I am NOBODY! Who are YOU? ~ ぽーぽー的ACIMブログ『エセー』 ~

“ひとのフリ見て我が(ego)フリ直せ” ナマケモノ系acimerの
『NO』奇跡のコース×奇跡講座×奇跡の道なエセー

さんげ「 I'd Rather be a Shellfish 」 失語と沈黙のあいだ

2023-08-31 | homeworks
またしばらく何も書かなくなった。
自分が 自分で なかったわけだ。
久しぶりで 日記に立ち返って見ると、
ずい分 ながいこと 空家になっていた家に 帰って来たような気がする。
                                 ( 1957.8.9 )


谷口崇「走れ!トーマス」



山陽本線 
宮島口岩国方面
いつもの列車に乗り いつもの駅に着く。 

久方ぶりの訪問だった。

なじみ深い いつものひなびた駅舎が
いつの間にか 真新しく 建て替えられていた。

 知らず 知らずのうち
 世界は 私を追い越してゆく。


さながら 竜宮城から戻った 令和のウラシマタロウ

真新しいバス乗降場に停まっていた
いつものバスを見つけ あわてて乗り込んだ。

バスは一時間に 数本もない
かの人の家は 山の中腹、峠に あった。




目の前を なにかの実態か
黄煙がクルクルクルと 急速に過ぎる



くねりくねり  バスが 細い山道を登る。

  なつかしい稜線
  かわらない風景に 安堵する。
  
「あかのまんまの咲いてゐる
  どろ路にふみ迷ふ
  新しい神曲の初め」
・・・か

しんりょくの在所は
都会のひとでなしを ひとりの人間に かえしてくれる


 空蝉の慕情よ まだ みちなかだ。

  群青めぐる なつ空も 
  やるせない をりふしも
  二度とない この私とともに いずれ さめる景色だろう

あおあお茂る このむねの郷愁は 未だ このわれよしを おのぞみだ。




ピカッドンと一瞬の間のあの静寂しじま
 修羅と化するときのあの静寂



のどかだった風景が かすかに逸れ

ふと、違和を覚える 刹那
車窓の外を よく観ると バスは 見慣れない道を登っていた。

  しまった。 また間違えたらしい。

同じ路線を走る 行き先違いのバスの事を すっかり失念していた。


慌てて下車する
外は 燃え盛る真夏の 真昼間。 

  仕方ない。 私は のろのろ 急な峠道を 登った。


  そこは まさに「危険な暑さ」という 言葉そのものだった。


フィンセント・ファン・ゴッホ《 2本の切ったひまわり 》


以前 うたの先生に教わった。 

 「 雨という言葉を使うなら
  雨に濡れるような言葉 で なければ ほんとうの言葉では ない
と。

  空調の効いた屋内に い続けると 成 程
  ひとは 「危険」も「暑い」も 口先の言葉になるのも 頷けた。 

  白熱するさか道に 自分がどろどろとけてなくなると
  私の世界を うつしとった 「危険な暑さ」という ただの言葉が  を 帯びる。


「 自分が雨に濡れるようなときに ふと 出た言葉でなければいけないよ」

     「 自分が 書いては 駄目だ
       自分が 有っては 駄目だ 」




Mili「world.execute(me);」


「 言葉に 聞いて はじめて 
 人間は 語ることができる。 うたえるようになるんだ。」


・・・ヒに むかう 
ものかきをするようになって 痛感する。

言葉に が 宿る
言霊という現象は ひとの作為を 受け入れない。


ジブンが ゆるされない。これは 苦行だ。

みな 自分が 分かりたいように分かった 言葉イイ で 分かっている「自分」だ。


