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ぽんしゅう座

優柔不断が理想の無主義主義。遊び相手は映画だけ

■ その手に触れるまで (2019)

2020年09月05日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」
ぴたりと少年に寄り添い視線を外さない手持ちカメラ映像が延々と続く。自分には、もうこれしかないという“思い込み”の盲進から、彼の真摯さと切実さがひしひしと伝わってくる。偏狭な大人の犠牲者である彼の、すべての大人へ向けた未熟で検討違いな復讐を、私は支持すらし始めていた。

〔ご注意〕以下、結末に関するネタバレがあります

だから私には、あの謝罪が理解できなかった。謝罪の言葉を口にすべきは、子供(少年)ではなく大人たちの方ではないのか。

作者であるダルデンヌ兄弟は、感情を排して客観的に「この状況」を描こうとしているように見える。アラビア語教育が異文化理解に欠かせなと考えている女性教師も、犯罪を企てる少年を更生へ導こうとする少年院の指導員も、心理療法士も、弁護士も 大人たちはみなプロフェショナルらしく冷静で理性的だ。だかその態度は、非論理的(宗教的)な罪を恐れ一方的託宣(教義)を盲目的に遵守することがアイデンティティとなってしまった少年の「心」の問題と対峙するには、いささか形式的(マニュアルライク)に見えなくもない。おそらくダルディンヌ兄弟も、その“噛み合わなさ”すなわち「心情の不在」に問題があることに薄々気づいているはずだ。

ならば、謝るべきはやはり子供ではなく、大人の方だと私は思う。強者のほうから弱者に寄り添わない限り、その溝は埋まらないのだから。過ちを犯すのは常に弱者(子供)だという発想は、弱者は常に過ちを犯すという上から目線に転嫁しかねない。ダルデンヌ兄弟の映画創りに敬意を感じつつも、どこか違和感を感じてしまうのは、まさに弱者に対する立ち位置の違いだということに本作で気づいた。同じ弱者を描きながらケン・ローチとはまさに真逆の視線なのだ。

(9月2日/下高井戸シネマ)

★★★

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