東京都知事選の結果、注目の外山恒一氏は15,059票を獲得、今後も目が離せません。
これだけminorityが世の中にはいるんですね。
東京都知事選に関する過去ログ
外山氏のホームページがリニューアル。ブログもあります。
「さて私の場合、かつてははっきりと左翼であり、しかもいわゆる極左でした。現在は違います。すでに20年近くにおよぶ私の思想的模索から生まれた結論の一つに、右翼でも左翼でもない政治思想は、アナキズムとファシズム以外には存在しない、というものがあります。つまり私の場合は、現在は右翼でも左翼でもなく、ファシストなのです。」
と彼の言うアナーキズムとは、現在のネオリベラリズム・グローバリズムに対抗する意味でのアナーキズムなのだろうか?
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反グローバル資本主義運動・地域主義と無政府主義
1996年のシアトルでの国際サミット以降の反グローバリゼーション・反グローバル資本主義運動にはアナキズムとの思想的類似性が見られる。また、メキシコのNAFTA体制により悲惨な生活状況を送っていた先住民が多く住むチアパスにて、アナキズム的傾向を帯びたサパティスタ民族解放軍がメキシコ政府に叛乱を起こし話題になった。この様な例に見られるように、地域主義・地域共同体を支える立場としてのパトリオティズム(愛郷主義)とアナキストの考える中間集団主義はともに同じローカルな自律的相互扶助に基づく分権的再配分を行う共同体という意味で同じであり、パトリオットでありかつアナキストであるという立場が可能である。
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これよりはアルテルモンディアリスムのほうがしっくりくる。
インターネットを大活用してますからね。
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アルテルモンディアリスム(仏Altermondialisme)とは、新自由主義的なものとは異なった政治面・経済面・社会体制面などでのグローバリゼーションを模索・推進する諸運動の総称。この運動の参加者はアルテルモンディアリスト (altermondialiste) と呼ばれる。
反グローバリゼーション運動との違い
日本だけに限らず、英語圏などでもこれらの運動は反グローバリゼーションと混同されることが多いが、反グローバリゼーションということばにはグローバリゼーションの功罪両面を否定する動きになり、国粋主義と混同される恐れがある。そうではなく、グローバリゼーション自体には肯定的な立場を取るものの(たとえばインターネットの普及による国際通信の簡便化)、より社会正義に見合ったグローバリゼーションを推進してゆこうという意味を込めて、世界社会フォーラムのスローガンである「もう一つの世界は可能だ」(仏Un autre monde est possible, 英Another world is possible)からアルテルモンディアリスム(直訳すれば「もう一つの世界主義」)という単語が作られ、特にフランスのメディアで多用されている。
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ウィキペディアによる解説;アナーキズム・ファシズム
と思いながら調べていると結構面白い考え方を持っていることがわかった。↓
http://politicalaffairs.seesaa.net/article/37039749.htmlより引用した、彼の理論のまとめ。
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「さて私の場合、かつてははっきりと左翼であり、しかもいわゆる極左でした。現在は違います。すでに20年近くにおよぶ私の思想的模索から生まれた結論の一つに、右翼でも左翼でもない政治思想は、アナキズムとファシズム以外には存在しない、というものがあります。つまり私の場合は、現在は右翼でも左翼でもなく、ファシストなのです。」
・「ファシズム基本文献」
「まったく新しい左右対立──イデオロギーX──」
http://www.warewaredan.com/contents/sayu.html
以下は抜粋。
現在もはや、右上の右翼領域に身を置く人々は、時の政権から見限られていると考えるべきである。
