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ぽんしゅう座

優柔不断が理想の無主義主義。遊び相手は映画だけ

■「さざなみ」から「うねり」へ

2010年04月15日 | ■銀幕酔談・雑感篇「映画の近所にて」


安藤モモコの初監督作「カケラ」が面白かった。
監督は1982年生まれの28歳。

最近、20歳代の若い監督たちの映画が目につく。
81年生れの内藤隆嗣(「不灯港」)や真利子哲也(「イエローキッド」)。
もうすぐ「川の底からこんちは」が公開される石井裕也監督も83年生まれの26歳。

これまでの作り手たち(私の中では「山下敦弘」までなのだが)と
一線を画す「新しい現状感覚」を彼らの映画に共通して感じる。




例えば、演じる俳優たちに求めらている人物造形は、
身近にいるかもしれない、いや確かにいる男女であり
映画的にデフォルメされてはいるものの
主人公たちの言動はリアルな日常感覚を発散している。

映画に通低しているのは物語のトーンの明暗にかかわらず
いささか楽観的にもみえる「次へ」の進展の予感だ。
彼らの思いは決して閉塞したり浮遊したまま終わらない。




彼らは、いま確実に日本映画界にさざなみを起こしている。
小さな波は集散をくり返し、やかて大きな波になるかもしれない。
この数十年、日本映画界には起きなかった刺激的なうねりだ。

そのためには、彼らが最低でも一年に一本、映画が撮れる環境であって欲しい。
そして、彼らを正等に評価する映画ジャーナリズムと、
期待を込めた熱い視線を送り続ける観客の存在が不可欠なのだ。

外面のみ華やぐ虚飾の繁栄ではなく、
地に足の着いた活性が起きるか否かの正念場の予感がする。

※写真は上から「カケラ」(安藤モモコ監督)、「不灯港」(内藤隆嗣監督)、「イエローキッド」(真利子哲也監督)
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■プライオリティー

2010年01月14日 | ■銀幕酔談・雑感篇「映画の近所にて」
去年の暮は、
キャメロンの「アバター」、始まったらすぐ観ようと思ってたですよ。
家から歩いて5分のところにシネコンがあるんです。
でも、何となく年末、観そびれてしまったんです。

正月休みは、去年、劇場で見逃したり、
普段は敬遠している長尺の映画をしこたま借りてきて、
紅白も箱根駅伝も見ずDVDざんまい。
いや、1区と5区だけ見た。これが箱根ツウというもの。

おまけに地上波のテレビ放映で
SMAP主演の「シート!」まで観たりして
結局「アバター」行かなかたんですよ。

年が明けて、あっというまに一週間。
すっかり「アバター」は私の中では影が薄くなり、
今年初めて映画館へ足を運んで観たのが
曾根中生の日活ロマンポル「色情姉妹」。
知る人ぞ知る「嗚呼、花の応援団」との二本立てです。

何故、「アバター」じゃなくて「色情姉妹」なのか。
そう問われても・・・理屈じゃないんです。
これが、数十年変わらぬ私の映画の趣味嗜好。

こんな調子で、また一年が始まりました。
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■「消えゆく曽根中生!?」って!!

2009年12月18日 | ■銀幕酔談・雑感篇「映画の近所にて」
来月のシネマヴェーラ渋谷の
特集上映のタイトルが「消えゆく曽根中生!?」

バブル経済期に多額の負債をかかえ
忽然と姿を消してしまったという曽根中生監督。
一部には消えたのではなく、消されたのだ、との説も・・・
ことの真相は定かではない。

このタイトル、言いえて妙なのだが、
ファンにとっては一抹の寂しさもただよい、苦笑いなのである。

曾根中生といえば「天使のはらわた 赤い教室」だ。
日活ロマンポルの史上、10本の指に数えられる名作であり、
曾根中生監督唯一の大傑作でもある。

ポルノと銘うちながら
大抵の日活ロマンポルのポルノ度はさほど高くない。
しかし、この「天使のはらわた 赤い教室」は違う。
男の子なら必ず「満足」する。

そして作品の底に流れるSM度の純度が半端ではない。
縛ったり、叩いたりの趣味的SMではなく、
誰でも身に覚えのある、つまりは、あなた自身の
精神的SM感覚を直撃し、呼び覚まし、心を揺さぶるのだ。

