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日本のいまを考える#31 日本のいまを考える#31  ポスト・グローバリズムのその先に向かって ~その3~



祝日は玄関に国旗を掲揚しましょう


★精神学協会「日本のいまを考える」から転載

『精神学協会』
http://www.godbrain.com/gb/letter/




■日本のいまを考える#31  

●ポスト・グローバリズムのその先に向かって ~その3~


今日は、関東大震災のあった日です。
大正十二年(一九二三年)の昼のことでした。

祖母は被害の大きかった墨田区で被災経験を持っていましたので、大震災の話は追悼とともに折々聞いて育ちました。

日本は地震大国ですから、どこにいても、いつでも心の準備は整えつつ、生かされてある限りは悔いのない人生を、日々瞬々誠実に生きて参りたいと思います。

グローバルの対としてあげられるナショナリズム。
愛国心を持つ、ということは、もともと、ごく自然なことです。
子供は生まれたときに、親を愛し、世話をしてくれる人を愛し、一緒に遊んでくれる友達を愛し、育っていきます。

自我が芽生え、叱られるようになり、喧嘩もするようになり、悪態をつくほどに成長しても、友達を大切にし、仲間を大事にしていきます。

その延長に町村があり、都道府県があり、国があります。
青山繁晴さんのご本『ぼくらの祖国』の最初のほうに、とても素敵なメキシコの公立小中学校の光景が出てきます。

週間当番の交代式に生徒たちが正装し、国旗を掲げて構内のグラウンドを行進しつつ、国歌を高らかに歌うという、交代式の清々しい光景でした。 とても豊かに愛国心を育てている例だと思います。

本に出てくるメキシコの小中学校ほどの対応ではなかったとしても、海外では教育現場における国旗の取り扱いや、国歌への対応は昨今の日本のように、あからさまに避けるような国は珍しいのではないでしょうか。
移民の多いシンガポールでは、シンガポール以外の国旗を飾ることを禁止しています。

これからの日本を考えると、その意味するところは、きちんと捉え、よく考えなければならないと思います。

日本の教育現場は、本当に奇妙で、自然に反しているように感じます。
シラスクニの日本は、天皇をおおみこころとして敬いお慕いし、民は天皇のおおみたからとして大切に守られてきました。

そこに支配・被支配の関係はありません。古くから十七条の憲法にもあるとおり、長く「和」の文化を持ち続けてきています。

一神教の神は自らを「妬むもの」であると宣言していますが、まるで公務員規定のようだと指摘される十七条憲法では千三百年も前に「妬むな」と公に規定しています。

精神的土壌がまったく異なるので、感覚が大きく違うのは当たり前です。



さまざまな民族のさまざまな国があるなかで、その国ならではの文化文明、というと、その要はやはり母国語にあるといえそうです。

かでも、日本語は非常に特殊な言語です。
母音中心の音声で成り立っている言語で、現存使用されているのは日本語とポリネシア少数民族の一部くらいだといわれています。

子音中心の言語のほうが意思疎通がコンパクトにでき、討論、弁論などには有利です。

時間で区切った場合、より多くのことを伝えられるからです。

一方で、日本語は表音文字と表意文字とを組み合わせて使っているため、外来語を判別しやすい形でそのまま取り込むことが容易です。

海外から多様な文化を取り込み、必要に応じて原型は原型として保存したり、日本流にアレンジしながら受け入れてきました。

言語学的に特殊であるということに加えて、日本人が日本語を使うとき、オトダマ、コトダマの思想を根底に持ち、更には「言挙げせず」を旨とする社会にあって育まれた文化は、さらに独特といえるのではないでしょうか。
縁起の悪い言葉は極力使わないですし、食べ物や行うことにさえ、コトダマを大事にします。

「するめ」を「あたりめ」と言ったり、「梨」を「ありの実」、お正月の鏡餅を下げ割っていただくときも「鏡開き」、お祝いのときの酒樽の蓋を割って開けるときも「鏡開き」と言い替えます。

日常の言葉遣いにも気をつけ、不吉な忌み言葉はできるだけ口にしないなどのことを、普段から気にかけながら暮らしてきました。
この感性は、日本人をとても心豊かにしてきたと思います。

十七条の憲法の十一番目の項目に出てくる「明察巧過」にもつながる、「察する」という文化の現れの一つといえるかもしれません。
最近、前川前文部科学省事務次官の問題で、「忖度(そんたく)」という言葉がよく知られる事になりました。

「忖度」という単語の元々の意味内容は、他者の心を推し量るということですから、決して悪い意味ではなくて、むしろ、高度なコミュニケーション作法の一つだと思います。

しかし、この単語も、九条を含む改憲を意思表明した現政権を潰すことに意欲的なメディアのPR活動によって、道理に合わない前川氏の行動や申し開きと共に、イメージの良くない言葉のような扱われ方をしています。