政権はそれが持続するために、常に何らかの「正義」のようなものを必要とする。(中略)しかし大勢は、決定的に変化している。
これまた分かりやすい例を挙げれば「アジアの国々」へのいわゆる「謝罪外交」は、もはや規定路線として(我々の革命が実現しないかぎり)覆されることはないだろう。
我々は、社会のPC化を推進する左翼勢力と、諸個人を監視・管理するハイテクを獲得した国家権力との結託による、まったく新しいスターリニズム体制の実現に抵抗し、これを阻止・粉砕する闘争に決起しなければならない。
「わが『転向』」
http://www.warewaredan.com/contents/tenko.html
以下は抜粋。
....しかし私はこの本を読むことで、ムソリーニが展開したオリジナルのファシズム運動が、実は私が数年前から「ファシズムがこうであれば真っすぐに共感できるのに」と思い描いていたイメージそのままのものであることを確認するに至ったのである。(中略)最大の収穫は、ファシストが民主主義に反対するのは、国家主義的な理由によるのではなく、むしろそれが個人を抑圧するものだと考えているためであることが分かったことだ(「すべての色彩を消し去り、すべての個性を平板化する匿名にして灰色の民主的平等主義」ムソリーニの論文より)。
私は、ムソリーニの主張に完全に同意できると感じ、ファシストとして生きてゆくことを決めた。
「ファシズムは誤解されている」
http://www.warewaredan.com/contents/gokai.html
「ファシズムとはおおよそこんな思想である」
http://www.warewaredan.com/contents/oyoso.html
以下は抜粋。
ファシズムは、ニーチェとハイデガーを主要な参照先とする革命思想である。
ファシストは、民主主義に反対する。
民主主義は、諸個人の自由を、最終的には否定するからである。
ファシストは、大衆を蔑視する。
現在の監視社会化の急速な進行を見れば明らかなように、大衆こそは自由の敵である。「自由からの逃走」という有名な言葉どおり、大衆は自由を忌避する本性を持っている。
ファシズムに最も近いのはアナキズムである。
しかしアナキストは、かつて一度も勝利したことがないし、これからも決して勝利することがない。
アナキズムの次にファシズムに近いのは、ナショナリズムである。
天皇陛下万歳。どうせ害はない。
「ファシズム断想(アナキスト諸君へ)」
http://www.warewaredan.com/contents/danso.html
ファシストのあり方を原理的な方向から語っている。現代日本のPC(ポリティカル・コレクトネス)つまりいわゆる「政治的正しさ」を完全に無視した、歯に衣着せない文章である。
「今こそ共産主義を警戒せよ 」
http://www.warewaredan.com/contents/kyosan.html
以下は抜粋。
スターリニストの顕著な特徴は、自らがスターリニストであることにまったく無自覚なことだ。
左翼は、結局のところブッシュのやり方が「エレガントでない」と不快感を示しているにすぎない。
こんな「批判」の延長線上には、「エレガントなブッシュ」しか生まれようがない。
そして我々ファシストはそのことを、「PC的な左翼の正義と、ハイテクを獲得した国家権力との結合」であり、新たな、真の共産主義社会の実現であるととらえている。
「ブッシュは共産主義者であり、ブッシュの戦争は共産主義革命戦争である」
http://www.warewaredan.com/contents/bush.html
以下は抜粋。
左翼的正義と国家権力が結合したものをスターリニズムと呼ぶならば、資本主義の必然的な危機を克服するため現在構築されつつあるまったく新しい社会環境システムは、字義どおりのスターリニズムだし、資本主義発展の必然的帰結として登場するという、本来の意味での共産主義なのです。これを全世界に押しつけようというブッシュの戦争は、だから共産主義革命戦争だということになります(ブッシュにその自覚はないでしょうが)。
伝統的価値を、何か自明のものとして称揚するのが右翼思想ですが、ファシズムは、あくまでもPC的ハイテク監視社会を阻止するためのやむを得ざる唯一の方策としてこれを選択します。ファシズムは、資本主義そして民主主義の必然的発展に、少数派による自由のための団結をもって対峙する思想です。
私はファシストとして、「伝統的共同体の再建」という課題を、右翼と共有しています。
「ファシズムの原理」
http://www.warewaredan.com/contents/genri.html
以下は抜粋。
現代の資本主義は、全人類を個体単位で監視するために必要な、高度なテクノロジーを有している。また現代の民主主義は、PC(Political Correctness)を普遍的正義として有している。来たるべき共産主義社会は、この両者が弁証法的に統合されたものとなる。
左翼的正義と国家権力とが結合したものをスターリニズムと呼ぶ。来たるべき共産主義社会は、ゆえにもちろん、スターリニズムの世界国家である。
・「自由の擁護者」としてのファシスト
(以下は新現実vol.1 P41~46から引用)
生活道路に警察がカメラをつけるということが、子どもの安全を守るという理由だけで推し進められていいのだろうか。ぼくは疑問に思うけれど、いまの市民はみんなそれでいいって言うんですよ(笑)。
セキュリティの発想と多様な人々の共存という発想は、遠いようでいて表裏一体なんですね。(中略)通学路に監視カメラをつけるのをやめよう、という議論を立てれば、当然、じゃあ少年犯罪や痴漢はどう防ぐんだという話になる。カメラをつけないんだったら、道徳や懲罰の強化しかない。おそらく「新しい歴史教科書を作る会」の人なんかは監視カメラは嫌いだと思いますね。一人一人が日本人としてぴしっとしてれば、カメラなんかいらないんだと(笑)。
単一文化主義の近代社会は(中略)とにかくノーマライズして「国民」に包摂するという話になっていた。多文化主義のポストモダン社会は、そういう「ノーマライズ」こそが人権の侵害だと考えるから、いろいろなひとに勝手に生きていてください、ということになっている。しかしその代償として求められたのは、そういう多文化主義の空間を安定されるセキュリティの装置であり、要は、本当にアブナイやつは事前に排除しておこうという発想なわけですね。
東のこの問題意識は、外山が言っている事と基本的に同じである。というか外山は東の文章から引用する事がよくあるので、この辺りも東から影響を受けたのかも知れない。
さて、この問題をいかにして解決するかという話になると、東は「市民に監視社会の問題点、欠点を知らしめ、その上で監視社会の是非を判断して貰う」位の事しか言っていない。民主主義を肯定する立場からすれば仕方のない事である。民主主義国家では、絶対多数派の国民が全国民の自由を抑圧する選択肢を支持すれば、そのようになるのである。
一方外山の場合は、「自由を自ら放棄し、他者にも自由の放棄を強要する国民」による民主主義というものを否定する。ここで、「自由の為にファシズムを選ぶ」という一種違和感のある言葉が意味を持ってくる。なお、彼の言う「自由」が「全国民の自由」ではない事は指摘しておく必要がある。多数派国民が彼らの「自由な意志」によって自由を放棄するからと言って、少数派の外山はそんな「自由からの逃走」に付き合う気はないし、多数派が少数派の自由まで放棄させようと欲するなら、そんな連中の「自由な意志」は否定する。しかし民主主義国家では、絶対多数派=国家権力である。従ってそのような状況下では、己が自由を守り抜く為には反民主主義のファシズムしか方法が無い、というわけである。
ファシズム体制がいかにして「多文化主義のポストモダン社会」の不安定を解消するのかというと、外山によればその手段は「ナショナリストとの連帯」という事になるようである。多文化主義から単一文化主義への回帰、その文化が有する伝統的価値観による社会の安定、これが処方箋である。この処方箋を用いる意図は、伝統的価値観それ自体が素晴らしいからではなく、ただただ「自由の擁護」である。ナショナリストは伝統的価値観それ自体を尊ぶが、ファシストは「自由」と「社会の安定」を両立させる為に伝統的価値観を選び、手段として用いるのである。
ここで当然、「単一文化主義や伝統的価値観・伝統的共同体を前面に出せば、その時点で自由が損なわれるのでは?」という疑問反論が出てくるだろう。その問題については外山は、左翼とは異なり別に重大な事とは考えていないようである。例えば天皇陛下の存在に対して、古典的な左翼は「市民抑圧体制の元凶」のように捉えているが、外山は「別に害はない」の一言である。そもそも外山は、戦前の大日本帝国の方が現在の日本よりある意味ずっと自由だったんじゃないかという趣旨の文章をファシストに転向するよりも前に書いているほどである。
戦後偏向教育を糺す!!
http://www.warewaredan.com/contents/b97-2.html
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これだけminorityが世の中にはいるんですね。
東京都知事選に関する過去ログ
外山氏のホームページがリニューアル。ブログもあります。
「さて私の場合、かつてははっきりと左翼であり、しかもいわゆる極左でした。現在は違います。すでに20年近くにおよぶ私の思想的模索から生まれた結論の一つに、右翼でも左翼でもない政治思想は、アナキズムとファシズム以外には存在しない、というものがあります。つまり私の場合は、現在は右翼でも左翼でもなく、ファシストなのです。」
と彼の言うアナーキズムとは、現在のネオリベラリズム・グローバリズムに対抗する意味でのアナーキズムなのだろうか?
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反グローバル資本主義運動・地域主義と無政府主義
1996年のシアトルでの国際サミット以降の反グローバリゼーション・反グローバル資本主義運動にはアナキズムとの思想的類似性が見られる。また、メキシコのNAFTA体制により悲惨な生活状況を送っていた先住民が多く住むチアパスにて、アナキズム的傾向を帯びたサパティスタ民族解放軍がメキシコ政府に叛乱を起こし話題になった。この様な例に見られるように、地域主義・地域共同体を支える立場としてのパトリオティズム(愛郷主義)とアナキストの考える中間集団主義はともに同じローカルな自律的相互扶助に基づく分権的再配分を行う共同体という意味で同じであり、パトリオットでありかつアナキストであるという立場が可能である。
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これよりはアルテルモンディアリスムのほうがしっくりくる。
インターネットを大活用してますからね。
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アルテルモンディアリスム(仏Altermondialisme)とは、新自由主義的なものとは異なった政治面・経済面・社会体制面などでのグローバリゼーションを模索・推進する諸運動の総称。この運動の参加者はアルテルモンディアリスト (altermondialiste) と呼ばれる。
反グローバリゼーション運動との違い
日本だけに限らず、英語圏などでもこれらの運動は反グローバリゼーションと混同されることが多いが、反グローバリゼーションということばにはグローバリゼーションの功罪両面を否定する動きになり、国粋主義と混同される恐れがある。そうではなく、グローバリゼーション自体には肯定的な立場を取るものの(たとえばインターネットの普及による国際通信の簡便化)、より社会正義に見合ったグローバリゼーションを推進してゆこうという意味を込めて、世界社会フォーラムのスローガンである「もう一つの世界は可能だ」(仏Un autre monde est possible, 英Another world is possible)からアルテルモンディアリスム(直訳すれば「もう一つの世界主義」)という単語が作られ、特にフランスのメディアで多用されている。
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ウィキペディアによる解説;アナーキズム・ファシズム
と思いながら調べていると結構面白い考え方を持っていることがわかった。↓
http://politicalaffairs.seesaa.net/article/37039749.htmlより引用した、彼の理論のまとめ。
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「さて私の場合、かつてははっきりと左翼であり、しかもいわゆる極左でした。現在は違います。すでに20年近くにおよぶ私の思想的模索から生まれた結論の一つに、右翼でも左翼でもない政治思想は、アナキズムとファシズム以外には存在しない、というものがあります。つまり私の場合は、現在は右翼でも左翼でもなく、ファシストなのです。」
・「ファシズム基本文献」
「まったく新しい左右対立──イデオロギーX──」
http://www.warewaredan.com/contents/sayu.html
以下は抜粋。
現在もはや、右上の右翼領域に身を置く人々は、時の政権から見限られていると考えるべきである。
