冥土院日本(MADE IN NIPPON)

日本のいまを考える #10「脱亜論」とは、「脱特ア論」だったのか・・・と知る



★精神学協会「日本のいまを考える」から転載

『精神学協会』
http://www.godbrain.com/gb/letter/



■日本のいまを考える #10
「脱亜論」とは、「脱特ア論」だったのか・・・と知る。

「今頃、何言ってるのー?」という友人の、昨日の愉快そうな声が耳に残っています・・・
東京駅まで送る道々、近況報告話題が続き、陽気に大笑いの夕べでした。

つまびらかに知らないままでも、日ごろ話題に乗ることもなく、気にとめてもいなかったこと。いくつもあります。

最近また、私の中にある意味での内容のすり替えがあったことに気づきました。

先月、沖縄のいまの状況を直接お聞きする機会がありました。
そのなかで、韓国を手先のコマにしている中国、という構図を指摘した方がいて、著書を読んでみたいと思いました。

多くのご著書の中から、選んだ一冊はこれでした。
『21世紀の脱亜論ー中国・韓国との訣別』
  西村幸祐著   祥伝社新書   七百八十円+税

21世紀の「脱亜論」 中国・韓国との訣別(祥伝社新書)
クリエーター情報なし
祥伝社


とても読みやすい本で、いま、読書タイムを楽しんでいます。
私が学生だった頃、歴史音痴でありながら「脱亜論」関連で習ったなかで、記憶に残っていたのは「脱亜入欧」と「富国強兵」という言葉でした。

当時の私の理解としては、
「日本は後進のアジアから脱して先進国である西洋に習い、
文明開化に精力的に走った。
近代化を進めて西洋にまずは追いつき、世界において
欧米列強に肩を並べていこうとしていた。」
というものでした。

そのときの私が脳裏に描いたのは、アジアを抜ける脱亜の「亜」は、アジア地域全体です。

入欧の「欧」は、明治初期における欧米列強、先進国のイメージでした。

そして、明治維新を境に、ものすごい勢いで近代化して、有色人種でありながら名誉白人となり・・・と聞くと、そのあたりで、私は「あぁ・・・なんだか選民思想みたいで嫌だなぁ」と思い込んでいたのです。

もともと、歴史に微塵も興味がない、勉強意欲のない学生でしたので、原書に学ぶなど思い及ばず。以来、「脱亜論=アジア蔑視の選民思想につながるもの」と決め込んでいました。

もしかして、日教組は喜んでいたかもしれません。

半ば申し開きのようですが、私を含め、いま生きている日本人の多くが、「脱亜論」そのものを、きちんと読む機会のないまま過ごしてきていると思います。

福沢諭吉さんが慶應義塾大学の創始者、初代塾長であることや、『学問のススメ」は当時の大ヒットであったことなどは知っていましたし、いまやお顔も、お札になり皆さんお馴染みです。 でも、直接福沢諭吉さんの著書を手にとって、全文しっかり読んだりはしてきませんでした。 名著『学問のすゝめ』でさえ、断片的にしか読まないうちに、家のどこかにしまい込んであります。

ほかに、読むべきものに追われているのが正直なところで、なかなか取り組めないまま過ごしてきました。

今回、まさかのまさかで、知りました。

「脱亜論」でいうアジアは、近隣諸国を意味していて、それはいま俗に言う「特ア」特定アジアのことだと。

それまでの経緯あってのことですが、中国・韓国・北朝鮮、いまだに反日活動に精力的な三カ国を明確にしているのだと。

百三十年も前の人々にとっては当たり前だったのか、特に書かれたときに話題にはならなかったようです。

当時の教育レベルの高さ、人々の賢さには、驚きます。

これが、江戸時代の蓄積によるものだったのでしょう。

それが、後年、掘り起こされたときに話題になったとか。

いま、「脱亜論」の概略に触れると、とても興味深いですし、今こそ再読されるべきもののように思えます。

常識も言葉も漂流しますから、気をつけないといけませんね。
以前、源氏物語を解読する取り組みのお手伝いで、今は亡き黒須重彦先生のご著書を参考にさせていただいたことがありました。

『源氏物語探索』というご本です。

冒頭「序にかえて」のなかに、面白いお話がありました。
芥川龍之介さんの「蜜柑」という短編小説に出てくる言葉を題材にした話題です。
「ある曇った冬の日暮れである。私は横須賀発上り二等客車の隅に腰を下ろして、
ぼんやり発車の笛を待っていた。とうに電灯のついた客車の中には、珍しく私のほかに
一人も乗客はいなかった。・・・」

このなかの「二等客車」についてのイメージ、現在の学生の感覚では「普通車」だったそうです。

若者ではないけれど、私も同じくそう思っていました。

戦前生まれならわかるのでしょうが、芥川龍之介さんの短編にある「二等客車」は、今でいうグリーン車なのだそうです。

そうすると、物語のなかで暗黙のうちに展開する主人公のイメージ、身分や生活レベル、背景などもまるで違うものになってしまいます。

古典などを学んでいると、とくに、和歌の引き歌をはじめとして、当時の常識が今はまったく通じないということがよくあります。

ことほど左様に、という一例です。

「脱亜論」を日常の会話に織り込んでみても、相手が広範囲のアジア全体としてみているのか、当時の背景を知って特定アジアを意味した内容と知っているか、そのどちらなのかによっては、話がすれ違ってしまうことも大いにあります。

私個人が無知で劣化しているだけなら、まだしも、日本全体がそうなっていたら・・・と考えるとやはり、気づいた人たちが伝えていくことは、情報錯綜のこの時代にこそ、ますます大事なのではないか、とあらためて思うのでした。

今回、「また、やられてしまった!」と大笑いしながら、ひとつ発見できたことが、とても楽しかったです。

しっかりコツコツ、再教育の「育自」に励む日々が続きます。

平成二十九年四月七日
柴田サチ子
協力 ツチダクミコ

最近の「日本の今を考える」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
2021年
人気記事