goo blog サービス終了のお知らせ 

ぽんしゅう座

優柔不断が理想の無主義主義。遊び相手は映画だけ

■「男はつらいよ」シリーズは、どの作品から観るべきか

2009年09月18日 | ■銀幕酔談・雑感篇「映画の近所にて」
先日、映画好きの人たち何人かで話をする機会があった。なかの一人が「男はつらいよ」シリーズは本数が多すぎて、どれから観れば良いかよく分からないと冗談めかして言った。確かに特別篇を除いても四十八作もある。なるほど面白い疑問だなと思いつつ、その時はそれ以上話は続かなかった。以来、気になっていた。そこで、改めて「男はつらいよ」シリーズは、どの作品から観るべきか考えてみた。

やはり、第一作の「男はつらいよ」(69)と第二作「続・男はつらいよ」(69)からだろう。この二本をはじめ、シリーズは何度もテレビ放映されているので、すでにアレコレと観ている人も多いとは思う。だからこそ、今、頭の中にある「男はつらいよ」のイメージを真っ白にもどして、改めてここから見直してみて欲しい。何故なら、いま一度、車寅次郎という男が、どういう境遇の男であるかをしかりと認識し直すためにだ。

この二作品で寅は、非常に暴力的な男として描かれている。そう、車寅次郎はヤクザなのだ。登(津坂匡章)という弟分も連れているれっきとした渡世人である。葛飾柴又で平穏に暮らす団子屋一家とは、しょせん住む世界が違う裏街道を生きる男だ。そんなフーテンの寅と呼ばれるヤクザが、故郷や家族に思いをはせ、堅気の世界の平穏にふれ、そこへ戻ること夢想し、不器用に試み、ついに果せずに、またヤクザ渡世へと帰っていく物語が「男はつらいよ」と「続・男はつらいよ」だ。この「もどれない男」の悲哀こそが、シリーズ四十八作を通じて根底に流れている根幹のテーマなのだ。

しかし、この「ヤクザもの」=「もどれない男」の悲哀という要素は、当初の何作にかは色濃く反映されていたが、70年代に入ってみるみる薄まっていく。いや、正確には山田洋次監督によって、あるいは松竹という会社の要請によって意識的に薄められたのかもしれない。そして、全国津々浦々を気ままに旅する、粋でいなせで調子の良い風来坊のテキヤや、勝手気ままな言動といささか偏屈な対応で、騒ぎや問題を巻き起こすが、どこか憎めないはみ出し男というキャラクターづけがなされいく。そして、「寅」は親しみを込め「寅さん」と呼ばれ国民的スターとなる。

マドンナから好意的に接せられながらも最後にはふられてしまうのも、女の方がその気になっているのに自ら身を引いてしまうのも、本来は寅がヤクザ(もどれない男)だからであった。しかし、寅はヤクザどころか、いつも美女にふらる道化や、最後の一歩が踏み出せず幸せを逃してしまう優柔不断な男として庶民を代表するアイドルとなるのだ。しかし、あるマドンナを前にしたとき車寅次郎は、「ヤクザもの」=「もどれない男」の悲哀をたたえ始める。それが、第一、二作に続けて観るべき、浅丘ルリ子と共演した次ぎの四作品だ。

・男はつらいよ 寅次郎忘れな草(73)
・男はつらいよ 寅次郎相合い傘(75)
・男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花(80)
・男はつらいよ 寅次郎紅の花(95)

浅丘ルリ子演じるリリーは、全国のキャバレーを渡り歩くドサまわりの歌手だ。寅とリリーの関係は、根なし草的境遇の者同士としての共感から始まる。やがて二人は、互いに思いを寄せ合う関係に見え始めるのだが、この四作品を通して常に寅とリリーの間には、プロのさすらい人としてのクールーな緊張感が溝となって横たわっているのだ。同じ境遇だからこそ互いに見える溝であり、同じ価値観で人生を縛ったものだかろこそ、その存在を認めざるを得ない深い溝。この埋められぬ溝こそが、シリーズが失いかけた「もどれない者」同士の悲哀の象徴なのだ。

第一作「男はつらいよ」(69)から、最終作「~寅次郎紅の花」(95)へと連なる六作品を通して観てみることで、このシリーズの根源的テーマが、まぎれもなく「もどれない者」の悲哀であることがわかるはずである。そして、その認識を持ったうえで、あらためて他の作品を見直してみると、国民的映画と呼ばれる「男はつらいよ」シリーズの別の側面が見えはじめるはずだ。最後に、41歳の脂の乗りきった寅次郎から、67歳で亡くなる前年まで、病身に鞭打ちながらも寅次郎でいつづけた渥美清の、華麗かつ偉大な姿が時系列的に観られる幸福も付け加えておく。

きっと観る人の数だけ、違った観かたがあるでしょう。その中の、ほんのひとつの提案です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■レトロスペクティブ・完

2009年07月10日 | ■銀幕酔談・雑感篇「映画の近所にて」

先月の13日から開催されていた特集上映「神代辰己レトロスペクティブ」が終わる。今回、9本見ることができた。そのうち4本が初見だ。これで神代監督の作品は、ほぼすべて(「赤い帽子の女」だけ未見だ)観ることができた。満足している。

それで、神代辰巳作品への正しい入門の手引きを書きとめておくことにする。どうして、そんな余計なお世話をやくのかというと、どうも神代監督を誤解している人が多いように感じるからだ。あるいは、神代辰巳とはいったいどういう映画作家なのか、理解されかねているような気がしてならないからだ。誠に余計なお世話である。

神代監督は、いわゆる巨匠ではないし、まして天才などではない。映画職人でもない。むしろ不器用な異才監督だ。わずかな制作費で、脱ぐことを了承した限られた女優と男優を使って、必ず全裸や性行為の挿入が条件となる日活ロマンポルノという制約のなかでのみ、特異な才能を発揮した監督なのだ。

だから何をおいても、神代を知るためには、まず最初に日活ロマンポルノを観なければ事は始まらない。決して非成人指定の一般映画を先に観てはならない。何故ならその大半は駄作だからだ。まず最初に観るべき入門映画は、次の5作品である。

・一条さゆり 濡れた欲情(72)
・四畳半襖の裏張り (73)
・恋人たちは濡れた (73)
・黒薔薇昇天(75)
・赫い髪の女(79)

この中の1本、または全作品を観て、積極的な意味で「なんじゃこれは!」という驚きや感動が享受できれば、それが神代辰巳のすべてである。もし、この「なんじゃこれは!」を消極的な意味で感じてしまったとしたら、あなたはもう他の神代映画は観ない方がよい。先ほども書いたように、神代の一般映画は基本的に駄作であり、この5本を超える作品はないからだ。そこが、限られた範囲でしか異彩を放つことのない、異才の異才たるゆえんである。

積極的「なんじゃこれは!」とは、「女と女の間をふらふらと無軌道に彷徨う、男の哀切と滑稽さ」であったり、「閉ざされた制度のなかを、我武者羅に突き進む女のエネルギーや悲哀」であったり、「止め処ない欲望の大らかな肯定と、性をめぐる人間の行動を慈しむ視線」だ。

この積極的「なんじゃこれは!」を感じた者にのみ、神代の一般映画を観ることが許されるのだ。しかし、それは行けども行けども続くイバラの道である。あの神代はどこへ行ったのだ、きっとどこかにいるはずだと、自虐的信念にさいなまれ続けることになるのだ。

そして、この苦行を乗り越えた者のみに、一般映画のなかにも「なんじゃこれは!」が見え始める。その時、やっと「青春の蹉跌」(74)や「アフリカの光」(75)、「棒の哀しみ」(95)が快作や傑作として目に映り始めるのだ。特集上映が終わったばかりだというのに、何をいまさらグダグダ言っているのだと思うだろう。

前にも書いたが、神代辰巳は面白いからぜひ観ろと人に勧める気は、私にはない。しかし、来年は神代辰巳没15年だ。どこかの奇特な館主や、酔狂な企画屋がまた特集を組むかも知れない。その時に、万が一、神代映画を観てみようと思ったなら、この私の戯言を思い出して欲しい。「まずは、ロマンポルノを観よ!」だ。そうすれば、十人に一人くらいは、なるほどお前の言うとおりだと感じてくれる人がいるかもしれない。まあ、その程度の話しです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■レトロスペクティブ・その弐

2009年06月19日 | ■銀幕酔談・雑感篇「映画の近所にて」

神代辰巳のロマンポルノ第一作「濡れた唇」(72)と「恋人たちは濡れた」(73)を観た。「濡れた唇」は、ほんの青二才だったころの初見から数十年を経て二回目、「恋人たちは濡れた」は三度目か四度目だと思う。またしても「恋人たちは濡れた」のラストシーンに心ゆさぶられる。何度観ても同じだ。これはやはり青春映画の傑作だと改めて思い、CinemaScape-映画批評空間-の採点数を4点から5点へ切り替えた。神代監督のロマンポルノは、もちろん女も重要だが実は物語の軸はたいてい男なのだ。

ところで、「~唇」の主演女優で、「恋人たち~」でも助演している絵沢萠子さんは当時三十代前半、「恋人たち~」主演の中川梨絵さんは二十五歳くらいだろう。二人とも決して美しいとは言い難い体形だが、当然ながら惜しげもなく裸体をさらしている。スクリーンから女優の裸が消えて久しい。そんな俗なものだけで客が映画館に集まる時代ではないのは承知しているし、ロマンポル当時でも無意味な裸体の露出に辟易としたこともある。

最近、写真家の篠山記信が「僕は表現の基本はすべてエロティシズムだと思っているが、ここに来てヌードは疲弊してる。これからやろうという人には大変な時代だ」と発言していた。また今年のカンヌ映画祭の報告記事のなかで、自作の主演に韓国の女優を起用した是枝裕和監督は「日本の女優はCM契約など成約が多くヌードのある役をこなすのは、初めから無理だとあきらめた」と語っていた。

今回の「濡れた唇」と「恋人たちは濡れた」の客層をみて若い人たちの多さに驚いた。大半は男性だが、ちらほらと女性の姿もあり、70~80年代のロマンポル映画館を知る身には隔世の感があった。しかし考えてみるに、こんな古い裸映画に興味を持って集う彼(女)らとは、同時代の男女の肉体を、堂々と堪能できる機会や公の場を奪われてしまっている身なのではないだろうか。アダルトビデオやネットのなかに「エロ」はあっても、エロティシズムを見つけるのは難しいと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■レトロスペクティブ

2009年06月17日 | ■銀幕酔談・雑感篇「映画の近所にて」

東京のシネマヴェーラ渋谷という映画館で、13日から「神代辰己レトロスペクティブ」という特集上映がはじまりました。その昔、年齢詐称で日活ロマンポルノ「四畳半襖の裏張り」を観ていらい、神代監督特有のダラダラ、グチャグチャ感の誘惑から抜け出せなくなって数十年。まわりの人に神代映画をさかんに薦めた時期もありましたが、こんな映画のどこが面白いのだと悪態つかれ、はては金かえせ、時間かえせと恨まれるだけだと悟った今では、ひっそりと悦楽をひとり占めしております。

昨日、未見だったデビュー作の「かぶりつき人生」(69)と東宝で撮った「遠い明日」(79)を観てきました。見のがしていた作品や、もう一度観てみたい作品もあるので、事情がゆるすかぎり当分、渋谷がよいが続きそうです。先日ここに、今年の新作映画(特に邦画)に魅力を感じないと書いたばかりです。ついに私のなかで、新作映画は30年前の作品群にプライオリティを奪われてしまいました。2009年もあと半年。何とか意地をみせて欲しいものです。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■スラムドッグの憂鬱・続報

2009年06月01日 | ■銀幕酔談・雑感篇「映画の近所にて」
スラム出身子役に家贈呈
インド州政府、やっと「ご褒美」

昨日(2009年5月31日)の日本経済新聞に、例の一件の続報が載っていた。以下、報告をかねて要約して転載する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
PTI通信によると、インド西部マハラシュトラ州政府は映画「スラムドッグ$ミリオネア」に出演したスラム出身の人気子役二人にアパートをプレゼントすることを決めた。
アザルディン・イスマイル君(10歳)とルビナ・アリちゃん(9歳)は映画出演後、一躍「スター」となったが、二人が住むムンバイ市内のスラムは違法建築だとして市当局が今月撤去。州政府は住宅の提供を約束していたが、実現が遅れ、路上生活を余儀なくされていた。二人はやっと「ご褒美」を手にする形。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

とりあえずは丸く納まった(納めた?)ようだが、私の中の「そもそも」の部分のひっかかりは晴れていない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする