愚鈍な代理市長(アレクシス・マネンティ)は、他者の思いを理解(想像)する努力を放棄して自身の理解力のなさを胡麻化そうとする。まったく迷惑な話だ。洋の東西を問わず、公(おおやけ)という概念が理解できない者に公権力という「ちから」の使い方が理解できるはずがないのだ。
愚かな為政者による人災的悲劇に対してアビー(アンタ・ディアウ)とブラズ(アリストート・ルインドゥラ)は対極的な行動をとる。怒りの意志の表明として、アビーが挑む立候補という手段はもちろん民主主義の王道であることに相違ない。一方、テロルや暴動という止むにやまれる暴力による実力行使もまた民主化へのひとつの手段であったことは歴史が語っている。
対極の思考と行動をとるアビーとブラズだが、ふたりは抱いている“怒り”の純度レベルで互いに「理解」し合っているように見える。そこが本作の救いであり、ラリ・ジ監督の祈りであり、ギリギリの妥協点なのだろう。そして、これは「理解(想像)力」についての物語でもある。
(6月24日/新宿武蔵野館)
★★★