先日、映画好きの人たち何人かで話をする機会があった。なかの一人が「男はつらいよ」シリーズは本数が多すぎて、どれから観れば良いかよく分からないと冗談めかして言った。確かに特別篇を除いても四十八作もある。なるほど面白い疑問だなと思いつつ、その時はそれ以上話は続かなかった。以来、気になっていた。そこで、改めて「男はつらいよ」シリーズは、どの作品から観るべきか考えてみた。
やはり、第一作の「男はつらいよ」(69)と第二作「続・男はつらいよ」(69)からだろう。この二本をはじめ、シリーズは何度もテレビ放映されているので、すでにアレコレと観ている人も多いとは思う。だからこそ、今、頭の中にある「男はつらいよ」のイメージを真っ白にもどして、改めてここから見直してみて欲しい。何故なら、いま一度、車寅次郎という男が、どういう境遇の男であるかをしかりと認識し直すためにだ。
この二作品で寅は、非常に暴力的な男として描かれている。そう、車寅次郎はヤクザなのだ。登(津坂匡章)という弟分も連れているれっきとした渡世人である。葛飾柴又で平穏に暮らす団子屋一家とは、しょせん住む世界が違う裏街道を生きる男だ。そんなフーテンの寅と呼ばれるヤクザが、故郷や家族に思いをはせ、堅気の世界の平穏にふれ、そこへ戻ること夢想し、不器用に試み、ついに果せずに、またヤクザ渡世へと帰っていく物語が「男はつらいよ」と「続・男はつらいよ」だ。この「もどれない男」の悲哀こそが、シリーズ四十八作を通じて根底に流れている根幹のテーマなのだ。
しかし、この「ヤクザもの」=「もどれない男」の悲哀という要素は、当初の何作にかは色濃く反映されていたが、70年代に入ってみるみる薄まっていく。いや、正確には山田洋次監督によって、あるいは松竹という会社の要請によって意識的に薄められたのかもしれない。そして、全国津々浦々を気ままに旅する、粋でいなせで調子の良い風来坊のテキヤや、勝手気ままな言動といささか偏屈な対応で、騒ぎや問題を巻き起こすが、どこか憎めないはみ出し男というキャラクターづけがなされいく。そして、「寅」は親しみを込め「寅さん」と呼ばれ国民的スターとなる。
マドンナから好意的に接せられながらも最後にはふられてしまうのも、女の方がその気になっているのに自ら身を引いてしまうのも、本来は寅がヤクザ(もどれない男)だからであった。しかし、寅はヤクザどころか、いつも美女にふらる道化や、最後の一歩が踏み出せず幸せを逃してしまう優柔不断な男として庶民を代表するアイドルとなるのだ。しかし、あるマドンナを前にしたとき車寅次郎は、「ヤクザもの」=「もどれない男」の悲哀をたたえ始める。それが、第一、二作に続けて観るべき、浅丘ルリ子と共演した次ぎの四作品だ。
・男はつらいよ 寅次郎忘れな草(73)
・男はつらいよ 寅次郎相合い傘(75)
・男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花(80)
・男はつらいよ 寅次郎紅の花(95)
浅丘ルリ子演じるリリーは、全国のキャバレーを渡り歩くドサまわりの歌手だ。寅とリリーの関係は、根なし草的境遇の者同士としての共感から始まる。やがて二人は、互いに思いを寄せ合う関係に見え始めるのだが、この四作品を通して常に寅とリリーの間には、プロのさすらい人としてのクールーな緊張感が溝となって横たわっているのだ。同じ境遇だからこそ互いに見える溝であり、同じ価値観で人生を縛ったものだかろこそ、その存在を認めざるを得ない深い溝。この埋められぬ溝こそが、シリーズが失いかけた「もどれない者」同士の悲哀の象徴なのだ。
第一作「男はつらいよ」(69)から、最終作「~寅次郎紅の花」(95)へと連なる六作品を通して観てみることで、このシリーズの根源的テーマが、まぎれもなく「もどれない者」の悲哀であることがわかるはずである。そして、その認識を持ったうえで、あらためて他の作品を見直してみると、国民的映画と呼ばれる「男はつらいよ」シリーズの別の側面が見えはじめるはずだ。最後に、41歳の脂の乗りきった寅次郎から、67歳で亡くなる前年まで、病身に鞭打ちながらも寅次郎でいつづけた渥美清の、華麗かつ偉大な姿が時系列的に観られる幸福も付け加えておく。