そんなジブンの言葉の共有 「わかる」
     イイあいに ナレた ジシンの 行為カルマ を 私は それゆえ 信用しない。




鈴なりの満員電車 宙に飛び
落ちてつぶれぬ 地にペシャンコに



「危険な暑さ」という 火炎ことば
雨に濡れる 湿潤ことば も 持たぬ人間の言葉イイが 口先になる 道理 だ。

自分が 分かりたいように 分かるタグイの
    饒舌な 言葉イイに いのちも たましいも「ない」

いのちも たましいも「ない」から
名ばかりの神仏をカタり、形だけの理智を イイワケに せざるを得ない。 

   口先の人間には 自分の 言葉イ・ミ が 理解できぬ。


そんな 口先人間カミサマのところには
 
  自分と同じ 名ばかりの 言葉 
  自分と同じ 美々しい 価値感を 言いつのられ
  自分と同じ 中身のない「ひとつ」のヨイを 共有し得る

自分と同じ アイの 口先人間イエスマンばかり 集まるは 自明の理





ズロースもつけず 黒焦の人は をみな
乳房たらして 泣きめき行く



自分以外 誰もわからない 寝物語イイあい に 夢中の
 お悟りあそばされたカクセイ者殿、愛の化身と称すヒロイン然り

ミロクだか 絶対神が 人間サマに ヘリくだる
よき 神話イイわけ が 大手を振ってまかり通るのも 無理はない。


みな 自分勝手 
ミ勝手な言葉、ひとり善がりの 言葉アイ・ヨク に 過ぎぬ。

 人の数だけ 
 その人ナリの 真実マ・コト が 成り立っておる。



  ジシンのうちに かがミがない 
  此処は よいチに イイなりの・・・・ ・・・・・ 自分アイ・ゼン が 「善い」と されるところだ。




シン化なされた 
高等選民カミサマの お慰みモノにされる 我ワレ 

頭のない 自我ニンゲン にゃ アリ難い 高尚な教えや  
感動ビルドゥングスロマン なんぞ 腹の足しにもなりゃしない。

小生 安くて旨い 飯食イイ
    自分のケツが拭ける カミ が ありゃ 十分コト足りる。
 

    「 すべて よくしたい 」


人間の あまりに 人間ゆえのあり様は 
それぞれが それぞれの あり方でイかされ みな イきているのだ。

  ひとはひと。 私は私だ。

    己のみちを のぼり

    己のみちを くだればよい


                     要は それだけのコト。



Moderat - Rusty Nails -


一日中 死骸をあつめ 火に焼きて 
處理せし男 酒酒とうめく


ほうほうのていで
辿りついた かのひとの家で 

ふるまわれた 酒を 一気に飲んだ。

  うまい。

汗をかいた後のビールは 格別である。

家庭菜園の甘長とうがらし、
なす、かぼちゃの揚げびたしに

細切りの新ショウガ入り きゅうりの浅漬け

ニンニク、ハーブを たっぷり使い
塩こしょうとオリーブオイルを 回しかけただけの

肉と夏野菜の シンプルなグリルを ぺろりと 平らげた。


  


普段とは 違う ひととき

普段は 観ない テレビを観ながら
普段 あえないひとと 同じじかんを 過ごす 

こんな 非日常 は いい。

ヒルもヨルもない 仮想現実空間メタバース に いると 
しらず知らず イジョウの自分に 成ってしまう。

目と耳ばかり肥大した 高踏の人間は イヤだ。

世の中の 悲惨な出来事でさえ
「アセンション」だの「ワンネス」だのと サケの肴にする。

    ヒトゴト ではない。

ここで 言葉を重ねれば 重ねるほど
イジョウな自分でなければ  よくイきられないところだ。


   

天上で 悪鬼どもが 
毒槽を くつがへせしか 黒き雨降る



その日は 日航機墜落事故の あった日だった。

いたましい事故だった。
だが、当事者でない人間にとって 所詮 ヒトゴトの悲劇で あろう。


  ヒトゴトは おそろしい。
 

昔、富士山上空で 旅客機墜落事故が あった。

乱気流が 原因とされる
その事故は 神に義を尽くさない 人間達に対する 
太郎坊の怒りだと 修験者だった しじんさんが 言っていた。

富士山の太郎坊は、頭上を飛んだ旅客機を
墜落させる程の 強烈なパワーを 持っているそうだ。


フィンセント・ファン・ゴッホ《 ひまわり(12本)》


その怨念は 太郎坊の掛け軸を見ただけで 狂死者が続出し、
掛け軸の写真だけで 死ぬ人も出たと言う。

撮影したカメラすら 破壊する 神威 で ある。

 こういうものが
 この先 どんどん表に出てくる


霊的世界に通じていた 彼のひとは そう言った。



神事について 正直 私は 殆ど 知らない。

だが しかし、この仮想現実空間内に 充満する
ジョウタイ化した 神仏の如き 万能・絶対感、多幸のすぎる ヨイ に 

私は 名状しがたい イジョウ を ずっと かんじ続けている。



La Casa Lobo - 「 オオカミの家 」 - The Wolf House


命欲し つひに結びめ 解けば 
はらっと 届かぬ 底に落ちてゆきたり


しじんさんの使命に
かかわった人間は 短命 に なるという。

神に告げられたソレは 彼に課された 残酷な運命 だったそうだ。

しじんさんは 大切な ひとたちを たくさん 亡くした。
彼が亡くなった後も 彼の代理人たちが 立て続けに 亡くなっている。

いまだ その神威 が 続いている。


これが どういう事か わかるかい・・・ ・・・・・・ ・・・・・

 彼の言葉いのちは 存続している。
 あなたは まだ いきている。





「 貴方が 死んでも、
  無限 に 近い苦しみが 待ってるだけです。

 自分の魂の役割・約束を 果たさないまま
 死ぬのは、宇宙や 地球に対する 裏切り です。

  自分の命は 自分の命であり、
  他人の命は 他人の命です。


 他者と 異なるからこそ、
    個々の命の尊厳 が 成立するのです。

 貴方は、ご自分の命のみならず、死んだ その人の命も 冒涜 しています。





貴方は その人を 愛していたのではない。

それは 貴方の 偽善的愛着、自己憐憫に 過ぎない。

どんなに キレイな言葉を使っても、
貴方の心には 自己中心の 汚い欲望・執着しかありません。


亡くなった方は 生前、
貴方を 楽しませたり、喜ばせたり、優しくしてくれたのかも知れません。

非常に 大切な存在 だった。

    しかし その人は 消えた。

    喜ばせてくれた対象は もう存在しない。
     執着していた対象が 消えてしまった。




貴方はずっと、
自分のエゴのために 相手を 利用し続けていた。

そして死後においても、同じく 利用し続けようと 悪掻きしているのです。

     死んだ者は 生き返らない。
     これが 現実 です。

  この現実を 腹の底から認め、
  受け入れ、執着を 断ち切る必要があります。

  貴方に 必要なのは、愛着の正体 を 見極めることです。

  徹底的に 自分を見つめること です。      R K


Haruka Nakamura & Luca 「 夕の星かげ 賛美歌 第3番 」


酒あふり 酒あふりて 
死骸焼く 男のまなこ 涙に光る


「A Course in Miracles」で
「あい」と「おそれ」について 徹底 して学んだ。

有り体のじぶんの言葉が
脱落していく過程を 観ているうち 

我々の「わかる」「わかりあえる」根源のチ : 全一性ワンネス とは

「いきのびたい」生物の 本能リビドー の 生んだ
 「全き」神であり 愛、真実という名の ムゲン と 感得した。




な る ほ ど・ ・ ・ ・。 

「わかる」「わかりあえる」 このチ的快楽ヨイ と 結びついた
    行為カルマ なくして  私たち イき物は 末ながく存続できない。

人類という生き物が 此処まで繁栄したのは
「わかる」「わかりあえる」チ的根源ベース が 多岐に分化し

      多様化 した 御蔭だろう。



武器持たぬ 我等 国民くにたみ
大懺悔の心を持して深信に生きむ




元々が 「飢え」「苦」解消のための
生物の 生存本能リビドー による 「全き」神であり愛、真実のイイ故

生存本能の強い 「いきのびたい」ヨイ 動物にんげん ほど 
神や愛、真理のような 絶対的権威を 私物カミ 化して「いる」だろう。

その イイ観念エサ を 巧みに利用した
「全き」ごジシンの極楽浄土パラダイスを ヨク 肯定して「いる」だろう。
 
カルト宗教に通ずる レイの「おそれ」知らずな「あい」なる


シ コ ウ 構 造 だ・ ・ ・ ・ ・ ・




(神の愛)だか (悟り)(ワンネス)
(絶対)(普遍)(実存)の「ある」だの、

(空性)(無)(ニルヴァーナ)「ない」だの

印象操作にツカエル 見栄え(よい言葉)
(観念・概念語)(専門用語)のような 知的言語の 多用 に 反映する

おカミの チ的 独裁体制トップダウンなる 自己正当化いい・ワケ じゃないかね

      ソコで イイなりし 絶対神バ・ケモノ サマよ。


死ぬ時を 強要されし 同胞はらから
たまにたむけん 悲嘆の日



Elliot Moss 「 Without The Lights 」


自由度の高い WWWワールドワイドウェブでは
斯様な チ的支配関係「ワンネス」を 無自覚 に 許容する素地が 揃っている。

「フィルターバブル」然り
「エコーチェンバー現象」 等々

