「山と葉っぱと猫が好き」
プカプカはこのタイトル通り、山が大好き、葉っぱが大好き、最近はお花も大好き、そして、猫が大好きなひとです。
その「猫」の話があんまり登場しないブログですが、久しぶりにちょっと書いてみます。
Twitterでは何度かつぶやいたことがありますので、すでにご存知の方もいるかもしれませんが、
プカプカが長年一緒に暮らしていた猫のにゃん太は、2014年1月末に突然、あっけなく他界しました。
まだ17歳でした。
朝起きたら…
…およよ
ちょっとこの話、ちゃんと向き合って書こうとするとやっぱりしんどいみたい…
胸の中がざわざわして、苦しくなってきました。
てなことをこの数年繰り返して、まともなご報告ができずにいます。
3年経って、最近は知人や友人の前で話せるようになってきたんですが、それは「亡くなった時」の話ではなく、「亡くしたあとの自分」の話なんですよね。
何年かは猫が亡くなった事実から目をそらしていました。
生きていたその存在すら忘れようとしていました。…ひどい話ですね。
とても重たい蓋でふさいでおかないと、激しい悲しみに襲われて、ふつうに生きていけなくなるのです。
人と笑顔で語り合ったりできなくなるのです。
猫という生き物の存在を見ること聞くことのすべてがつらくて、
猫の話をする人がいるとすごく忌々しく思えたし、
目の前に野良猫がいても目をそらして存在を無視していたし、
猫がテレビに出るとすぐチャンネルを変えたし、当時放送していた大好きな『猫侍』も見れなくなってました笑
今でも、あの子のことを思い出すのが怖いというか、不安というか、自分を制する自信がなくて、重たい蓋は閉じたままです。
思い出にふけることができません。写真を見ることもできません。
(夢にはよく出ます)
それが近頃はようやく、猫が出るテレビを見られるようになったし、思い切って猫カフェに行って猫とふれあうこともできました。
(これはちょっとランクが高すぎて心を強く保っていないとしんどかった)
やっぱりわたしは、猫が好きなんですよねぇ…
好きなものは好きで、見ていると癒される。あの表情、目、口元、しぐさ。
気持ちが自然とほころんで、あったかくなります。
時の流れは傷を癒やす力があるとよく言いますが、ここまで変われたのはすべて時間のおかげです。
ただどうしても、よその猫を見てほのぼのしていると重たい蓋がゆるんでしまい、ふっと亡くした猫の存在を思い出し、目の前の猫に面影を投影してしまう瞬間があり、ぐっと苦しくなるのです。
そんな時は目をそらしたり、テレビならチャンネルを変えて、気を紛らわせて別のことを考えたりします。
まだまだ、まだまだ時間は足りていないってことかなー
プカプカはにゃん太のことを自分が殺した、不幸にしたと思っているので、その罪は許されることではなく、これからも一生抱えていくつもりです。
激しく自分を責めるようなことは以前のようにはしていないし、喜びを感じること、しあわせを求めることもできるようになったけど、自分の中の「罪」は消えません。
抱えていくと言いながら、亡くなったことを忘れようとして、存在を思い出そうとしないのに、他の猫を見て癒される。
その時点でひどい矛盾してますよね…
忘れようとしていることがすでに罪なんです。ひどいやつなんですよ、わたしは。
結局、自分が一番大事なんです。
自分はひどい人間なんだということを胸の底に潜めながら生きていくことは、とてもせつないですね。
「失う」ってそういうことなのかもしれません。
3年前なんて、ついこの間です。今のこの状態が、やっとです。
さて、これ以上書くと重たい話しか出てきそうにないので、終えることにします。
これからは、いろんな場所で出会う猫の写真でも、たまには載せてみようかな。。。
プカプカはこのタイトル通り、山が大好き、葉っぱが大好き、最近はお花も大好き、そして、猫が大好きなひとです。
その「猫」の話があんまり登場しないブログですが、久しぶりにちょっと書いてみます。
Twitterでは何度かつぶやいたことがありますので、すでにご存知の方もいるかもしれませんが、
プカプカが長年一緒に暮らしていた猫のにゃん太は、2014年1月末に突然、あっけなく他界しました。
まだ17歳でした。
朝起きたら…
…およよ
ちょっとこの話、ちゃんと向き合って書こうとするとやっぱりしんどいみたい…
胸の中がざわざわして、苦しくなってきました。
てなことをこの数年繰り返して、まともなご報告ができずにいます。
3年経って、最近は知人や友人の前で話せるようになってきたんですが、それは「亡くなった時」の話ではなく、「亡くしたあとの自分」の話なんですよね。
何年かは猫が亡くなった事実から目をそらしていました。
生きていたその存在すら忘れようとしていました。…ひどい話ですね。
とても重たい蓋でふさいでおかないと、激しい悲しみに襲われて、ふつうに生きていけなくなるのです。
人と笑顔で語り合ったりできなくなるのです。
猫という生き物の存在を見ること聞くことのすべてがつらくて、
猫の話をする人がいるとすごく忌々しく思えたし、
目の前に野良猫がいても目をそらして存在を無視していたし、
猫がテレビに出るとすぐチャンネルを変えたし、当時放送していた大好きな『猫侍』も見れなくなってました笑
今でも、あの子のことを思い出すのが怖いというか、不安というか、自分を制する自信がなくて、重たい蓋は閉じたままです。
思い出にふけることができません。写真を見ることもできません。
(夢にはよく出ます)
それが近頃はようやく、猫が出るテレビを見られるようになったし、思い切って猫カフェに行って猫とふれあうこともできました。
(これはちょっとランクが高すぎて心を強く保っていないとしんどかった)
やっぱりわたしは、猫が好きなんですよねぇ…
好きなものは好きで、見ていると癒される。あの表情、目、口元、しぐさ。
気持ちが自然とほころんで、あったかくなります。
時の流れは傷を癒やす力があるとよく言いますが、ここまで変われたのはすべて時間のおかげです。
ただどうしても、よその猫を見てほのぼのしていると重たい蓋がゆるんでしまい、ふっと亡くした猫の存在を思い出し、目の前の猫に面影を投影してしまう瞬間があり、ぐっと苦しくなるのです。
そんな時は目をそらしたり、テレビならチャンネルを変えて、気を紛らわせて別のことを考えたりします。
まだまだ、まだまだ時間は足りていないってことかなー
プカプカはにゃん太のことを自分が殺した、不幸にしたと思っているので、その罪は許されることではなく、これからも一生抱えていくつもりです。
激しく自分を責めるようなことは以前のようにはしていないし、喜びを感じること、しあわせを求めることもできるようになったけど、自分の中の「罪」は消えません。
抱えていくと言いながら、亡くなったことを忘れようとして、存在を思い出そうとしないのに、他の猫を見て癒される。
その時点でひどい矛盾してますよね…
忘れようとしていることがすでに罪なんです。ひどいやつなんですよ、わたしは。
結局、自分が一番大事なんです。
自分はひどい人間なんだということを胸の底に潜めながら生きていくことは、とてもせつないですね。
「失う」ってそういうことなのかもしれません。
3年前なんて、ついこの間です。今のこの状態が、やっとです。
さて、これ以上書くと重たい話しか出てきそうにないので、終えることにします。
これからは、いろんな場所で出会う猫の写真でも、たまには載せてみようかな。。。
この3年、山に行くときはにゃん太の遺骨と一緒です。
写真は見れないけど骨なら見られる。なでることも話しかけることもできる。
一応、現実は受け入れてるってことなのかも。
今回の投稿は、コメントの受付をおやすみさせていただきます。
使用したイラストの配布元:「かわいいフリー素材集 いらすとや」http://www.irasutoya.com/