ポニーさんの街ブラと撮り鉄 「ポニ夢中」 (ぬる鉄紀行)

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静岡のお茶と清水港の歴史 その十一 横浜(写真は横浜港ほか)

2021-06-15 12:37:20 | 静岡の歴史、お茶、廃線

こんにちは  2021年6月15日の火曜日です。

表紙は2年前の横浜駅、特急「成田エクスプレス号」が2本いるところを撮れました。

こちら8年前、横浜駅(を抜けるのが大変だったが)から徒歩15分

高島貨物線で甲種輸送撮ったな、イイ思い出です。

この歩道橋は今でもにぎわいをみせているかな。

(写真ACよりDL) つづいているお茶の歴史

江戸時代末期にイギリス商人からの注文を受け、九州各地のお茶を一斤輸出したのが近代日本のお茶輸出の始まり。

その後横浜港が外国へ向けての港になるということで駿府の商人が横浜に出店し

1859年に港が開かれた際は180トン(静岡の比率はどれだけだろ?)が輸出され

お茶は生糸に次ぐ明治時代日本の重要輸出品となりました。

静岡県内では川根、本山など山間の産地に、写真の牧之原や富士などにも茶園が拓かれ、生産量を伸ばし

多くが輸出に向けられるのですが

(著作権フリー 東海道本線開通間もないころの江尻か興津か)

(清水駅みなと口 サッカーJ1清水エスパルスホームゲーム時はシャトルバスが運転されます)

お茶の輸出が始まったころの静岡で作られたお茶は、船や鉄道でいったん横浜へ運ばれ・・

(ふじのくに茶の都ミュージアム)

お茶の輸出が始まったころの静岡で作られたお茶は、船や鉄道でいったん横浜へ運ばれ

再製(仕上)加工含め、外国商社にほとんどが委ねられ、産地の立場も弱く、利益も薄いものでした。

また、混ぜ物がされた粗悪な茶も輸出され、評判を落とすこともありました。

静岡の人々は産地の静岡から良い品質のお茶を直接輸出しようと改革に強く取り組みます  つづく。

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