きっと観る人の数だけ、違った観かたがあるでしょう。その中の、ほんのひとつの提案です。
やはり、第一作の「男はつらいよ」(69)と第二作「続・男はつらいよ」(69)からだろう。この二本をはじめ、シリーズは何度もテレビ放映されているので、すでにアレコレと観ている人も多いとは思う。だからこそ、今、頭の中にある「男はつらいよ」のイメージを真っ白にもどして、改めてここから見直してみて欲しい。何故なら、いま一度、車寅次郎という男が、どういう境遇の男であるかをしかりと認識し直すためにだ。
この二作品で寅は、非常に暴力的な男として描かれている。そう、車寅次郎はヤクザなのだ。登(津坂匡章)という弟分も連れているれっきとした渡世人である。葛飾柴又で平穏に暮らす団子屋一家とは、しょせん住む世界が違う裏街道を生きる男だ。そんなフーテンの寅と呼ばれるヤクザが、故郷や家族に思いをはせ、堅気の世界の平穏にふれ、そこへ戻ること夢想し、不器用に試み、ついに果せずに、またヤクザ渡世へと帰っていく物語が「男はつらいよ」と「続・男はつらいよ」だ。この「もどれない男」の悲哀こそが、シリーズ四十八作を通じて根底に流れている根幹のテーマなのだ。
しかし、この「ヤクザもの」=「もどれない男」の悲哀という要素は、当初の何作にかは色濃く反映されていたが、70年代に入ってみるみる薄まっていく。いや、正確には山田洋次監督によって、あるいは松竹という会社の要請によって意識的に薄められたのかもしれない。そして、全国津々浦々を気ままに旅する、粋でいなせで調子の良い風来坊のテキヤや、勝手気ままな言動といささか偏屈な対応で、騒ぎや問題を巻き起こすが、どこか憎めないはみ出し男というキャラクターづけがなされいく。そして、「寅」は親しみを込め「寅さん」と呼ばれ国民的スターとなる。
マドンナから好意的に接せられながらも最後にはふられてしまうのも、女の方がその気になっているのに自ら身を引いてしまうのも、本来は寅がヤクザ(もどれない男)だからであった。しかし、寅はヤクザどころか、いつも美女にふらる道化や、最後の一歩が踏み出せず幸せを逃してしまう優柔不断な男として庶民を代表するアイドルとなるのだ。しかし、あるマドンナを前にしたとき車寅次郎は、「ヤクザもの」=「もどれない男」の悲哀をたたえ始める。それが、第一、二作に続けて観るべき、浅丘ルリ子と共演した次ぎの四作品だ。
・男はつらいよ 寅次郎忘れな草(73)
・男はつらいよ 寅次郎相合い傘(75)
・男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花(80)
・男はつらいよ 寅次郎紅の花(95)
浅丘ルリ子演じるリリーは、全国のキャバレーを渡り歩くドサまわりの歌手だ。寅とリリーの関係は、根なし草的境遇の者同士としての共感から始まる。やがて二人は、互いに思いを寄せ合う関係に見え始めるのだが、この四作品を通して常に寅とリリーの間には、プロのさすらい人としてのクールーな緊張感が溝となって横たわっているのだ。同じ境遇だからこそ互いに見える溝であり、同じ価値観で人生を縛ったものだかろこそ、その存在を認めざるを得ない深い溝。この埋められぬ溝こそが、シリーズが失いかけた「もどれない者」同士の悲哀の象徴なのだ。
第一作「男はつらいよ」(69)から、最終作「~寅次郎紅の花」(95)へと連なる六作品を通して観てみることで、このシリーズの根源的テーマが、まぎれもなく「もどれない者」の悲哀であることがわかるはずである。そして、その認識を持ったうえで、あらためて他の作品を見直してみると、国民的映画と呼ばれる「男はつらいよ」シリーズの別の側面が見えはじめるはずだ。最後に、41歳の脂の乗りきった寅次郎から、67歳で亡くなる前年まで、病身に鞭打ちながらも寅次郎でいつづけた渥美清の、華麗かつ偉大な姿が時系列的に観られる幸福も付け加えておく。
きっと観る人の数だけ、違った観かたがあるでしょう。その中の、ほんのひとつの提案です。