あなたが好きです( I still do. )

写真付きで大好きなミュージシャンのライブや音楽を紹介するならgooブログ

五木寛之さんの📖『運命の足音』を聴きながら「目に見えない物事の重要性」を知る

2022-06-08 07:55:53 | 日記
🌕️『国連(グローバリズムを推進するための機関)と中ごく当局の癒着』が今こそ明るみに出されて、国連が質問攻めにあっている模様です。(馬渕睦夫さんのYouTubeより。)また、日本政府が国連の常任理事国になるということはどういう意味があるのか❔今まで国連には『敵国』と見なされていた日本。
🌕️民主主義につけ込んで、日本、オーストラリア、ニュージーランドなどの民主主義国を潰(つぶ)しにかかっている国(組織)がある。だから①名声②金③女性の色香に対する免疫力を培(つちか)う、養うべきだと。日本人(日本政府・日本企業・日本国民)もディープステートとはまた別な国(組織)に、国家内国家を作られぬよう心して。(馬渕睦夫・河添恵子YouTubeより。)
🌕️左翼に平和を唱(とな)えさせれば日本は弱くなる。平和を唱えながら戦争するから。反戦平和を唱えることによって内戦にもっていき、『共産主義国家(レーニン)を造る』。彼らはそれを分かってやっている。戦争させることは、その国(々)を疲弊(疲れ)させるため。(同。)
🌕️馬渕さんの2020年の予想が当たっている。

『運命の足音』抜粋、はじめ。

仮にも念仏を信じる知識人の端(はし)くれである私(五木さん)が、吉凶(きっきょう)を占う易者(えきしゃ)や、故人(すでに亡くなった人)の霊を呼ぶ巫女(みこ)になにかを頼むということはおかしなことかもしれない。信心が足りぬ、と腹を立てるかたもおられるにちがいない。親鸞聖人に叱(しか)られそうである。
しかし、たとえば雑誌のルポルタージュの取材の一部としてイタコに接したとはいえ、彼女の言葉になにか自分の気持ちに響くものを感じたことは事実だった。
迷信とは、それにたよって生きかたを選んだりすることをいう。
しかし、人の思いを託(たく)するものが、すべて迷信とは言いきれないのではないか。
🌕️科学に対する全面的な信頼も、私には奇妙な迷信のように思われる。
「科学的でない」「証明されない」
ということを、否定の第一原理として用いることは、はなはだしく非科学的なことではあるまいか。
ものにも命がある、精神がある、と考えることを、一般には迷信と呼ぶ。しかし、信心ぶかい真宗人が、親鸞の肖像画や、蓮如の書いた「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の名号(みょうごう)を、平然と足で踏みつけにすることができるだろうか。私は人にもらった交通安全のお札さえ、捨てることができずに机に何枚もためこんでいる有様(ありさま)なのだ。
よく考えてみると、神社のお守り札は、ただの物質からなっているモノである。しかし、私たちはそれをモノとしてだけ見ることができない。そこになにかが感じられるからである。それを単なる迷信として切り捨ててしまっていいのだろうか。
それをいうなら、南無阿弥陀仏の名号も、🌕️父や母の古い写真も、ただの紙にすぎない。モノとして見れば、科学的には物質である。しかし、亡き母の遺影(いえい)を私たちは街頭でもらうチラシのように気やすく扱(あつか)うことができるだろうか。私にはできない。

科学と非科学の間に

かつてキリスト教迫害時代に、踏(ふ)み絵、というものがあった。聖母マリア像や、キリストの十字架像などを人びとに踏ませて、それをためらう者を教徒とする判別法(はんべつほう)である。遠藤周作の📖『沈黙』は、そこにテーマをとった小説だった。
マリア像がただのモノであるなら、それを踏むことはなんでもないだろう。隠れキリシタンほどよく知られてはいないが、九州には隠れ念仏という人びともいた。それらの隠れ問徒(もんと)に、親鸞の絵像(かいぞう)や、名号を踏ませることはあったのだろうか。
もし、私が真摯(しんし)な念仏問徒であったとしたら、そんな場合にどうしただろう❔隠れ念仏の人びとは、検挙されれば言語に絶する仕置き(しおき)が待っていたのである。
私たちは、科学と非科学の二本立てで生きているのだ。いかに近代人を自称しようと、非科学的なものを毛(け)ひと筋(=髪の毛一本)ほどももちあわせずに暮らしている人はいないだろう。
社会科学という言葉があるが、社会を人間の関係として考えると、🌕️人間関係は科学ではない。愛憎(あいぞう)の感情も、ひとえに脳の働きであるといわれるが、🌕️私には科学を超えた世界のように思われる。(中略)

人生は選択と決断の連続

(前略)体の奥のほうから言葉にならない感覚が、遠い波の音のようにきこえてくることがある。それは、〈この話はやめたほうがいい--〉という囁(ささや)きであったり、点滅する赤信号のようなイメージであったりする。しかし、いつも私はその声に耳をかさずに、⚠️相手の説明に耳を傾けたり、⚠️資料を眺(なが)めたりしてしまう。⚠️ときには一緒に連れだってやってきた紹介者の話をきく。(👩ある種の勧誘。)それはつまり、外部の「情報」をとりこむことである。私たちはそれらのあたえられた情報をもとに、自分の選択をするのだ。(👩情報の中にはメディアからのプロパガンダももちろん含まれている。)
❇️体の奥からかすかに語りかけてくる声は、つぎつぎに示される情報の量によって、⤵️しだいに弱められていく。そしてやがては外側から押しよせる情報の波に埋没(まいぼつ)してしまって、⤵️いつの間にかきこえなくなってしまうのだ。(体の奥からかすかに語りかけてくる声が。)(中略)
🌕️私たちは、日々、ことあるごとに選択と決断をせまられながら生きているのだ。
(昼食するレストランなどを見誤(みあやま)ったときなど、)
店の構えをちらと見た一瞬、なにか頭の奥をよぎった警戒警報(けいかいけいほう)のようなものは、いったいなんだったのか。しまった、と後悔しながら、この次は必ず自分の直感にしたがって店を選ぼうと決心する。
しかし、その決心は、次の機会にまたもや忘れさられてしまう。週刊誌に派手な紹介記事が出ていただだの、友人からきいた評判だの、⤵️自分の直感をまどわす情報が外部にはいくらでもあるからだ。

自分というちっぽけな存在

(中略)
〈この薬は飲まないほうがいい〉と、ふと思う瞬間が患者さんにはあるらしい。そんなとき山のように渡された薬袋を、断乎(だんこ)捨てることができるだろうか。(中略)
直感には理由がない。それを信じるに足(た)る科学的根拠もない。直感が正しいことを説明する統計も、レポートもない。(👩出してないだけかも。)そんな頼りない直感に自分の大切な命や健康をあずけていいものだろうか。(👩その反対ではないの❔企業に勤めているから仕方なくコ●ナのワクチンを打つけれど、本当に信じていいの❔と思う。)
しかし、乱暴な言いかただが、これまでの科学や医学などが解明した宇宙万物の謎(なぞ)は、たぶん実在する世界の百万分の一ぐらいのものでしかないはずだ。人間に関するほとんどすべてのことが証明され、すでにわかっていると考えるのは、それこそ迷信というものではあるまいか。
私は人間はちっぽけなもの、という実感がある。人間は愚(おろ)かで、どうしようもない欲張りであるとも思う。⤵️⤵️中世から近代、そして現代と社会が変化するにつれて、⤵️⤵️科学的、軍事的につくり出される死者の数は飛躍的に増えてきた。⤵️⤵️文明の進歩は、同時に人命をうばう技術の進歩でもあったのだ。

傲慢(ごうまん)になりすぎている人間

私たち現代人は、はなはだしく傲慢になっている、と、つくづく思う。「思い上がり」というのが、20世紀の人間の最大の病気ではなかったのか。それは21世紀を迎えても、いっこうに変わらないように感じられる。私たちはいつからこんなふうに、すべてに対して傲慢になってしまったのだろう。
自然に対して傲慢である。森や、木や、水や、海や、すべての地上の存在に対して、支配者のつもりでいる。(👦おかあさん、ディープステートも人間とおカネの支配者だよね。👧源、しっ🙊。👦どうして❔
👨源、そのまま、自分が思ったとおり言っていいんだよ。
👴だから、『ビルダーバーグ会議』などの秘密会議に、子ども議員とその父親を参加させるべきだと思うのじゃ。)