察して行動を取れるということは、時と場合によりますが、本来素晴らしいことなのではないでしょうか。

今は、言葉も乱雑になっていますが、意識が荒れて、言葉が荒れて、社会が荒れる、ということなのか、逆なのか、連動していることは事実のようです。

文化を守っていくことは、民族の伝統や伝承を大切にしていくことでもあり、愛国心やナショナリズムと密接に繋がっています。

日本文化は、GHQの占領下において、日本と日本人を細かく研究分析した上でとられた政策−WGIP によって崩されてきました。

目には目、歯には歯というように、常に仕返しの可能性を想定する西洋文化から見れば、日本人の精神性は不気味で怖いと恐れたのだとしか思えません。

そのくらい、自虐史観を植えつけることに一生懸命だった様子が、WGIP の周辺を探っていくと、ひしひしと感じられます。

その影響を一番強く受けてきたのが団塊の世代の方々です。
子供の頃から植えつけられた先入観のようなものは、情報を更新せず、そのままにしていたのでは大人になってもほどけません。

自ら情報を正しく更新しない限り、間違った歴史や観念を植えられたままで人生を終えてしまいます。

戦後七十二年を迎えた今の日本、二千年を超える長きに渡って培ってきた精神という屋台骨まで揺らいでいます。

しかし、民族を支える日本のこころ、根底にある日本精神は、根こそぎ崩壊したわけではありません。
たとえ消え入るほどであったとしても、そこに希望があります。

いいことなのか、よくないことなのか、よくわかりませんが、オリンピック競技に取り入れられた日本の「柔道」は、国際ルールの影響が大きいのでしょうが、「ジュードー・レスリング」として、武道らしくない競技になり、気持ちのいい「一本」が減りました。

代わりに、特に国際試合の場では、とにかく勝てばなんでもいい、という試合が増えて、石井慧選手の態度が話題になりました。

それでも、日本の柔道家たちの多くは、「一本」をとても大事にしていると感じます。

いま、世界柔道選手権が開かれていますが、男女ともに大活躍、阿部一二三選手も、きれいな一本勝ちで優勝しました。
オリンピック種目には入っていないけれど、モンゴルなど海外勢が増えた相撲も、少しずつ取り組みが変わってきました。
今はモンゴルの大実業家となっていますが、引退前の朝青龍は、とても強くて人気のある力士でありながらヒール役のようになり、相撲道の深みに欠ける態度をよく取っていたように思います。
いまでも、昔風にいえば、「こんなの横綱相撲じゃない!」と思うような、取り組みを時々見かけます。

「相撲道」や「柔道」など、「道」がつくものは、「茶道」「華道」などとともに、日本精神が色濃く芯にあるもののはずだ、と思う私は古いのかもしれませんが、伝統文化を大切にしていくということは、その芯を柱として守っていくということだと思います。

効率や収益性が第一のグローバリストにとっては、愛国心を持ち独自の伝統文化を生活の中で保持していくのは非効率的で優先順位は低く、常に後まわしになります。

半ば強引な形で開国がなされた明治維新にいたる頃、訪れた外国人を魅了し、賞賛された江戸の町は、鎖国を通して日本文化が花開いた時代のものでした。

町中が衛生的で、ゴミがなく、廃棄物もかなりうまく循環されていて、驚いたといわれています。
なにより、町の人々の表情が楽しそうだというのが、印象深かったようです。
   『逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)』  
   渡辺京二  平凡社  千九百円+税
   
逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)
クリエーター情報なし
平凡社

   

   In Deep  どんなに愛される資格があるのかを私たちは知らない 
   http://oka-jp.seesaa.net/article/195767553.html   
   
   なわ・ふみひと Book Stand 四号館  逝きし世の面影
   http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/Yukishiyo.html    


海外からやってきた人々がこうして写真や絵とともに記述を遺してくれたものによって、幕末から維新の頃の日本が、おおらかで心豊かな社会を作り出していたらしいということを、あらためて今知ることができます。
江戸時代の人々の精神性というのか、民度が相当に高かったことを示しています。

数日前、伊豆に友人を訪ねたとき、駅まで送ってくれる帰りがけ、鍵をかけずに先を歩いていきました。
「鍵、かけなくて大丈夫?」
というと、「大丈夫、ここ日本だし! 駅まで送るだけだから。」

そうなんですよね、私も、ときどき、ちょっとした買い物などは、鍵をかけずに出ることがあります。

今の東京では、それもできにくくなりましたが、私の子供時代は、ちょっとした買い物には、皆さん鍵をかけずに出かけていました。

グローバリズムの侵食によって、価値観も変わり、人も多様化しています。
「自由」ということを履き違えて、横暴なふるまいや身勝手に過ぎる自己主張も横行する世の中になりました。

教育の重要性、あるいは再教育の必要性をあらためて痛感しています。


平成二十九年九月一日
阿部 幸子
協力 ツチダクミコ

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