

取付方向は垂直では無く、傾きを持っていて、延長線上が堰板の真上っぽい。

吊り上げるとか、建設工程上に必要だったものなのか?堰の機能上、必要な部品なのか?

素人なので皆目見当がつかず。想像してみるに・・・。

ロープでも通していたのでしょうか?手すりが付いていた跡とか?

いろいろ思いを巡らすのも楽しいですが、穴は詰まっていました。

パイプらしきものは、裏側まで貫通しているのか?ネジは切ってあるのか?

後記:穴は貫通していましたが、ネジは切ってなかったです。

「赤間川散歩」最終回にアーチの鉄パイプについて想像してみました。

赤間川散歩🈡エピローグ - 小さな花の輝く世界

 

上流の堰や用水は、みんな無くなってしまったけれど、「伊佐沼堰」は細々と命脈を保っているようです。

注意したいのは「田谷堰」が建設されても「伊佐沼堰」の代わりにならないことです。

「田谷堰」には「田谷堰」の、「伊佐沼堰」には「伊佐沼堰」の役割があり、代わりは出来ません。

「田谷堰」を締め切ることで「田谷用水」「二丁町用水」「宮下用水」3樋管に通水します(⓫)。

確かに「田谷用水」から「旧赤間川」下流へ水を送れますが、「伊佐沼用水」へは通水できません。

※二丁町用水樋管からなんか出ています。この先の記事としたいですね(第16回で紹介します)。

赤間川散歩⓰宮下用水 - 小さな花の輝く世界

 

「新赤間川」下流の各堰と「伊佐沼用水」との関わりはどうか?

どの堰からも遠くて、伊佐沼地区へ灌漑する水路は無いようです。

「荒川右岸土地改良区誌」にも、別の用水系統に切り替わった記載はありません。

用水は既存の「旧赤間川」を使っていたようですね。

 

「旧赤間川」では「伊佐沼堰」を閉めて水を貯めることで、はじめて「伊佐沼用水」に水を導けます(⓬)。

新しく灌漑水路を引いて来たのでなければ、上流に堰が出来ても下流の取水方法は変わりません。

別な系統の「用水路」が出来たお陰で、「伊佐沼堰」がお役御免となったならば、話は通じます。

この点お間違え無きよう。

よって昭和13年(1938年)の「田谷堰」の完成のため、竣工わずか7年で廃れたと言う訳ではなさそうです。

それどころか、齢90年近い「伊佐沼堰」はいまだ健在で、水を堰き止めておりますよ。

でも、ポンプで汲み上げる分には、堰板1枚分くらいの水位で十分みたいですね。

 

画像枚数も多くなりましたので、ここで一区切りとします。

「田谷堰」は抜きにして、約500m進めました。

このシリーズは「田谷堰」を終点にしたいので、あと2キロほど歩く予定です。

これからネタが増えそうなのですが、あと何回で終わるでしょうか?

次回もどうぞよろしくお願いいたします。