その自然のなかにともに生きる他の生物、植物、鉱物たちに対してもそうだ。
私は狂牛病(ビーエスイー)の騒ぎのなかで、ふと20年ほど前に見た光景を思い出した。それは友人に案内されて、ある牧場を訪(おとず)れたときの記憶である。
その牧場は、美しい自然のなかに広大な敷地を所有してつくられていた。管理はゆきとどき、公園のように整然として、清潔だった。赤い屋根や木造の倉庫などが並木のなかに点在し、牧歌的な風景である。長い歴史を持つその工場が、その地方の観光の名所になっていたのも当然だろう。
私と、友人と、彼の娘さんの3人は、初夏の日ざしのなか、和(なご)やかな気分で牧場のあちこちを見学してまわった。
牛たちがつながれている建物の内部に足を踏みいれたとき、私は急に奇妙な違和感をおぼえた。一列に並んでつながれている牛たちの鼻のところに、電線が張られていたからである。その電線に牛の鼻先が触(ふ)れると、牛はピクッと反応して後ずさりする。たぶん弱い電流が流されているのだろう。それによって牛たちは一定の位置を保って立ちつづける。見るからに整然と並んでいる牛たちの姿に、私は心が痛むのを感じた。
友人の中学生の娘さんも、こわばった表情をしていた。やがて、牛たちが広場に引きだされ、日課の運動をはじめると、彼女の目にうっすらと波がうかんだ。
広場の中央に木の柱が立っている。その柱からちょうど傘の骨のように放射線状に横木が出ている。その横木の先の鎖(くさり)に鼻先をつながれた牛たちは、おとなしくじっとしている。モーターのスイッチが入ると、円木が回りだす。
鼻先を横木の鎖につながれた牛たちは、回転する円木に引かれて動きはじめる。
「こうして適度な運動をきまった時間にさせることが大事なんです」
と、案内してくれた温厚な中年の男性が説明してくれた。牛たちは一日に何回か、その広場に引きだされ、鼻先を横木につながれたまま、ぐるぐると円を描いて適度な「運動」をあたえられるのだそうだ。
私は輪になって歩き続ける牛たちを見ながら、
・・・・・ゝゝ
なんとなくいやな気がしていた。文章の世界では、昔から「馬を引く」といい、「牛を追う」と書く。馬は「引く」もので、牛は「追う」ものだと教えられてきた。だが、目の前の牛たち派、回転する横木の鎖でつながれて、ぐるぐると際限なく円を描いて引き回されているのだ。

(👩アルプスの少女ハイジが、引き回されている牛(ヤギ)たちを見たら泣いて悲しむだろうな。)

その後、私たちは種(たね)つけに使う雄牛(おうし)の精液を採取する現場を見た。まず先に、雌牛(めうし)を見せて、壮健(そうけん)な雄牛を興奮(こうふん)させる。そうしておいてから木製の器具にまたがらせ、専用の器具をぺニスにあてがって射精させるらしい。
牛に心はないのだろうか。科学者は、ない、と言うだろう。証明されないものは、あるとは言えないからだ。だが私は、牛の大きな目のなかに、なにか言うに言えない悲しみの感情を見たように感じた。その日のことは、ながく私の記憶に異物(いぶつ)のようにつき刺さったまま残った。
しばらくして友人から届いた葉書には、
「中学生の娘は、あの日から牛肉を食べなくなりました」
と書いてあった。
動物に心はあるか❔
私は、あると思う。少なくともある種の感情をもっているにちがいないと思う。
植物に感情はあるのか❔
私は、あると感じる。それは証明できないが、私はそれを感覚的に肯定(こうてい)する。
では、石に感情はあるのか❔
私はあると思う。石にも、水にも、風にも心があると感じるのだ。
狂牛病のニュースをきいて、最初に頭にうかんだのは、あの円木につながれた牛たちの目の色だった。モーターのついた運動装置に引きずられて、黙々と歩き続ける彼らの表情だった。
人間は傲慢になりすぎている、と、あらためて思わずにはいられない。

(👩「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くのかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」
(ヨハネによる福音書3章8節)

知らないのは風ではなく、「知らない」の主語は、「あなた」だ。
「風は思いのままに吹く。あなたは風の音を聞いても、それ(風=精霊)がどこから来て、どこへ行くのかをあなたは知らない」、という、福音の文章を短くしたタイトルの歌がある。このヨハネによる福音書3章8節を知らなければ🎵『風は知らない』のタイトルも歌詞も作れない。岩谷時子さんはそれをご存知だったということだ。突然思い出して、蛇足でした。)

🎵『風は知らない』
歌:ザ・タイガース
作詞:岩谷時子
作曲:村井邦彦

風は飛ぶ 枯草の上を 空にある幸せ さがしながら
風は泣く 大空の胸を 淋しさに夜更けも めざめながら
きれいな虹に めぐりあう日を ただ夢みて 雲の波間をさまよう
きのう鳴る 鐘も明日はない 大空の広さを 風は知らない
きれいな虹に めぐりあう日を ただ夢みて 雲の波間をさまよう
きのう鳴る 鐘も明日はない 大空の広さを 風は知らない

「自分」はなぜ尊いか 

人は必ずしも不摂生(ふせっせい)で死ぬのではない。健康を気づかい、規則正しい生活を送ってもいる者が、絶対に長生きするともいえない。もちろん、合理的な考え方からすると、世間でいう正しい生活を大事にしている人のほうが、乱暴に暮らしている人よりながく生きるだろうと思われる。
だが、人生は確率では計れないものだ。平均とか、統計とかいった物差しは、実人生(じつじんせい)では、ほとんど役に立たないものなのである。そのことを私は、外地で敗戦を迎えてから今日までの日々の暮らしのなかで、いやというほど実感してきた。
私個人は、世界にただ一人の存在なのであって、人間一般ではない。「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」という言葉を、私はそう解釈している。「自分」がなぜ尊いか。それはこの宇宙でただ一人の存在であるからだ。他に同じものがないということを、絶対希少価値(ぜったいきしょうかち)と呼ぶならば、この私はまさしくその絶対希少価値的存在なのである。ダイヤモンドやプラチナなど問題にならないほどの希少価値である。なにしろ全世界、全宇宙に、この自分とまったく同じ存在は二つとないのだから。
そんな絶対の個人、唯一(ゆいいつ)の我にとって、科学的平均値や、統計的価値観などが、なにほどのものだろうか。
(👩よくも絶対希少価値的存在の一人一人のウイグル人を、よくも中ごく共産党は強制的に収容所に閉じ込めて再教育しているな❗⚓
👴イギリスのチャーチル元大統領は「一人の死は悲劇である。しかし10万人の死は統計である」との警句をはいたことがある。では、千万人単位の死は何と呼べばいいのだろうか⁉️」。40年前の5月8日、ドイツが敗戦、文字どおり崩壊した日。死亡したドイツ人720万人、街は瓦礫の山と化し、家を故郷を失ってさまよう他にないドイツ人が2500万人になんなんとしていたという。
そしてソ連では2000万人が(紙幣の「幣」の上半分の部首に「死」という字は何と読むのですか❔)□れ、殺されたユダヤ人は420万人から485万人ともいわれている。(📖『荒れ野の40年 ヴァイツゼッガー大統領演説全文』(岩波ブックレットNo.55)の「翻訳に際して」(永井清彦さんのまえがきより)
人の平均寿命など、自分には関係のないことだ。平均寿命が延びようが短くなろうが、早く死ぬ人は死ぬし、ながく生きる人は生きる。
そのことを私は勝手に「絶対的人生感」と呼んでいる。それに対して人間一般を基準に自分の人生を考えるやりかたを「相対的人生感」と呼ぶ。「人生観」ではなく、
「人生感」なのだ。
この自分が、全世界で唯一の存在であることを自覚すれば、そこにおのずから生まれてくる自己の価値感がある。これも「価値観」ではない、ひとつの感覚である。それが「唯我独尊」の自覚だ。自分ひとりが偉い、というのではない。ただ一人の自分であることが尊く、ありがたいことなのだ。(後略)