どうですか。ちょっと観てみたくなったでしょ。
観ないと損しますよ。
だたし、自己責任でお願いしますよ。
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■斎藤耕一監督を偲んで

2009年12月04日 | ■銀幕酔談・雑感篇「映画の近所にて」
先月の28日、映画監督の斎藤耕一が亡くなった。80歳だったそうだ。この10年ぐらいだろうかフィルムコミッションの充実もあり、スタジオを飛び出し地方を舞台にロケーションを行なう日本映画が増えたような気がする。斎藤監督もロケ作品において奇跡的な冴えを見せた人だった。「約束」(72)、「旅の重さ」(72)、「津軽じょんがら節」(73)を、私は斎藤耕一の地方三部作と呼んでいる。

この三作品では、風景が単なる物語の背景として止まることなく、あたかも「生命」を宿し登場人物たちに絡みつかのように機能していた。写し撮られたこれらの風景には、撮影監督の坂本典隆と組んだ斎藤耕一によって、登場人物たちの心や境遇までもが焼き込まれ、まるで生き物のようにスクリーンのなかでのたうっていた。

「約束」のなかで吹き荒れた続けた日本海の寒風と吹雪は、「女囚と逃走犯の恋」の運命そのものであった。「旅の重さ」をつつんでいた、まばゆい夏の光線と容赦なく照りつける日差し、そして藍々と茂った草木の葉を渡る風は、四国を旅する少女の前に立ちはだかる彼女の心の壁の化身でもあった。「津軽じょんがら節」では、都会を追われたチンピラと年上の情婦は最果ての地でどん詰まり、津軽のどんよりと垂れこめた暗雲と荒れ狂う海は、まさに彼らの行く道を、盲目の少女とともに閉ざしていた。

三十本あまりの監督作を残した斎藤耕一だが、残念ながらこの三作以外に奇跡は起こせなっかた。いや斎藤作品に限ったことではない。この三部作以来、日本の自然と風景をここまで内象的に映した撮った作品に出合ったことがない。72年と73年の二年の間ではあったが、斎藤耕一は奇跡を起こしたという事実において、日本映画史に永遠に名を留めるべき偉才なのだ。
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■疑惑のプレミアスクリーン

2009年11月12日 | ■銀幕酔談・雑感篇「映画の近所にて」
よく利用する近所の東宝系のシネコンには、プレミアスクリーンと銘うった会場がある。「全席にリクライニングシートを導入、専用サイドテーブルを完備と、超VIPな気分を味わうことができます」というのが売りだと宣伝物には書いてある。確かに通常は10列前後あるシートも、7列しかなく席の前後左右のスペースはゆったりとしている。

ところがこの会場、肝心の映画がどうにも観にくい。大半の席ではシネマスコープサイズの画面が、視野からはみ出してしまうのだ。一番後ろの席に座って、やっとなんとか画面の左右が視界におさまる。スクリーンから最後列までの距離が、他の会場に比べて短いのだ。調べてみると、スクリーンのサイズが館内で一番小さいにもかかわらずだ。

そこで、私のなかにある疑惑が生じる。劇場を設計したさいに、どうにも中途半端なスペースが残ってしまったか、あるいは始めからオマケのようなスペースを無理やり上映会場に仕立ててしまったのではないのか。プレミアの冠は、そのためのボロ隠しでは。このスクリーンの公式料金は2,400円の設定だが、何故かいつも通常と同じ1,800円で運営されている。上映作品も封切りから2~3週目の集客力が落ちた映画ばかりだ。どうも怪しい。成り立ちに疑惑が臭う。

そういえば怪しいシネコンはまだあった。スクリーンのサイズがヴィスタからシネマスコープに切り替わる場合、スクリーン上の暗幕が左右に開き画面が横長に広がるのが普通だと思っていた。ところが、東京・新宿の東映系のシネコンでは、なんと上下の暗幕が閉じて横長になりスクリーンが逆に小さくなった。この会場は左右の幅が狭いのかもしれない。席や通路も窮屈だった。同じ新宿の松竹系のシネコンでは、平日の最前列のシートを1,000円で売っている。上映後、試しに座ってみたが、白い壁がそそり立つだけで何も見えないのと同じだった。なんだか胡散臭い。場所柄とはいえ効率優先、客ないがしろ疑惑。

何を細かなことを、ちまちま言っているのだとお思いでしょう。
でも、映画ファンとは、こういうものなのです。
コメント (2)
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