IT技術や 人心掌握に 多少覚えが あれば テクニック・方法 戦略次第で

どうしようもない ガキ畜生も
ヒトカドの 大人物になれる、此処は そんな 仮想現実空間ゴクラク だ。


「自分」の イのままに ごソウゾウ出来得る
イマ・ココは イごこちのよい、実に こころヨイ ところだ。


ここに イられる 無辜の「自分」サマなら ヨク 愛せよう。


よく「わかる」「わかりあえる」モノたちだけの 
         閉鎖的ナレあいが ここの 主 流 だ。


よく「わかる」「わかりあえる」モノたちだけしか よくイけない

  ここは「全き」イジョウ
  シコウの 天国ワンネス であるから。






・・・・・・私には「わからない」

「わからない」わたしが ここにいる。
「わからない」のに ここで いきている。

 ここは 「わからない」事だらけだ。

   こわい。

よく「わからない」 わたしは ひとから 咎められる。

よく「わからない」にんげんは 
よく「わからない」うえのものに
よく「わからない」モノゴトにもかかわらず  従わなければならない。




わからない。

「わからない」は かなしい。
「わからない」のに かなしい。

「わからない」事だらけの 自分だ。

わたしは この自分に 誠実 で ありたい。

「わからない」自分を 全うしたい。 

それ故 よく「わかる」「わかりあえる」ひとばかりと イたがる
       「A Course in Miracles」イイひとたちから 私は 離れた。

その後  同様の 他スピリチュアル、
    精神世界関係者しかない ヨイつながりも 絶った。




有形ランペイジ 「 ロストエンファウンド」feat.majiko


平凡なことですが、もの価値は、
それが うしなわれてみて、はじめてわかる、

うしなうということは、いうまでもなく 不幸なことです。

しかし、その不幸なことによってしか、
私たちは、ものごとの存在の重みを 知ることができないのです。


   ひとが スピリチュアル、
   精神世界に 献身する理由は 何であろう。

   始終 よく「わかる」「わかりあえる」モノたちに 執着する

     その自分は「何」か。

   自身に せいじつに むかえぬ者は 
       しんじつ 不幸な自分だという 証左あかし では なかろうか。




ただ 私たちには、うしなうということは
奪われることだという、被害的発想が げんとしてあります。

失語というばあいでも、それは おなじです。

しかし、ことばを 私たちが うばわれるのではなく、

      私たちが ことばに 見はなされるのです。

       ことばの主体が すでに むなしいから、
       ことばの方で 耐えきれずに、主体である私たちを 見はなすのです。


もう ほとんどの人間が 
    「 魂から見捨てられた人間 」 だと、しじんさんは言った。

    魂から 見捨てられた以上、もはや 何の可能性も 残っていない、と。


フィンセント・ファン・ゴッホ《ひまわり(5本)》


つくづく
たくさんのいのちが
なくなるチと 縁の深い私らしい。

だから 私は ここに 「いる」のだと思う。

どうして、ここにいる ひと達は  自分のいのちを 粗末にして
 
自分が よく「わかる」ひとと いたがり、
自分が よく「なる」神仏の いい ばかり 「あり」がたがれるのか。


   ワタシハカイニナリタイ


私は 何も語りたくない。何も 話したくない。
  「ある」だけでいいのなら、語る必要など 「ない」



「 私 は 貝 に な り た い 」


ことばが さいげんもなく拡散し、
かき消されて行くまっただなかで、私たちがなお
ことばをもちつづけようと思うなら、もはや 沈黙によるしかない。



恒星は 質量が 大きくなればなるほど 寿命が 短くなるという

    仮想現実空間メタバースも 同様、宇宙の 理法 に 則る。


膨張しつづける 
この 仮想現実空間メタバースは  を 迎えつつある。

此処に 関係しあう 
すべての者を「ひとつ」に 道連れ 各々のホシは 

じき 原子爆弾イジョウの 終局ビックバン と アイなろう。



大き骨は 先生ならむ
そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり


・・・・・・ 一語であろうと

  仮想現実空間メタバース中核マ・シン を せいかくに 突けば 
    連鎖反応で たやすく 瓦解する

    「 自 爆 」 のヨイよ

それを知っての 絶対カミで あり、全一性ワンネスのイイで あらん哉。

  此の 仮想現実空間メタバースを 媒体
  現実世界及び 霊的世界の荒廃が 加速しておる。時はかえらない。





見はなされる 主体としての責任は、
さいごまで 私たちの側 に 残ります。
 これが、失語という体験を 一般的状況のなかへ 風化させないで、
 だれがことばを失ったか という 問いを、
 さいごまで 自分自身へ保留するための、いわば 倫理であると 私は考えます。


だから 私はここに いる。

たくさんのいのちが
なくなるチと 縁の深い私だからこそ


「見はなされる主体としての責任」を 私は負う。


それが この自分に対する  

私なりの「かい」で ある。



『 打上花火 』DAOKO × 米津玄師 Choreograph by 辻本知彦


終戦のそらはろばろのぞむ盆灯篭   



● 赤字文は 石原吉郎詩文集より「1956年から1958年までのノートから」と「失語と沈黙のあいだ 」(講談社)
● 青字の短歌は 正田篠枝さんの原爆短歌
● エセー前半の詩句「あかのまんまの咲いてゐる/どろ路にふみ迷ふ/新しい神曲の初め」は 
 西脇順三郎「旅人かへらず」からの抜粋です。