先日の連休。暇にまかせて部屋の整理をしていたら、昔、観た映画を記録していた古いノートが出てきた。タイトルと劇場名、観た日付けが15年分書きとめてある。部屋の整理は中断して、これまた暇にまかせてパラパラとページをくった。75年に封切られた「祭りの準備」という映画を、76年の3月、4月、6月とたて続けに観ている。さらに翌77年と79年の4月にも。全部で5回。他にも繰り返し観ている映画が何作品もあった。
レンタルビデオすらない時代、当然すべて映画館で観ている。当時、私にとって映画館といえば封切り館ではなく、2~3本立てで上映する名画座だった。それを思い出して「祭りの準備」の併映作品をみてみると、確かにすべて違う映画だった。繰り返し観た映画が多いわけだ。同じネタの組み合わせを替えては、何とか新味を出して客集めに普請していた館主の苦労も想像できるというものだ。
かつてスクリーンという媒体しか持たなかった映画は、そこに集う観客の時間を消費しながら、何年もかけてゆっくりと自らのエネルギーも消費していった。しかし、映画がパッケージ化され、個人単位で貸し借りや、所有できるようになって以来、鑑賞者の消費効率は飛躍的に高まり映画のエネルギーの消耗スピードも驚くほど早くなった。経済効率としては正解なのだろう。しかし、鑑賞作品の選択権を完全に消費者に握られてしまった「映画」にとって、生き残り競争が厳しいことは想像に難くない。
この厳しさが吉と出るか、凶と出るか。
今年の前半に公開された日本映画などをみていると、観客への露骨な媚が臭う企画が散見され少し嫌な予感がする。
レンタルビデオすらない時代、当然すべて映画館で観ている。当時、私にとって映画館といえば封切り館ではなく、2~3本立てで上映する名画座だった。それを思い出して「祭りの準備」の併映作品をみてみると、確かにすべて違う映画だった。繰り返し観た映画が多いわけだ。同じネタの組み合わせを替えては、何とか新味を出して客集めに普請していた館主の苦労も想像できるというものだ。
かつてスクリーンという媒体しか持たなかった映画は、そこに集う観客の時間を消費しながら、何年もかけてゆっくりと自らのエネルギーも消費していった。しかし、映画がパッケージ化され、個人単位で貸し借りや、所有できるようになって以来、鑑賞者の消費効率は飛躍的に高まり映画のエネルギーの消耗スピードも驚くほど早くなった。経済効率としては正解なのだろう。しかし、鑑賞作品の選択権を完全に消費者に握られてしまった「映画」にとって、生き残り競争が厳しいことは想像に難くない。
この厳しさが吉と出るか、凶と出るか。
今年の前半に公開された日本映画などをみていると、観客への露骨な媚が臭う企画が散見され少し嫌な予感がする。