ろう者夫婦とコーダの息子という特殊性をことさら強調することなく、さらに過剰に作為的な感傷に堕することなく、物語は誰にも覚えのある息子と母親の“普遍的な情愛”の交感へと収斂していく。今さらながら無心の“笑顔”が持つ赦しの力に圧倒されてしまった。
小さな港町の男の子の誕生から話が始まる。そして母親と息子の物語は、あえて時間の経過がもつ“余韻や余白”を省略しながらずんずんと進んでいく。
障がいのある母(忍足亜希子)と健常者の息子(吉沢亮)のギャップが生む交感と苦悶という題材を描くにあたり呉美保は、いたずらに感傷に誘導するような“常套”を巧みに排除しながら、この一家に起こるべくして起こる事実(現実)を優劣をつけずに積み重ねていく。
その時間の経過の“余韻や余白”の省略の強引さに途中戸惑いを感じながらも、話の終盤になって(ネタバレになるので詳しくは書けないが)時間のなかに埋もれていた“余韻や余白”が二人の「理解」の鍵となって立ち上がってくる。この港岳彦の脚本構成とそれを的確に映像化する呉美保の演出は見事だった。
ところで、そもそも息子にとって(障がいの有無にかかわらず)母親は、彼を自分の庇護下に束縛するやっかいな良性の妖怪だ。男なら誰だって多かれ少なかれ“親離れ、子離れ”が持つ解放感と寂寥を経験しているだろう。
障がいのある母のもとで育った主人公がまず「障がい者と世間」の距離を理解し彼らとの関係を築いてから、その後に「母親」という良性の妖怪の普遍的な“重さ”に気づくという過程がとてもロジカルで説得力があった。まさに「ぼくが生きてる、ふたつの世界」なのだ。
(9月25日/MOVIX橋本)
★★★★★
【あらすじ】
東北の小さな港町。ろう者の五十嵐夫婦に男の子が誕生する。塗装職の父(今井彰人)を内職で支える母(忍足亜希子)。熱心な信者の婆ちゃん(烏丸せつこ)と元ヤクザの爺ちゃん(でんでん)。大(だい)と名付けられた男の子は、決して裕福ではないが騒々しくも人情味のある家で育つ。しかし小学生になると他の家庭との違いや近所の偏見に気づき苛立ち始め、やがて思春期をむかえた大(吉沢亮)は母の明子に激しく反抗するようになった。高校卒業後、定職にも就かず逃げるように向かった東京でも無気力な生活を続けていたが・・・。五十嵐大の自伝的エッセイの映画化。(105分)