宗教の不思議な世界
(前略)
にもかかわらず、宗教、というものの手ごたえが、これほど日常生活のなかで希薄なのは、一体、どういうことなのだろうか(日本人は。)
ひとつの理由としては、(日本の)国の教育のありかたに問題があるのかもしれない。
国としての教育は、政治の原則に従う。そして政教分離(せいきょうぶんり)というのが、この国の原則である。戦前、戦中において、国家神道(こっかしんとう)=天皇制と政治の合体がこの国を不幸にした、という反省から政教分離のルールができたのだろう。
数年前、グローバル・スタンダードという言葉が、嵐のように日本列島に吹きあれたことがあった。グローバル・スタンダードとは、言いかえれば、アメリカ式のやりかた、ということだ。
では、戦後この国(日本)がお手本としてきたアメリカの政治は、はたして政教分離か❔
アメリカでは大統領が民主主義政治のシンボルである。その大統領が就任するとき、聖書に手をおいて宣誓(せんせい)するのは、一体、なんなのか。
以前、わたしは宗教について、
こういう文章を書いたことがある。
〈神の恩寵(おんちょう)も、仏の慈悲も、個人の善行(ぜんこう)や修行(しゅぎょう)とは関係ない、と、はっきり自覚するところから信仰がはじまる。本当の信仰を得て、敬虔(けいけんな)生活に入ると、人生の苦しみがなくなるのだろうか。信心を得た人は、つねに心やすらかでいられるのだろうか。
(👩その答えは)ノーである。どれほど深い信仰を得ようと、人生の苦悩はつきない。生きている限り生老病死(しょうろうびょうし)の影は私たちにさしつづける。では何が変わるのか。🌕️たぶん、苦しみつつも、それに耐えていくことができる、ということだろうか。🌕️断定的な言いかたをしないのは、真実の信仰を得たとしても、人は生きる力を失うこともあると思うからだ。それは「わがはからいにあらず」とうけとめるしかない。
しかし、月並みなたとえだが、こんな状況を考えてみよう。いま私が闇夜の山道(やまみち)を重い荷物を背負って歩いているとする。行く手は夜にとけこんで、ほとんど一寸も見えない。手さぐりで歩きつづけるしかない有り様だ。
しかも足もとには切り立った崖(がけ)が谷底へ落ち込んでいるらしい。下のほうでかすかに響く水音は、谷のとほうもない深さを想像させる。
(👩「あっちの水は甘いよ、こっちの水は辛いよ」という「はないちもんめ」のセリフを思い出してしまった。
「あっちに少しでも歩いたら崖だ❗自分の足もとには切り立った崖が谷底へ落ち込んでいるらしい。下のほうでかすかに水音が響くから」とは、自分の耳だけでなく、身体が感じる直感からのシグナル(危険信号。)
目的地も見えない。うしろへ退(ひ)くすべもない。(👩うしろは断崖絶壁❗)
といって、そのまま座りこんでしまっても、誰も助けにはきてくれないだろう。
🌕️進退きわまっても、行く(👩生きる)しかないのだ。手で岩肌(いわはだ)をつたいながら、半歩、また一歩とおびえつつ歩く。
🌕️私たちの生きている様子とは、およそかくのごときものだ。はっきり周囲が見えていると思いこんでいる人でも、じつは何時間かあとには生(せい)を失うこともある。交通事故もある。突然の病死もある。
犯罪や戦争や天災も予測しがたい。(中略)〉
(👩しかし、もし、私たちの人生を左右するのが、一定のある人間たちがつくった大きな(犯罪)組織だったらと思うと、その組織の存在が明るみに出た場合は、わたしはどんなに考えても彼らを許しがたいと思うのです。ちっぽけなわたしのちからではどうしようもないことだとわかっいても思うのです。「世界は狂人が支配している。」(by ジョン・レノン)
👨テロなどの犯罪も、戦争も紛争も、天災も、もし気象兵器などによるものであったならば、現在は、気象兵器を持つ国、始めようとする戦争や紛争で一体誰が得する(=儲かる)かに考えを及ばせれば、少なからず予測はできるようになったという。少なくとも戦争が始まれば誰が得をするかは歴然とする。(河添恵子さんと馬渕睦夫さん))

本文の続き。
🌕️私たちのなかで、誰ひとりとして確実な明日が保証されている人間はいないのだ。そのことを暗夜の山中行(あんやのさんちゅうこう)にたとえてみるのである。不安と、恐怖と、脱力感で、体が震えるのを感ずる。
(👩しかし、戦争も世界経済の何もかもを、
自分と同じ人間の誰かが画策したものだったと知るたびに、
彼らの精神的に単純で刹那的な思考回路を
わたしは許せない。
学問だけできてトップで、しかし、人間としての何かが足りない。人間の「情け」という感情を持たない超エリート軍団の気持ちがはかり知れない。
戦争を人間の手で起こし、天文学的な数の各国国民を死に至らしめながら、
自分たちだけは安全な場所に居て
『ワンワールドオーダー 世界統一政府』の指揮を取るなどという大それた計画を
画策する人々が、いまだに21世紀に存在するとはこれいかに‼️
👧ふるっ❗)
🌕️しかし、そんななかで、ふと彼方(かなた)の遠くに、小さな集落の明かりが見えたとしたならどうか。
🌕️行くべき場所、帰るべき家の灯火(とうか)が見える。そしていつか雲間から冴(さ)えわたる月光がさしてきて、足もとの断崖(だんがい)の道も、山肌も、森も、くっきりと浮かびあがる。🌕️坂を歩く労苦には変わりない。🌕️行く先までの距離がちぢまったわけでもない。🌕️荷物が軽くなるわけでもない。
🌕️しかし、❇️人は彼方の灯火に勇気づけられ、月光に思わず感謝のため息をつくだろう。❇️そしてふたたび歩きだす。❇️それを他力(たりき)というのではないか。わたしはそう考えたい。〉
(中略)
宗教は暴走する車を引きとめようとする力である。その力は進行方向と逆に働く。
宗教の論理が合理的であったり、十二分に科学的であったりする場合、それは宗教ではなく、むしろ道徳だと考えるべきだろう。(中略)
科学はもともと神の存在を証明することから出発したが、近代科学は神と対立する議論をきずきあげた。その力を借りて証明される宗教は、すでに宗教とはいえないはずだからである。
アメリカの裁判ドラマをテレビで見ていると、証人が誓うシーンがよく出てくる。(中略)
英語のセリフをよくきいていると、
「誓います」「誓いますか?」というセリフのうしろに、「イン・ゴッド」という文句がくっついているのがきこえた。もちろん、スーパーの字幕には、そこのところは訳されていない。(中略)
問題は、その「誰か」である。
「イン・ゴッド」という声をきいて、はじめて証人宣誓の意味がはっきりした。
経済の土台である通貨に、「イン・ゴッド・ウィ・トラスト」と刻印(こくいん)されているということは、🗽経済は神の権威のもとに成り立っているということである。
民衆に選ばれた大統領が、聖書に手をおいて宣誓するということは、政治もまた神(キリスト教)の名のもとに成り立つということだろう。
そして、司法の中心である裁判もまた、神に対して忠実に行われるとすれば、民主主義といい、市場原理といい、正義といい、
すべて(が)神の光のもとに照らされて成立しているのがアメリカの民主主義であると納得がいく。
「そりゃあ形式だけのものさ」
と、言う人もいるだろう。しかし、形式であれなんであれ、米国社会がそれをタテマエとして成り立っていることは、ひとつの立場として認めないわけにはいくまい。
「和魂洋才(わこんようさい)」と、いう。
「才」には必ず「魂(こん)」が必要であることを明治の為政者たちは知っていた。(👨今の為政者は❔)
「魂」なき「才」は、システムとして本当は成立しない。
「魂(こん)」は「根(こん)」であり、根のない植物はふつうあり得ない。一本の樹木にしても、一(ひと)もとの草花にしても、大地に大きく根を広げ、その命を支える。根も、幹も、花も、見えない地中の根によって存在する。
この「魂(こん)」=「根(こん)」に当たるものは、「見えない世界」への信頼である。
「神の見えざる手」に対する信頼がなければ、自由競争にもとづく市場原理は存在しえなかった。資本主義というシステムは、神という保証によって成立したシステムである。
(👩思い付いたらすぐメモしないとものすごくもったいないし、それは大きな損失なので、いつも私は思い切って書いています。それも、誰も読まない自分だけの日記じゃダメ。誰かに私の気持ちが伝わって、「ヤギさん郵便」だろうがなんだろうが、誰かの心に留まってくれたらいいなと願っています。
それでは。やっぱりさ、『ウイグル・ジェノサイド』でもなんでも、その問題、その事件の中に居て、拘束されている人びとは自分たちのちからではどうすることもできない。水がすぐに手に入らなくて、水が大変貴重な国や地方の人びとに「手を洗ってください」と頼んでもどうしようもない。野生のコウモリやサルを「感染症が危ないから食べてはいけないのです」と、たとえば私がそこへ行って、その場でコウモリやサルを捕獲し、さばいている人びとに懇願しても、すぐに聞いてもらえるはずがない。
やはり、先進国が、その国の国民がきちんと技術を覚えて、水道工事ができるかどうかはわからないけれども、まず水道工事をしてあげて、並行して、「こうこうこういう理由できちんとせっけんで手を洗って、手袋(ディスポーザー)を着けて動物を触ってください」と教えることが必須だと思う。たとえば先進国にその国の村役場の人びとを招待して、先進国内で水道技術と手洗いを覚えてもらい、そうして本国へ帰ってもらい、本国へは先進国の人も付いて行って、先進国で習った通りのことを本国できちんと習慣としてやってもらうことはできないだろうか❔どんなに難しくても、今後の感染症のパンデミックを抑えるために、やるべきだと思う。今のまま、以前のままの習慣で暮らす国々を軽んずると、必ずコ●ナの次の第二のパンデミックはやってくると思います。
野生動物をさばくときに今も使っている錆び付いて切れにくいメンテナンスのしていない包丁の研ぎかたのレクチャーも、まな板の洗浄の仕方も覚えて帰ってもらう重要性があると思います。
今後、世界の支配者のかたにはぜひ、感染症のワクチンなどで儲けることを考えるより先に、『原因の根本を断(た)つ行動』に着手し、使いきれないほどのおカネを使っていただけたらと思います。Befor it's too late.まだ間に合うから。
👧おかあさんは、怖くないの❔
👩怖いわよ。でも、五木さんのご本を読んで『TARIKI(他力)』の風に守られているから。
五木さんのご本を写すことは、私にとって「写経」と同じなのです。書き写すことによってその意味がわかるように。
👨じゃ、僕もやりたい。
👩大好きなイーグルスのメンバーへ。ごめんなさい。大好きな🎵『デスペラード』の歌詞が、あまりにも私が伝えたいこととぴったりシンクロしたので、今回は『デスペラード』の歌詞和訳を、自分なりの使い方をさせていただきました。

Desperado/Eagles 歌詞和訳と意味

Desperado, why don’t you come to your senses
ならず者よ 目を覚ましたらどうだ❔
You’ve been out ridin’ fences for so long now
お前はもう長いことフェンスを越えられないな。
Oh, you’re a hard one
ああ お前は強い男だとも。
I know that you’ve got your reasons
でもお前なりの理由があるんだろ。
These things that are pleasin’ you
そんなもので自分を癒やすなんて。
Can hurt you somehow
むしろ傷つくかもしれないのに。

Don’t you draw the queen of diamonds, boy
「ダイヤのクイーン」を引いてないか❔
She’ll beat you if she’s able
いざとなったらそいつに裏切られるぜ。
You know the queen of hearts is always your best bet
いつだって「ハートのクイーン」が最高の手なんだ。
Now it seems to me, some fine things
お前にとって大事なものはすでに
Have been laid upon your table
お前のテーブルに置かれている気がするが、
But you only want the ones
That you can’t get
お前は自分が手に入れられないものだけを求めるんだろ。

Desperado
ならず者(頑固者)よ、
Oh, you ain’t getting no younger
人は老いるものさ。
Your pain and your hunger
お前の感じる苦しみと飢え(👩儲けても儲けてもまだ儲け足りない。もっともっと儲けたい。)は、
They’re driving you home
故郷(👩約束の地)への想いを募(つの)らせるんだ。
And freedom, oh, freedom
自由、そう、自由(👩民主主義)なんてものは、
Well that’s just some people talking
どこかの誰かが語ったまやかし。(👩闇の支配者は共産主義を目指し、世界は共産主義になりかけている❗)
Your prison is walking through this world all alone
お前自身を閉じ込める檻は
どこへでもついてくるのさ。
(👩「自分以外の他人を檻に閉じ込めたい、他人を征服したい」と思う心(考え方)自体が、お前自身を小さな檻(狭い考え方)の中に閉じ込めている。)

Don’t your feet get cold in the winter time?
冬でも足は凍えないのか?
The sky won’t snow and the sun won’t shine
雪は降らず太陽の光も差さない。
It’s hard to tell the night time from the day
昼に夜のことを語るのは難しい。
And you’re losing all your highs and lows
お前はもう何も感じなくなったが(👩心を持たないAIに近いから)。
Ain’t it funny how the feeling goes
Away…
なんでそうなっちまったんだろうな❔

Desperado
ならず者よ、
Why don’t you come to your senses?
自分に正直になれないのか❔
Come down from your fences, open the gate
自分のフェンスから下りてゲートを開けろ‼️
It may be rainin’, but there’s a rainbow above you
雨に降られたあとは虹がかかるものさ。
You better let somebody love you
(Let somebody love you)
君はみんなから愛されるべきなんだ。
(👩愛されるためには自分の行動を変えねばならない。)
You better let somebody love you
君はもっともっと愛されるべきなんだ。
Before it’s too late
(👩世界が)手遅れに………なる前に。
(👩Toアメリカ大統領と、
👨Toディープステートへ。

舞台はアメリカのワシントンの白い建物。
主人公は名誉とカネを愛する年配の男。
芝生に腰掛けて遠くを見つめたり、
『トランプ抜き遊び』をすれば無謀な役を狙うような男。
もう感情もなくなりかけた、愛されることも愛することも
忘れてしまった寂しい男。
そんな男に、『アメリカ軍のトップを極められた退役軍人の方々が、アメリカに対して覚醒(警世)を促している』のがこの歌です。

👩私なりの🎵『デスペラード』の解釈とは、
ならず者の年配の男を、
かつて自分もならず者と呼ばれたことのある年配の男が含蓄のある言葉で諭す、という内容となっています。これはもう、一種のアメリカ革命ですね。)
👆️📝👆️
(YouTube)【馬渕睦夫】アメリカ退役軍人が公開書簡
その内容とは? (馬渕睦夫の部屋【切り抜き】より)
(YouTube)退役軍人124人が公開書簡でバイデン大統領に異議❗(奥山真司の地政学-リアリズムより)
(YouTube)【アメリカ退役軍人】公開書簡 社会主義やマルクス主義による……(元気Japanllより)


『運命の足音』本文

資本主義が宗教に根をもつシステムであるといえば、首をかしげる人もいるだろうし、うなずく人もいるだろう。しかし、「魂」なき資本主義はありえない。すべてのシステムは、背後にそれを支える「魂(こん)」=「根(こん)」があるのだ。
それは経済や政治だけではない。英国に学んで英文学を研究した夏目漱石(なつめそうせき)は、いくら英国の小説の構造を学んだところで、日本人がそのタイプの小説を創作する可能性を疑っていた。
彼は鋭く文学もまた「洋魂」によって支えられる文化であることを見抜いていたからである。「和魂英文」は不可能である。と。
欧米の文学の背後には、「神の見えざる手」が影を落としている。たとえそれが無神論的作品であったとしても。
そして、帰国した漱石は、英国流小説の亜流(ありゅう)ではなく、東洋人の小説を模索(もさく)することになる。
「洋才」=「欧米流の文化」には、
「洋魂」=「キリスト教的一神教の感覚」が、見えざる根として存在する。そのことを明治びとたちは、賢明にも見抜いていたのである。

(中略)
私たちの国(日本)では、妙に宗教的な表現を怖がる風潮があるようだ。アメリカの裁判ドラマを見ていると、犯人が宣誓するときに、「真実のみを誓います」と言う。そのときに「In God」という声がきこえるのだが、映画やテレビの字幕では、いつも切り捨てられているのが不思議である。
ちなみに有名な札幌農学校のクラーク先生のスピーチにしても、「Boys be ambitious」だけが伝えられているが、そのあとにくる文句はなかったのだろうか。
(👩五木さんは、あとにくる文句がもちろんあるのがわかっていて書いておられるのですね。博士からのスピーチ・メッセージがたった一行だけのわけがありません。
👨「話せばわかる‼️」(5.15)みたいに、話す時間もないくらい差し迫っていない限りね。
👩そうね。
「青年よ 大志を抱け」
札幌農学校:クラーク博士
Dr.Clark(William Smith Clark)
青年よ 大志を抱け。
それは「金銭」や「私欲」のためにではなく、
また、人呼んで「名声」という空(むな)しいもののためであってもならない。
人間として、当然備えていなければならないあらゆることを成し遂げるために、
大志を抱け。)

見える世界と見えない世界p.117

最近、「日本人の心が荒廃している。だから、宗教を思い返さなければいけない」とか、「」
👩洗濯が出来てきた💦もっと伝えたいのに❗
自転車の上に毛布を干した。最近、朝、寒かったから。)