政権はそれが持続するために、常に何らかの「正義」のようなものを必要とする。(中略)しかし大勢は、決定的に変化している。
これまた分かりやすい例を挙げれば「アジアの国々」へのいわゆる「謝罪外交」は、もはや規定路線として(我々の革命が実現しないかぎり)覆されることはないだろう。
我々は、社会のPC化を推進する左翼勢力と、諸個人を監視・管理するハイテクを獲得した国家権力との結託による、まったく新しいスターリニズム体制の実現に抵抗し、これを阻止・粉砕する闘争に決起しなければならない。
「わが『転向』」
http://www.warewaredan.com/contents/tenko.html
以下は抜粋。
....しかし私はこの本を読むことで、ムソリーニが展開したオリジナルのファシズム運動が、実は私が数年前から「ファシズムがこうであれば真っすぐに共感できるのに」と思い描いていたイメージそのままのものであることを確認するに至ったのである。(中略)最大の収穫は、ファシストが民主主義に反対するのは、国家主義的な理由によるのではなく、むしろそれが個人を抑圧するものだと考えているためであることが分かったことだ(「すべての色彩を消し去り、すべての個性を平板化する匿名にして灰色の民主的平等主義」ムソリーニの論文より)。
私は、ムソリーニの主張に完全に同意できると感じ、ファシストとして生きてゆくことを決めた。
「ファシズムは誤解されている」
http://www.warewaredan.com/contents/gokai.html
「ファシズムとはおおよそこんな思想である」
http://www.warewaredan.com/contents/oyoso.html
以下は抜粋。
ファシズムは、ニーチェとハイデガーを主要な参照先とする革命思想である。
ファシストは、民主主義に反対する。
民主主義は、諸個人の自由を、最終的には否定するからである。
ファシストは、大衆を蔑視する。
現在の監視社会化の急速な進行を見れば明らかなように、大衆こそは自由の敵である。「自由からの逃走」という有名な言葉どおり、大衆は自由を忌避する本性を持っている。
ファシズムに最も近いのはアナキズムである。
しかしアナキストは、かつて一度も勝利したことがないし、これからも決して勝利することがない。
アナキズムの次にファシズムに近いのは、ナショナリズムである。
天皇陛下万歳。どうせ害はない。
「ファシズム断想(アナキスト諸君へ)」
http://www.warewaredan.com/contents/danso.html
ファシストのあり方を原理的な方向から語っている。現代日本のPC(ポリティカル・コレクトネス)つまりいわゆる「政治的正しさ」を完全に無視した、歯に衣着せない文章である。
「今こそ共産主義を警戒せよ 」
http://www.warewaredan.com/contents/kyosan.html
以下は抜粋。
スターリニストの顕著な特徴は、自らがスターリニストであることにまったく無自覚なことだ。
左翼は、結局のところブッシュのやり方が「エレガントでない」と不快感を示しているにすぎない。
こんな「批判」の延長線上には、「エレガントなブッシュ」しか生まれようがない。
そして我々ファシストはそのことを、「PC的な左翼の正義と、ハイテクを獲得した国家権力との結合」であり、新たな、真の共産主義社会の実現であるととらえている。
「ブッシュは共産主義者であり、ブッシュの戦争は共産主義革命戦争である」
http://www.warewaredan.com/contents/bush.html
以下は抜粋。
左翼的正義と国家権力が結合したものをスターリニズムと呼ぶならば、資本主義の必然的な危機を克服するため現在構築されつつあるまったく新しい社会環境システムは、字義どおりのスターリニズムだし、資本主義発展の必然的帰結として登場するという、本来の意味での共産主義なのです。これを全世界に押しつけようというブッシュの戦争は、だから共産主義革命戦争だということになります(ブッシュにその自覚はないでしょうが)。
伝統的価値を、何か自明のものとして称揚するのが右翼思想ですが、ファシズムは、あくまでもPC的ハイテク監視社会を阻止するためのやむを得ざる唯一の方策としてこれを選択します。ファシズムは、資本主義そして民主主義の必然的発展に、少数派による自由のための団結をもって対峙する思想です。
私はファシストとして、「伝統的共同体の再建」という課題を、右翼と共有しています。
「ファシズムの原理」
http://www.warewaredan.com/contents/genri.html
以下は抜粋。
現代の資本主義は、全人類を個体単位で監視するために必要な、高度なテクノロジーを有している。また現代の民主主義は、PC(Political Correctness)を普遍的正義として有している。来たるべき共産主義社会は、この両者が弁証法的に統合されたものとなる。
左翼的正義と国家権力とが結合したものをスターリニズムと呼ぶ。来たるべき共産主義社会は、ゆえにもちろん、スターリニズムの世界国家である。
・「自由の擁護者」としてのファシスト
(以下は新現実vol.1 P41~46から引用)
生活道路に警察がカメラをつけるということが、子どもの安全を守るという理由だけで推し進められていいのだろうか。ぼくは疑問に思うけれど、いまの市民はみんなそれでいいって言うんですよ(笑)。
セキュリティの発想と多様な人々の共存という発想は、遠いようでいて表裏一体なんですね。(中略)通学路に監視カメラをつけるのをやめよう、という議論を立てれば、当然、じゃあ少年犯罪や痴漢はどう防ぐんだという話になる。カメラをつけないんだったら、道徳や懲罰の強化しかない。おそらく「新しい歴史教科書を作る会」の人なんかは監視カメラは嫌いだと思いますね。一人一人が日本人としてぴしっとしてれば、カメラなんかいらないんだと(笑)。
単一文化主義の近代社会は(中略)とにかくノーマライズして「国民」に包摂するという話になっていた。多文化主義のポストモダン社会は、そういう「ノーマライズ」こそが人権の侵害だと考えるから、いろいろなひとに勝手に生きていてください、ということになっている。しかしその代償として求められたのは、そういう多文化主義の空間を安定されるセキュリティの装置であり、要は、本当にアブナイやつは事前に排除しておこうという発想なわけですね。
東のこの問題意識は、外山が言っている事と基本的に同じである。というか外山は東の文章から引用する事がよくあるので、この辺りも東から影響を受けたのかも知れない。
さて、この問題をいかにして解決するかという話になると、東は「市民に監視社会の問題点、欠点を知らしめ、その上で監視社会の是非を判断して貰う」位の事しか言っていない。民主主義を肯定する立場からすれば仕方のない事である。民主主義国家では、絶対多数派の国民が全国民の自由を抑圧する選択肢を支持すれば、そのようになるのである。
一方外山の場合は、「自由を自ら放棄し、他者にも自由の放棄を強要する国民」による民主主義というものを否定する。ここで、「自由の為にファシズムを選ぶ」という一種違和感のある言葉が意味を持ってくる。なお、彼の言う「自由」が「全国民の自由」ではない事は指摘しておく必要がある。多数派国民が彼らの「自由な意志」によって自由を放棄するからと言って、少数派の外山はそんな「自由からの逃走」に付き合う気はないし、多数派が少数派の自由まで放棄させようと欲するなら、そんな連中の「自由な意志」は否定する。しかし民主主義国家では、絶対多数派=国家権力である。従ってそのような状況下では、己が自由を守り抜く為には反民主主義のファシズムしか方法が無い、というわけである。
ファシズム体制がいかにして「多文化主義のポストモダン社会」の不安定を解消するのかというと、外山によればその手段は「ナショナリストとの連帯」という事になるようである。多文化主義から単一文化主義への回帰、その文化が有する伝統的価値観による社会の安定、これが処方箋である。この処方箋を用いる意図は、伝統的価値観それ自体が素晴らしいからではなく、ただただ「自由の擁護」である。ナショナリストは伝統的価値観それ自体を尊ぶが、ファシストは「自由」と「社会の安定」を両立させる為に伝統的価値観を選び、手段として用いるのである。
ここで当然、「単一文化主義や伝統的価値観・伝統的共同体を前面に出せば、その時点で自由が損なわれるのでは?」という疑問反論が出てくるだろう。その問題については外山は、左翼とは異なり別に重大な事とは考えていないようである。例えば天皇陛下の存在に対して、古典的な左翼は「市民抑圧体制の元凶」のように捉えているが、外山は「別に害はない」の一言である。そもそも外山は、戦前の大日本帝国の方が現在の日本よりある意味ずっと自由だったんじゃないかという趣旨の文章をファシストに転向するよりも前に書いているほどである。
戦後偏向教育を糺す!!
http://www.warewaredan.com/contents/b97-2.html
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この外山恒一さんの政見放送は、
さるブログにリンクされていたので見ました。
始めは創作かと思ってしまいました。
笑っちