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新世界秩序と日本の未来 米中の狭間でどう生きるか、日本は。

2021-09-03 05:27:54 | 日記

 

📖『新世界秩序と日本の未来 米中の狭間でどう生きるか』姜尚中・内田樹 共著

「台湾侵攻」は起こるのか❔

コロナ後の派遣国とは❔

時代を代表する論客ふたりが、不透明な世界の先行きを展望する。

(集英社新書)

(👨文章を割愛・短縮させていただきました)

序論-世界史を動かす舞台としての東アジア

日本に突き付けられた「究極の選択」

P.10~

こうした状況下で最大の問題は、東アジアにおける地政学的対立の前線で米中が衝突するとき、日本はどちらの側に立つのか、ということである。(中略)

アメリカを中心としたG7のメンバーである欧米諸国は、対中●のもとで「シーパワー」陣営(海洋国家連合)を形成し、オーストラリアもそこに加わろうとしている。(中略)

もし日本が完全に「シーパワー」の国々と歩調を合わせるとすれば、経済面も含めて、中●側からの甚大なリアクションを背負い込む結果となることは避けられないだろう。米中対立の狭間で、日本はギリギリの「瀬戸際」に立たされている。

このジレンマを抱えているのは、中●を最大の貿易国とする韓国も同様である。日本と韓国の決定的な違いは、朝鮮半島が南北分断を強いられている以上、韓国は北朝鮮に大きな影響力を持っている中●にあからさまに敵対する選択を取ることはできない。もし日本が「シーパワー」陣営に全面的に加わるとすれば、朝鮮半島という緩衝地帯を前提とすることができなくなり、米中対立の最前線は38度線から玄界灘へと、一気に後退せざるを得なくなる。

私(姜氏)は、こうした状況下で日本が安易に「シーパワー」の側につくことは自殺行為にもなりかねないと危惧しているが、↙️

(👨日本の知識人たちが語りだした❗それも書籍となって)

➡️日本にとっての選択肢は、単に米中どちらにつくかという二者択一ではない。日本や韓国のような中規模国家が米中という2つの超大国に挟まれつつ、それでも生き残るための「第三の道」は必ず存在する。

たとえば韓国は今、「新南方政策」という、南アジアとの関係を重視する方向へシフトしつつある。これは韓国にとっての「第三の道」を模索する動きだ。

共に米中対立の狭間にある(👨狭間❗)日韓が連携し、東南アジア、さらにはインドを巻き込みながら、東アジアのハートランドとリムランドをめぐる地政学的な対立を緩和するような回廊をつくることは突破口となる。

対米重視という立ち位置は守りつつ、日本はまだ全面的に「シーパワー」陣営に加入することを決めていない。

これからの10年、20年の東アジアが、世界がどのように動いていくかは、日本の選択にかかっている。いまだかつて、日本がこれほど重い役割を担ったことはなかった。

だが、今の日本政府にこのような大きな決断を要する選択を委ねられるのか❔強い不安を感じる。

(👨👩そうなんだ……。)

(中略)

大恐慌後に起こる国家と社会の構造的転換

米中の対立を読み解く上で、1930年代の歴史を振り返ることも有用。

1929年のニューヨーク株式市場での大暴落に端を発した大恐慌に直面し、世界の主要国のうち

①日本、ドイツ、イタリアは、ファシズム的な体制

②ソ連はスターリン主義的な計画経済の道

③アメリカはフランクリン・ルーズベルト大統領のもと、ニューディール型の資本主義体制

を選択した。

この①~③の三つの選択肢に共通していたのは、ハンガリー出身の経済学者カール・ポラニー(1886~1964)が1944年に主著📖『大転換』で喝破したように、これらは体制やイデオロギーの違いこそあれ、いずれも19世紀後半以来の自由主義的な「自己調整型」市場経済の崩壊から立ち現れてきた「国家主導型」の経済再生だった。

(中略)

グローバル化の掛け声の陰で、自然災害や政変などの大惨事につけこみ、(👧誰が❔👨イギリスのサッチャー政権やアメリカのレーガン政権)途上国や新興国に強引な形で市場万能型市場主義が導入されてきたことは、カナダ人ジャーナリストのナオミ・クラインがその著書『ショック・ドクトリン』(2007)で告発している通り。

 

ポラニーはすでに70年以上前に自己調整型市場が孕(はら)むリスクを指摘。グローバル化を「ユートピア」に過ぎないと指摘した。(中略)

すべてが自己責任に基づく市場経済のメカニズムに委(ゆだ)ねられた結果、極端な差異の拡大や地球環境の破壊など、様々な綻(ほころ)びが生じている。

 

そうした三つの展開のなかで少し異なる展開を見せたのが、計画経済の道であった。一度はソ連の消滅で潰(つい)え去ったかと思いきや、共産国家・中●のなかでスターリンの亡霊は生き続けた。

そして、とうしょうへいの改革解放路線を経て、現在の「社会主義市場経済」、いわば国家が主導し管理する資本主義という形に変容していったのである。

コロナ渦という世界的危機のなか、人々の生存すら保証できない新自由主義グローバル経済の無力さが露(あらわ)になった一方で、中●型の国家資本主義、つまり国家が主導し管理する資本主義がまったく新しいモデルとして台頭し、世界の資本主義のなかで巨大な役割を担(にな)いつつある。

1930年代、世界的な大恐慌で疲弊した社会を再生する最後の拠り所(よりどころ)となったのは国家であり、国家は大きなアルキメデスの点(絶対確実な究極的根拠)となった。

そして今や再び、コロナ・ショックによる大恐慌の予感のなか、生命と財産を死守するための最後の望みが、国家の強化とその役割の拡大に託されている。(中略)

これからはアメリカと中●が世界の二大国家管理型資本主義として対峙(たいじ)していくと同時に、コロナ渦でグローバルな人や物の移動が制限されるなど、世界中で国家管理型体制が加速することが予想される。

そうした状況において、その国が成熟した民主主義を前提とする「強い社会」なのか、

あるいは国家の専横になすすべもない「弱い社会」なのかは、その国の運命を決定づける大きな分かれ道となる。

 

強い国家に呑(の)みこまれないために

ここで状況をわかりやすくするために、仮に次のような図式を設けて整理する。

A「強い国家」と「弱い社会」(独裁政権等の専制国家)

B「弱い国家」と「強い社会」(成熟した民主主義国家)

C「強い国家」と「強い社会」(社会が国家を信頼し、非常時などに私権の制限を許容する)

D「弱い国家」と「弱い社会」(社会が国家を信頼できず、また国家も社会を統制できない)

 

言うまでもなく、現在の中●が突き進もうとしているのはAの道であり、これはかつてのファシズムやスターリン主義的な国家を彷彿とさせる、強圧的な「強い国家」の方向性である。

アメリカは、米中対立の構図を「民主主義」対「専制主義」というきわめて単純化された二元論に落とし込み、「正義は我々の側にある」と主張していくことになるだろうが、

世界第2位の経済大国へと躍進を遂げ、コロナ・パンデミックを「制圧」した中●の成功例に、今や説得力を感じる国々も多い。

これに対し、たとえばドイツは本来、Bの「弱い国家」と「強い社会」の組み合わせであり、国家は常に「強い社会」の側から規範や制度の足かせをはめられていた。にもかかわらず、コロナ渦では国家が強大な権限を行使し、強力なロックダウンなどで国民の私権を制限しているが、

これはあくまで「強い社会」から権力を例外的に委任されたものであり、一時的にCのパターンとなっているといえる。

ドイツ型の「強い社会」は、17~18世紀の西ヨーロッパで起こった市民革命を経て築かれてきたものである。だが、もちろん「強い社会」は欧米の専売特許ではない。1980年代まで軍事独裁政権が支配するAのパターンに身を置いていた韓国や台湾では、民主化を経て「強い社会」がもたらされ、やがてBへの移行を遂げた。

そのことは韓国と台湾が一時的にCのパターンを実現させて、新型コロナウイルス対策で目覚ましい成果を遂げたことと無縁ではない。

将来、Aの「強い国家」路線を行く中●から「強い社会」が生まれてくるかどうかは未知数だが、「強い国家」のもとでは必ず「弱い社会」が生まれるわけでもないということだ。

「強い国家」と「強い社会」というこのふたつの類型は、ウイルスの拡散を押さえ込み、経済を立て直すだけにとどまらず、コロナ後の政治や社会、そして文化や意識のあり方までをも規定することになるだろう。

コロナ時代を生き抜く上で、日本にとって望ましいのは、当然「強い国家」と「強い社会」の組み合わせである。

しかし実際には、今の日本はDの「弱い国家」と「弱い社会」の組み合わせになってしまっているように思えてならない。

(👴👨👩👧ギャッ‼️どうする⁉️)

対外的には、世界第3位の経済大国である日本は「強い国家」と見られているかもしれない。だが、その内実は、コロナ渦という一大危機を前に、国家を担うパワーエリートたちが、

1)自らの出処進退や責任を賭けて強制力を伴う非常権限を行使することに尻込みし、

2)他方で「お願い」「要請」という形での「忖度政治(そんたくせいじ)」を国民に押し付けている。

そのような無責任体制を糺(ただ)すべきメディアの筆は鈍く、事態がずるずると深刻化していくのを許している。

疲弊した人々の間では諦(あきら)めたような空気が蔓延し、

(国民の)怒りの矛先は政府へではなく社会的弱者へと向かいがちである。

残念ながら、日本の社会が「強い」と言えるかどうか、はなはだ心もとないのが実情だ。

このような(日本の社会の)危うさは以前から存在していたものだと言えるが、それがコロナ渦によってさらに増幅されている。

コロナ渦が長期戦の様相を帯びるなか、「弱い国家、弱い社会」のもたれ合いが続いてコロナ対策が失敗するということになれば、

日本でも「強い国家」が全面に出てくる可能性が高い。

💀そのとき、 日本の「弱い社会」は「強い国家」に呑み込まれてしまうのか⁉️

🌕それとも韓国や台湾のように危機を乗り越えて「強い社会」に鍛え上げられていくことになるのか。

これが、我々が立たされているもうひとつの「瀬戸際」だと言える。

 

(👩テーマからそれるかもしれませんが、日本人は周りに流されやすいのではないか❔周囲を観ていると、日本人は仕事はものすごく良くできて最高に有能だが、万が一またナチスドイツのような勢力が来たら案外さっと強い方になびく人々が大半なのではないか❔

👨仕事ではよく一人の人間のことを「あなたは今日、要る。あんたは要らない」というようなせりふが飛び交っているものね。聞いていてあれはほんとうに嫌だな。でもぼく自身、「そんな言い方はやめなよ」と言えないでいる。)

 

 

このような問題意識のもとで、本書はまず第一章で2013年以降の自民党政権んを総括し、

第二章では、トランプという異形の大統領によってあぶり出されたアメリカの特異さと今なお続く国民的分断について、建国以来の歴史を踏まえつつ考察。

また、第三章では、単なる「反中・嫌中」ではない幅広い視点から、アメリカと並ぶ超大国となった中●について論じた。

これからの世界秩序を見通すにあたっては、まずはアメリカと中●の二大国についての理解を深めることが必須だからだ。

続く第四章では、トランプ政権下で対立が深まった米中関係の行方を様々な角度から考えてみた。

そして全体のまとめとなる第五章では、それまでの議論を踏まえた上で、米中対立という地政学的な対立の狭間に置かれた日本の行く末について展望している。(中略)

市場万能型のグローバル市場主義に翻弄され、コロナ渦で疲弊しきった日本において、悲観的にならざるを得ない問題は山積している。 それでも内田氏も私も、希望は残されていると信じている。

🌕前途は決して暗いばかりではなく、新しい道も見えているのだということを、読者に提示できれば幸いである。

 

第三章    中●について考える

(中略)

中●が今後どうなるのか、あるいは米中関係がどうなっていくのかということについては、今の大陸中●をひとつの国民国家とみなすような単純な見方をしていたのでは全体像を掴めない。