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かものはし通信

他是不有吾

「自分様と馬の骨」

2011-01-20 22:58:22 | 
勢古浩爾著「自分様と馬の骨」 三五館

誰しも、他人に認められたい。
人間どんなにかっこつけていても、実は心の底では人から認められたくてたまらない。
がしかし、現代日本ではその「他者承認」が得られないことが様々な歪みを生んでいる、という話だ。
自分もそうだよな、と素直な気持ちで読めば、学べることは多い。

「エグゼクティブの悪いくせ」

2010-11-21 20:46:40 | 
綱島邦夫著「エグゼクティブの悪いくせ」 日経プレミアシリーズ

もっとしょうもない内容かと思いきや。
タイトル、中身と合っていないとつくづく思う。いや確かに、日本の経営者の勘違いを指摘し、それを正すという目的からすれば良いのかもしれぬが。
著者が選んだタイトルなんだろうか。編集者が「この方が売れる」とごり押ししたのではないか?
(最近ものすごい勢いで大量の本を上梓されている経営コンサルタントのK氏も、納得できないタイトルを出版社につけられることがあるとおっしゃっていた。)

訴えたいことは、人材の育成と組織力の強化。
いたってシンプルであるが、論理展開が実に説得力に溢れている。企業の経営陣にぜひ読んでいただきたいし、管理職にも必読の書といえるのではないだろうか。
そうとは思えないタイトルが、何とも残念ではあるが。

「極点飛行」

2010-11-20 00:11:34 | 
笹本稜平「極点飛行」 光文社文庫

元旅客機パイロットが、銃やらマシンガンやら撃って敵と戦っている。少々設定に無理があるのは否めないが、それでも笹本氏の冒険物は、わくわくさせられ、実に面白い。
国際的なスケールの大きさも良し。途中幾度かほろりとさせられ、それでも最後はきっと大団円という安心感も良し。読後感も素晴らしく心地良し。

しかし個人的には、一番は「天空の回廊」だな
次点は「グリズリー」か。

「アメリカ人はなぜ肥るのか」

2010-11-19 00:08:04 | 
猪瀬聖著「アメリカ人はなぜ肥るのか」 日経プレミアシリーズ

実データと著者の見聞がほどよくMIXされ、実に読み易い。さすが新聞記者の文章は違う。
ただ、文章の読み易さと装丁の雰囲気から想像するほど内容は軽くはない。いや実は、相当に「重い」と言ってもよいだろう。

米国で肥満が問題になっていることは、誰でも知っている。
本当の問題は、日本もその波に呑み込まれそうになっていることを、当の日本人がほとんど認識できていないということだろう。
転勤で地方から首都圏に移り住んで以来、この国は大丈夫か?とつくづく思う日々だ。街中、会社、乗り物の中、どう見ても肥満傾向の人の割合が多い。外食すれば、1食分の量の多さに辟易する。何かといえば「がっつり」「がっつり」、そのフレーズは聞き飽きた。味付けもとにかく極端だ。やたらに辛い。やたらに甘い。やたらに濃厚。某ドーナツ店の近くを通ると、漂ってくる甘い臭いに病的なものすら感じる。ショッピングモールのフードコートは、家族連れで大盛況。「そんな小さい子にジャンクフード食べさせるのか?」と疑問に感じる自分の方がおかしいのか、と錯覚しそうだ。

著者もきっと、本当に訴えたいのはそこなのだ。
アメリカ人の肥満ネタをテレビで見て笑っている日本人。
多分既に、アメリカ人の後を追って同じエスカレーターに乗ってしまっており、途中で降りるのは至難の業。

「『私』のための現代思想」

2010-11-18 18:11:13 | 
高田明典「『私』のための現代思想」 光文社新書

知人に「構造主義なら高田明典がいいよ。」と薦められた。
別の知人には「何でこの期に及んで構造主義?」とも言われたが、学生時代に触れずに済ませたツケを、40代後半で支払おうかという気になっただけだ。

しかし折角だ。いきなり構造主義に突入せず、同氏のもっと取っ付き易そうな著書から入ってみようと、本著を手に取った。
「自殺」という言葉が気になったのもある。仕事に行き詰まり、駅のホームで「このまま飛び込んだら楽になれるか。」と考えたことが幾度かある。「正しい自殺」という文言も見えるが、それをどう解説しようとしているのか、単に「自殺はよくない。」という安易な結論へ導かれるだけではないのか、などと考えながら読み始めた。

相当に骨太だった。
「私」を意識するということが、このように解釈されるとは。
なぜこの「私」は今の世の中を「生きづらい」と感じてしまうのか、このように論理的に語ることができるとは。
哲学的、いや立派に哲学書か。著者の提示する様々なモデル図も秀逸だ。
自分と幾つも歳の違わないこの学者に、ちっぽけな自分を思い知らされつつも、何かしら腑に落ちた一縷の光を感じさせられた。

そうだ。「他者」と共振し、「他者」と「私」が互いの存在を引き受け合うことで「私」という存在が確実なものとなり、「他者」とともに闘うことで「正しくある」ことができるのなら、この生きにくい世の中でもきっと、私の存在価値が見い出せ、正しくありたいと願う私の気持ちの置き場所も見い出せるはずだ。