とか、「日本の青少年のモラルが荒れているから、道徳教育が必要だ」という動きがあります。けれども、本当のところ、私は必ずしもそうは思いません。
というのは、宗教と道徳はまったく相反するもののような気がするからです。基本的に宗教と道徳はまったくちがうタイプのものなのです。
では、「道徳」とは一体なんでしょうか。
(👧道徳とは何かなんて、私はすぐに答えられない。
👨僕もだ。いつか習ったのに、一番大事な、基本的な物事の言葉の意味を忘れてしまい、僕の中で曖昧だ。
👦大人より、教科書で学んでいる小・中学生の僕たちのほうが言葉の意味は言えるかもね❗)
🌕️道徳というのは、人間がこの社会を生きていく上で、秩序を保つためのものです。ある意味では、社会をどういうふうに生きていくかという、非常に現実的な対策だといえるでしょう。
👧おかあさんが読んでくれると、まるで、五木さんの授業を受けているみたい。
👩だから、良質の本は自分の先生なの。本にも命がある証拠よ。踏んだり、枕にしてはダメよ。
👨嬉しいなぁ。待ち望んだ恋人に会ったような。
👩大水で夜叉ヶ池の竜神のお姫様(玉三郎さん)が、人間の恋人(加藤剛さん)に会えて嬉しい❔または手紙(恋文❔)をもらって「嬉しいなぁ」と言った、映画『夜叉ヶ池』の一場面を思い出してしまいました❗飯田蛇足。)
たとえば、人間がけんかをせずに、仲良く暮らすためにはどうすればいいか、というようなことだと思うのです。
だから、道徳は現実的なものですし、ノウハウというものともつながっています。
(👨道徳とは、そうだったのか❗)
それに対して、🌕️宗教は、現世(げんせ)とは全然ちがう世界のものです。目に見えない世界、現実ではない世界のことを考えること。それが宗教だ、という気がするのです。
🌕️道徳というのは現実の世界のもの、目に見える世界のものです。(👩ex.)お年寄りを大事にする、ということは道徳です。混(こ)んでいる電車で座席に坐っているとき、お年寄りが乗ってきたら自分が立って席をゆずる。これは、道徳教育でできることでしょう。つまり、目に見える世界のなかの問題です。
しかし、宗教というのはそうではない。宗教というのは現実的になにか役に立つ、ということではない。宗教は目に見えない世界を扱(あつか)うものです。そのことを、私たちはよくわきまえておかなければいけないと思います。
見える世界(👧✋道徳です❗)と見えない世界(👨✋宗教です❗)、この世とあの世、あるいは現実と非現実、こういうものの二重構造が大事だという気がします。(👩二重構造❗)❇️その両方がなければ世界が色あせて見えますし、世の中もつまらないだろう、と私は思っているのです。
平面的に見える世界は魅力がありません。❇️魅力があって、非常に崇高(すうこう)な深さを感じさせ、しかも、素晴らしい世界であるためには、それが二重の構造をもっていなければなりません。
❇️音楽なら、単一のメロディーだけではなく、低音と高音のちがうメロディーが共存しているような世界、旋律が重なっているポリフォニック(👩辞書引いて)な世界。❇️そういう遠近法のようなものがあってこそ、人間の世界や人生は彫(ほ)りの深い、価値のあるものに感じられるのではないでしょうか。
未開社会においては、いまでも精霊(せいれい)などの存在を信じている人びとがいます。そういう人びとの生活というのは、❇️むしろいきいきとして人間的に感じられますし、魅力があります。
アジアのある地域の人びとには「一日」という観念がない、ときいたことがあります。彼らは「一日」の代わりに、「ひとつの昼とひとつの夜」と数えるのだそうです。私たちが「二日」というのを、彼らは「2回の昼と2回の夜」というように考えるのだ、と。
昼間は人間が活動する時間です。一方、夜のとばりが降りてからは、人間や動物たちは眠りにつき、精霊たちが活躍する時間です。それは天使であったり魔物(まもの)であったりするかもしれませんが、昼間は眠っているわけです。目に見えないもの、この世のものではないものが活躍する時間、それが夜だと考えられているのでしょう。
❇️一日をそんなふうに分けるというのは、この世をとても奥行きが深くて、魅力的なものにしている、という感じがします。
🌕️目に見えるものの価値しか感じない世界は単純ですし、🌕️幼稚だともいえると思います。目に見えないものの値打ちをきちんと認識(にんしき)するためには、目に見える世界と目に見えない世界の両方を、人びとが実感をもって感じなければいけない。その「目に見えない世界」のことを扱うのが宗教であり、「目に見える世界」のことを扱うのが道徳なのです。p.120(単行本)
(👩五木さん、ありがとうございました。きょうの学びはここまでです。また明日ね。これから外に洗濯物を取り込みに行きます。本日のお天気は薄曇りで、梅雨前の草木はみずみずしく鮮やかで柔らかい肉厚のみどりいろ。こんもりとした葉陰で小さな鳥たちが嬉しそうにさえずっています。この子たちにも親がいて子どもがいて、一生懸命えさを見つけて生きているんだなと思いました。また、この地球のどこかで、殺されたり、悲しんだりしているがたがたがいると思うと、どうかもうそんな世界は、21世紀なんだから即やめてほしいと願う次第です。

外に出て、梅の実を収穫した。パパは優男(ヤサオ)で、高い所が苦手だ。
郷美が梯子(はしご)と高枝切り挟(はさ)みで梅の実を、「なんでアタシが⁉️」と、ブーブー(文句を)言いながら挟んでくれた。50個くらいになった。郷美は、最後は「楽しかった」と言った。梅の良い香りが微(かす)かにした。今年は食べられない🌿ハーブはやめて、茄子の苗を植えた。花びらが尖(とが)った紫色の美しい花がもう咲いている。日本は自給自足が必要だと思ったから。花と一緒に野菜も植えよう。大自然にありがとうと言いながら。外来種の白い紫陽花(アジサイ)も、私が眺めると「いま咲こうとしている途中ですの。恥ずかしいから見ないでください。まだ白いお化粧の途中です。」と、星の王子さまのバラのように、重たい雲の下で眩(まぶ)しそうにキラキラと咲いている。)

本文に戻ります。p.120(単行本)
目に見えない世界のことというのは、目に見える世界、つまり現実の社会に対して、必ずしも肯定的であったり、いい働きをするものではありません。むしろ、この世の倫理(りんり)や倫理とは逆の倫理というものをもっています。そこに価値があるのだと、私は考えています。
(👩まったくそれますが、いま世界で問題となっている『DSディープステート』にも、彼らなりの倫理というものがあるのでしょうか❔倫理ですよ。)
2足(た)す2は4、というのが現実の世界の数字です。けれども、宗教の世界の数学では、2足すには4にはならない。だから、おもしろい。2足す2が必ず4である世界は、実に単純きわまりなくて平板です。そこには人間の奥行きも感じられませんし、人間の尊厳(そんげん)というものも存在していません。(👨五木さんは数学者のことを言われているのではありません。数学者で人間の奥行きが深い人はたくさんいます。ああ、本の名前、忘れたな。)
つまり、宗教の世界は、2足す2は4というルールのみ成り立つ世界とは反対の言葉を持っている。それは、現実世界の役には立たない。だからこそ宗教の言葉は偉大である、ということになると思うのです。(👩「現実世界の役には立たない」⁉️)

一瞬の「恥(はじ)」や「畏(おそ)れ」を抱かせるp.121(単行本)
たとえば「汝(なんじ)、右の頬(ほほ)を打たれなば、左の頬を差しだせ」というのは宗教の言葉です。「汝の敵を愛せよ」もそうです。しかし、現実の問題として、右の頬を打たれて左の頬を差しだす、ということはあるでしょうか。
そんなことをしていたら、破滅してしまいます。おそらく、現実の世界ではありえないことでしょう。

同じように「汝(なんじ)の敵を愛せよ」はどうでしょうか。もし、それを本当にきちんと守ってやっていたならば、どんな企業でも1年のうちに倒産してしまうというものです。それは、現実の世界ではできないことなのです。しかし、できないことなのだけれども、「できない」ことを、あえて言葉にするというところに、宗教の言葉の意味の本質があるといえるでしょう。

🌕️日常や現実の世界のなかでは通用しないようなことを、あえていうところに、宗教の言葉の価値はあります。宗教は「できない」ことをいう。一方、道徳は「できる」ことをいうわけです。

人は日常生活のなかで、弱肉強食(じゃくにくきょうしょく)のビジネスの世界を必死に働いて生きている。たとえば、競争相手とかライバル会社など、他人を徹底的に容赦(ようしゃ)なく痛めつけているビジネス・エリートがいるとします。しかし、一瞬でも「汝の敵を愛せよ」とか「右の頬を打たれたら、左の頬を差しだせ」というような🌕️宗教の言葉が、ふと頭をよぎる瞬間があったとすればどうなるか。
🌕️そのとき、相手を打ちのめす気持ちに水をさされて、手加減(てかげん)するかもしれない。❇️その(👩自分がしようとしている)行為を一瞬恥じるかもしれない。❇️ここまでやっていいのか、という畏(おそ)れを抱くかもしれない。❇️そういうことがあるのではないでしょうか。

(👴ちゅうことは、その言葉を予(あらかじ)め、知識として知っておかねばならないな。)

(👨たとえば僕らビジネスマンに)❇️こういう瞬間をもたせるのが、聖書の言葉であったり、あるいは仏教の言葉であったりするのです。p.123(単行本)

(👨そっかー……。
お義父(とう)さん、きのうの夕方、李下が茄子の苗を植えたのて、水やりをお願いします。あと、梅酒づくりをお願いします。それでは、行って参ります。
👴え❔甘露の手作り梅酒をワシに飲ませてくれるんじゃないの⁉️梅酒づくりはじいさん任せか。まぁ、楽しみにやろう。マスヤくん、元気に行ってらっしゃい。傘忘れんなよ。((🙋)

本文に戻ります。p.123(単行本)
吉田兼好(よしだけんこう)は『徒然草(つれづれぐさ)』の第217段に、金を儲けたいと思う人はどうすればいいか、という話を書いています。ある大金持ちが言うには、お金を儲けたい人は、なにはさておき、お金持ちになる心がけを修行しなければならない。その心がけというのは、仮にも無常を感じてはならぬ、と。
要するに、これは、世の中はいつどうなるかわからない、無常なものだなどと考えている人は金儲けができない、ということでしょう。この世の中は永遠につづく、大勢(たいせい)は変わらないというように信じ込まなければ、金儲けなどできないといっているわけです。
仏教的な無常観をもっている人は、絶対に金儲けができないということ。それは、吉田兼好がこの話(📖『徒然草』)でいっているとおりだと思います。
「すべては空(くう)である」という考えかたがあります。これも宗教の考え方ですから、現実の世界では通用しません。現実の世界を信じる人は、「すべては空である」とは思いません。そう思わないからこそ、営々(えいえい)とお金儲けのために、汗水(あせみず)垂らして働き続けることができるわけです。
しかし、そういう人でも一瞬ふっと、この世の中というのは本当は空しいものなのではなかろうか、と思うかもしれない。すべてのものは失われていく、と感じることもあるはずです。
❇️そんなふうに反省するときに、その人間の行動というものは変わると思うのです。p.124(単行本)
人間というのは、放(ほう)っておくと途方もなく疾走(しっそう)していくものです。あるいは、爆走するものです。そんな人間を爆走させないためのひとつのブレーキになるものが、宗教だという気がしてなりません。(中略)
(👩私はある人が事件の主要人物で、刑を言い渡される場面を思い出した。
昔、日本のテレビのニュースで、たまたま中ごくの江青(こうせい)という女性が、中ごくの裁判所で刑を言い渡される場面を見た。(彼女は毛●東の妻で四人組の一人だ。)
「死刑❗」と言い渡され、後ろから看守の女性二人に拘束されるとき、江青は肩を強くいからせて、(お前ごときが私に触るんじゃない❗)という強い表情で後ろの看守をほんの一瞬睨み、きつく結ばれた彼女の顔に反省の表情はなかった。
後に「歴史を揺るがした女性」のようなタイトルのテレビ番組を見たときに江青も取り上げられていた。江青には死刑が決まったあと、「毛●東、あなたの思想を本当に理解する者は私だけです。私もすぐにあなたのそばに行きます」というような内容の手紙が残されていたという。
私はこの時、この人江青はきっと、全く自分のしたことをまったく反省していないのだなと思った。
そして私は、中ごくにもこんな立派な建物の裁判所があるのだなと思った。
そしてこうして日々、誰かを裁いているのだなと思った。
しかし江青にしてみれば、「ついきのうまで私たちに従っていた中ごく(共産党❔)が、都合が悪くなれば私たちを裁くのかっ‼️」と言いたかったのではないかと感じた。中ごく共産党の裁判所とは、一党独裁の裁判所とは、一体何のためにあるのだろうと思った。
👨ママはそこを言いたかったのだね。
👩江戸・南町奉行所(みなみまちぶぎょうしょ)の大岡忠相(おおおかただすけ)を主人公とする懐かしいフィクション・ドラマ『大岡越前(おおおかえちぜん)』。五木さんと、南町奉行所の大岡忠相がその場にいたなら、数多くの国民を殺(あや)め、畏れを知らない江青を、どんな言葉で諭(さと)すでしょうか❔
👴李下は、大岡忠相役の加藤剛(かとうごう)さんと徳川吉宗役の山口崇(やまぐちたかし)さんの大ファンじゃったな。
👨あぁ、山口さんは、『クイズ・タ~イム・ショック❗』の司会の人だったね。)
👩しまった❗今朝は、五木さんの📖『運命の足音』を持って出るのを忘れてしまった💦
でも今朝はもう一冊持っている。
きのう、及川幸久さんの新刊がやっと手に入った。
その著書の中で、及川さんが『ディープステート』とは何か❔解説をしてくれている。
p.4
「ディープステート(deep state・略称DS)」または「闇の政府」は、アメリカ合衆国の連邦政府・金融機関・産業界の関係者が秘密のネットワークを組織しており、選挙で選ばれた正当な米国政府と一緒に、あるいはその内部で権力を行使する隠れた政府として機能している」とされる。
詳しくは後述するが、共和党やドナルド・トランプ支持者のみに支持されるという定義のものではない。
NA●A(国家安全保障局)、C●A(中央情報局)、の元局員のE・スノーデンは、政府を超える権力が法や倫理を冒(おか)してまで自己の利益を追及する実態を「ディープステート」と呼んでいる。
彼はそれまで陰謀論やフィクションでしか語られたことのない国際監視網の実在を告発したことで知られる。
ドワイト・アイゼンハワー大統領も1961年1月17日、大統領退任演説で次のように警告している。
「第2次世界大戦まで、合衆国は兵器産業を持っていなかった。軍産複合体の経済的・精神的な影響力は、すべての市と州政府と連邦政府機関に浸透している。その裏に含まれた深刻な意味合いも理解しなければならない。
🌕️軍産複合体が、不当な影響力を持ち、それを行使することに対して、政府も議会もとくに用心しなければならない。⚠️不当な影響力が発生する危険性は、⚠️現在、存在するし、⚠️今後も存在し続けるだろう。❇️
軍産複合体が我々の自由と民主政治を破壊することを許してはならない」
60年も前の演説だ。その頃、ディープステートは生まれたのか❔
とんでもない。アメリカ合衆国建国時から巣くう組織なのだ。
独立前は通貨を発行する利権、独立後もドル札を印刷する利権を独占した。利益はシンジケートで分配し、市民には1セントも渡さない。
戦争を開始させ、戦費を調達し、武器を買わせ、死ぬのは兵士と市民だけ。勝っても負けても、ディープステートは領土と戦利品を頂戴(ちょうだい)し、貸し付けた担保を回収する。
自分たちは安全地帯にいて、危険なことは他人にやらせる。ノーリスク・ハイリターン。
合衆国を金儲けのどうぐとして巨大ヘッジファンドに仕立て上げたのは彼らだ。
(📖『いま世の中で起きている「本当のこと」プーチン危機・米中対立・パンデミック…得するのは誰なのか?』及川幸久 著書 マスコミやネット情報ではわからない「本当のこと」を伝えよう! 徳間書店刊)
👩今朝までに自分が学んださまざまなことを融合させると、ディープステートという組織の人々は、
①ここまでやっていいのか、という畏れを持たない人々。
②この世の中は永遠に続く、と思っている人々。
③無常を感じない人々。
④他人の命など眼中になく、死のうが生きようがどうでもいい人々。
⑤自分のしていることを恥だと思わない人々、
ということになります。
そんな人々が世界を牽引(けんいん・ひっぱる)することを任せてしてよいのでしょうか。
👦❎ダメです。)

本文p.125(単行本)
マイナスとして働く宗教の力

現実の世界では、善人(ぜんにん)というものはいい結果を得ることができる、と誰もが考えます。だからこそ、善人にならなければならない、と教えるわけでしょう。
ところが、親鸞(しんらん)は「悪人正機(あくにんしょうき)」ということをいっています。つまり、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と。親鸞は「善人が救われるよりも先に悪人のほうが救われる」というとんでもないことをいったねのでした。
その時代には、「造悪説(ぞうあくせつ)」という考えかたがものすごく流行(はや)ったそうです。それは親鸞の言葉を現実の言葉として受け取り、悪をなせばなすほど救われる、というふうに人びとが考えたためでした。のちに蓮如(れんにょ)なども必死になってそれと闘(たたか)いました。
これは、宗教の言葉をそのまま現実に持ちこもうとしたところに、大きな問題があるわけです。
「悪人正機(あくにんしょうき)」というのは、実際に悪人が救われるという問題ではない。🌕️つねに善人が救われるのだ、と考えている私たちの功利(こうり)主義的で現実的な考えかたに根底(こんてい)から一撃をあたえるための言葉なのです。🌕️痛烈な批判をあたえて、🌕️本当にそうなのだろうか、と私たちに考えさせるきっかけになるものだと思います。
(👩「悪人正機」については、五木寛之さんのご著書、
📖『私訳 歎異抄(たんにしょう)』(東京書籍、PHP文庫などから刊行)に詳しく述べられています。
自分は善人だと思っている人もいる。自分を知らず、自分が善人だと驕(おご)り高ぶっている人ですら救われるのだから、自分の罪を知り、自分を悪人だと認めている人が救われるのは当然ではないか❗ということ。
「歎異抄」とは、親鸞聖人が、ご自身が説法したことがなかなか民衆に理解してもらえず、異説の流布(るふ)を嘆く文。
👩いつも、「自分の伝えたいことを、他人に正しく理解してもらうのは本当に難しいなあ」と思う。
たとえば、それを聞いた人が、その人の目に見えるような、ハッキリとした「映像で思い浮かべることができるような説明」をしてこなかった。
たとえば『拉致問題』と言っただけでは世界の人びと(外国の世論)にはわからない。
具体的に、たとえば、「闇夜に紛(まぎ)れてひっそりと日本の海岸に上陸して、海岸を散歩していた日本人の男女を、ドンゴロス(麻袋のようなもの)に詰め込んで、工作船にいれて連れ去ったのだ」と、そういう映像で思い浮かべることができるような、ハッキリとした説明をすれば、初めて『拉致問題(らちもんだい)』というものがどういうものかということが外国の人(外国の世論)にも分かったのに、日本政府は拉致問題について、目に見えるような、鮮やかな、ハッキリとした説明をしてこなかった。(馬渕睦夫さんYouTubeより。)
👩オブラートで巻いたような曖昧(あいまい)な漠然とした言葉を使わず、初めて読む人の目に見えるような、鮮やかな、ハッキリとした映像で思い浮かべることができるような説明をしたいと思うが、なかなか難しい。
しかし、なぜ人間は、一番大切なこと、一番言わねばならないこと、一番伝えねばならないことを言わない、またはあいまいにする、または隠すのだろう❔
👨それは、『正しいことは、正しいがゆえに、真実には、それが真実であるがゆえに、多大なリスクが伴うから』ではないかと思う。
👧リスクって❔
👴言うと自分にとって損(かもしれないから)。
👧たとえば「原発が爆発した時」とか、世界にとっての重要事件を、
「自分にとって損だから事実を発表しないでおこう」などと自分の損得で決めてはならないのだ。
「ほうれんそう(報告・連絡・相談)」を怠(おこた)る。そうすると、あとあと世界は大変なことになる。それでも人は、自分を守りたい。
👴人の上に立つものがそれをやったら、人の上に立つべき人材ではない。
👩「戦争」のこともわざわざやわらかいオブラートに包んで「有事」と言ったり。
👨隠したいんだろうな、やっぱり。やわらかく言おうが、単刀直入に言おうが、「戦争」には変わりない。国民には「有事」ってなんだろ❔で、思考停止して欲しいから。
👧やっぱり、教育で「言葉の意味を知る」って重要だな。国民が理解できないように何もかもまわりくくどく難しい言葉を選んでいるんだな。
👦10歳くらいの小学生にもわかり、その子が自分のおかあさんやおばあちゃんに説明してあげられるほど分かりやすく、政府は国民に説明することが必要だと思う。わざと難しい言い方をすると、複数の受けとめかたをされてしまう。それではダメなんだ。
👩先進国政府は自分のところの国民と世界の国民に、さまざまなことを隠し続けて何と、四半世紀(25年)、半世紀(50年)どころか、100年も経過させてしまった‼️)

(本文)
つまり、(「悪人正機」とは)詩的な言葉であり、逆説的な言葉だというべきでしょう。「悪人正機」に限らず、宗教の言葉というものは、ほとんど全部がそうだという気がしてなりません。
2001年9月11日、アメリカで同時多発テロという事件が起こりました。あのとき、聖書の有名な「復讐(ふくしゅう)するは我(われ)にあり。我これに報(むく)いん」という言葉を思い出した人もいるのではないでしょうか。これはトルストイの小説にも書かれている文句です。
この言葉は、復讐(ふくしゅう)というのは人間のやることではない、神の権利だ、といっているわけです。つまり、🌕️人間は決して人間に対して報復したりしてはいけない、🌕️人間はそういう傲慢(ごうまん)なことをしてはならない、ということです。🌕️聖書のなかに、はっきりそう書いてあるのです。

(👨聖書に報復してはならないと書いてあるのに、アメリカ大統領は報復した。
👩イスラム教は「目には目を」。どちらにしても戦争は、やられたからやり返す。やってやられての繰り返し。ネバーエンディング・ストーリー。)
P.127(単行本)
この言葉を原理主義的に受け取れば、人間は報復などということはできないことになる。それどころか、右の頬を打たれたのだから、次は左の頬を出せ、ということになってしまいます。
とはいえ、それはやはりできません。できないけれども、なにかがあったら、すぐに報復だといってそれに倍する暴力を振るおうとする人間の性癖(せいへき)に対して、ひとつのブレーキになるかもしれない。「復讐するは我にあり」と、遠くできこえる神の声が、人間に反省というものをもたらす大事なきっかけになるのです。

傲慢(ごうまん)な人間にブレーキをかける言葉

人間とは傲慢(ごうまん)なものです。🌕️傲慢になってしまうと、なかなか反省ということをしない。🌕️偉大なものへの畏怖(いふ)の感情というものを、失いがちになってしまいます。
🌕️宗教は、そうした愚(おろ)かな人間にブレーキをかける役割をもっているのではないか。🌕️人間というものは、放っておけばものすごく思いあがってしまうものであり、残虐に爆走するものであり、とめどもなくなる。そういう認識の上にあるのが、宗教の言葉なのです。
私(五木さん)はときどきこんなふうに考えてみます。経済というのは、車にたとえればエンジンに当たるだろう。生産力といってもいいでしょう。エンジンがエネルギーを発生し、車をひっぱって走らせていく。
それに対して、たとえば政治というのはハンドルみたいなもので、車を走らせるエンジンに対して方向性をあたえている。カーブになったら曲がる。こういう動きをするのが政治の役割でしょう。
それでは、宗教とはなにか。それはブレーキだと思うのです。ブレーキというのは、前進するプラスの動きに対して、それを阻害するマイナスの動きです。プラス思考に対するマイナス思考にだともいえるでしょう。。ふつうは前へ、前へと進んでいこうとする。宗教はその力をとめようとする反対の力であり、逆に動くものです。
しかし、ブレーキなき車は間違いなく爆走します。それ以前に、ブレーキなき車は走行できないはずです。宗教というものも、つねに人間に対してはブレーキとして働く力だ、反作用なのだ、と考えたほうがいいのではないでしょうか。
宗教は、現実の世界ではプラスになるものではありません。宗教を信じていれば、いろいろな面でプラスになるだろうとか、前進を助ける力になってくれるだろう、と私たちは思いがちです。そうではない。むしろ、現実の世界では宗教はブレーキをかける力だ、ということです。 
(中略)
人間は、とめどなく加速していこうとする性癖をもっています。前年比で、無限に上昇しなければ気がすまないし、お金を儲(もう)ければ儲けるほど、もっとたくさんのものを望むようになってくる。p.130(単行本)
(👨結局、ディープステートな人々もそうなんだろうな。)
人間とはそういう存在です。つねに傲慢になったり、⤵️暴力的になったりし、⤵️そのことを反省しない存在だといわざるをえません。🌕️そういう人間に対しては、なにかが歯止めをかけたり、一瞬立ちどまらせる必要がある。❇️それをするのが宗教の力だ、というふうに私(五木さん)には思えるのです。
そうなると、⤵️宗教はときとして、⤵️ほとんど絶対的に、⤵️反社会的な言動や言説(げんせつ)になります。⤵️宗教の言葉とは、人を感心させるようなものではなく、社会のなかで有効な言葉でもありません。
あの同時多発テロのような事件が起こったとき、聖書の「汝の敵を愛せよ」や「右の頬を打たれたら、左の頬を差しだせ」という言葉はほとんど無力です。👇️それでも、👇️ひょっとすると、👇️この言葉が👇️どこかで響いていることで、👇️極端な報復主義におちいらずにすんでいるのかもしれません。

(👩このご本📖『運命の足音』の単行本は、2002年8月に刊行されたものです。

イラク戦争 ウィキペディア
👉️2003年から2011年にかけて、アメリカを主体とする有志連合とイラクの間で行われた戦争
イラク戦争(イラクせんそう)とは、アメリカ合衆国が主体となり👉️2003年3月20日から、イギリス、オーストラリアと、工兵部隊を派遣したポーランド等が加わる有志連合によって、虚偽のイラク武装解除問題の大量破壊兵器保持における進展義務違反を理由とする『イラクの自由作戦』の名の下に、イラクへ侵攻したことで始まった軍事介入である。
(👨🌕️いつも裁判の宣誓に使っている聖書のなかに、
「❇️報復というのは人間のやることではない、❇️神の権利だから、❇️人間は決して人間に対して復讐したり報復したりしてはいけない、❇️人間はそういう傲慢なことをしてはならない」と❇️聖書のなかに、❇️はっきりとそう書いてある」のに⤵️⤵️アメリカ大統領は報復してしまったのですね。)
p.131(単行本)
ですから、宗教がもっている力というのはそれほど巨大ではない。巨大ではないところに、宗教のもつ偉大さがあるのです。
宗教とは、ささやかな抵抗、ささやかな反省、あるいはささやかな畏敬(いけい)の念を抱かせるものでさす。そういう宗教があればこそ、社会というものは意味があり、人間も愛すべき存在である、といえるのではないでしょうか。
(👴戦争を使って報復しなければ、アメリカ大統領も愛すべき存在だったのに、なぜ❔)
(中略)
p.134(単行本)
宗教や信仰というものは、そういうときに足もとを照らしてくれる月の光みたいなものではないでしょうか。荷物も軽くならないし、(歩く)距離も短くなるわけではない。その点においては何も変わらない。変わらないけれども、それが照っているときといないときでは、歩いている人の心持ちはまるで変わってくる。
心持ちが変われば、足どりだってしっかりしたものになるし、疲れも半分になってしまう。あそこまで行けばいいのだ、という目的が見えているからです。これは真っ暗闇のなかで歩くことの心細さに比べると、ものすごいプラスです。宗教とはそういうものだろうと、私(五木さん)は考えるのです。
宗教の原点をそのように考えてみたとき、宗派とか神とか仏とかいろいろな対象が出てきます。ただし、その区別は、あまり原理主義的(👩辞書引いて)に厳しくしないほうがいいのではないか、と思います。
キリスト教の場合、かつて「十字軍」というものがありました。十字軍というのは、異教徒に奪われた聖地を奪回(だっかい・奪い返す)、という名目で派遣された軍隊でした。しかし、これは簡単にいえば、異教徒征伐(せいばつ)ということにほかなりません。つまり、⤵️キリスト教徒以外の異教徒をすべて敵とする考えかたです。
自分たちの神を信じる。その一方で、⤵️その神を信じない者たちを異端(いたん)とし、⤵️異教徒としてしまう。🌕️その考えかたには問題があるだろう、と私(五木さん)は思っています。キリスト教では、そういう考えかたがずいぶん長くつづきました。
宗教には、⤵️おのれの神を誇(ほこ)るという傾向があります。⤵️おのれの神を誇れば、⤵️ほかの神をさげすみ、おのれの神しか神はなし、と考えがちです。
しかし、⤵️そういうものは宗教とはいうものの、⤵️本来の宗教ではないといえるのではないでしょうか。「宗派」とでもいえばいいのかもしれません。イデオロギー(👩辞書引いて)と党派の関係とよく似ているような気もします。
宗教というものは、そんなふうに、⤵️あるものをただ感じる、というだけのものではありません。🌕️🌕️🌕️🌕️たくさんの人びとが一緒になってそれを感じる、というところに❇️宗教の心強さや意味があるのです。
(中略)
p.140(単行本)
たとえば宮沢賢治(みやざわけんじ)のような人たちは、宗教とはなにか、ということを真剣に考えたにちがいありません。宮沢賢治は法華経(ほけきょう)の熱心な信者でした。そのことを知ると、彼のさまざまな作品や思想が、別の形で見えてきます。
このように宗教の光が射(さ)すこで、あらゆるものがくっきりと魅力的に、いきいきと立体的に見えてくるのではなかろうか、と思うのです。
日本の場合、神仏習合(しんぶつしゅうごう)ということがいわれます。これは神棚(かみだな)と仏壇(ぶつだん)が一軒の家のなかに同居しているように、神道(しんとう)と仏教が同居しているということです。しかもそこにキリスト教も混じってくる、道教(どうきょう)も入ってくる、儒教(じゅきょう)も入ってくる、という形です。
一方、近代というものは、宗教を純粋化していく傾向がありました。世界のさまざまな宗教のなかで、キリスト教、イスラム教などはとくにそうだといえるでしょう。そういわば純粋な宗教に対して、日本は原初的で混沌(こんとん)とした野蛮(やばん)な宗教環境である、シンクレティズム(混淆(こんこう)主義)である、といわれつづけてきました。日本人自身もまた、そのことを心のなかではいつも不安に思っていたのです。(👨そうなんだ。👴この不安は、それなんだ❗)
もうひとつ、近代というものが蔑視(べっし)したのはアミニズム(精霊信仰)というものです。キリスト教的文明社会がグローバル・スタンダードになってくると、アミニズムのようなものを非常に軽蔑(けいべつ)するわけです。それは未開社会ほどアミニズムが発達している、という理由からでした。

(👩私も、ユングの深層心理学のようなものを読む前は、未開社会の人びとを自分より軽視(けいし・低く見る)していました。しかし、それはまったくの間違いでした。未開社会的の人びとのほうが私より、大自然に近くて、大自然からどんなに自分たちが恵み(恩恵)をもらっているかよくわかっている。大自然を大切にしている。私こそ大自然から離れ、大自然を破壊しようとしている人間なのでした。)
つまり、⤵️軍事的・経済的・社会的に劣(おと)った状況におかれている人びとの文化であるということで、⤵️アミニズムは軽蔑される。けれども、❇️これは本当は大事なことではないのか、という気がしてなりません。

すべてのものに命がある

たとえば、環境問題はいま、人間にとって大きな課題だといえるでしょう。しかし、環境問題はヨーロッパ的なキリスト教的文化観では解決できない、と私(五木さん)は思っています。というのは、ヨーロッパの人たちの考えかたのなかには、人間中心主義というものがあるからです
この地球上で、あるいは宇宙のなかでの⤵️主人公は人間である、という考えかたが西欧には根元にあります。これはルネッサンス以来の人間中心主義の思想が根底にある、といえるでしょう。
⤵️その人間の生活に奉仕(ほうし)するものとして、⤵️人間以外の動物があり、⤵️植物があり、⤵️鉱物があり、⤵️もちろん水も空気も山も海も、です。⤵️これが、人間中心主義の考えかたです。この思想にのっとって、近代というのは、⤵️人間の生活を豊かにする目的で、⤵️地球に存在するあらゆるものを酷使(こくし・ひどい使い方をすること)してきました。
そこから引き起こされたのが、環境問題です。(中略)
❇️つまり、いちばん大事な人間の生活を守るためには、もっと自然環境を大事にしなければならない。
(👴👨👩👧👦
だから、自然環境に悪影響を及ぼす戦争など始めてはダメです。なぜならば、戦争の終結のために、ヒロシマ・ナガサキの威力をはるかに超える核兵器使用の可能性があるからです。

👨五木寛之さんの📖『運命の足音』(幻舎社 刊 単行本・文庫)は、五木さんの著書の中で、僕にとってナンバーワンの大切な本となりました。こんなに、本と、自分自身と問答をさせてくれて、深く考えさせてくれる本に久しぶりに出会うことができました。この本で、どれほど人間というものが愚かな生き物かわかりました。僕も愚かですが、愚かで強欲で頭のよい人間に世界は征服されやすい。それは僕が愚かだから。そういう人間に騙されて戦争に引き込まれることのないよう、これからはもっと視野を広げて、世界の様子を注視していきたいと存じます。
五木さん、ありがとうございました。自分は、五木さんの文章の間に、自分の問いや意見を交えの邪道を、本当に失礼いたしました。敬具。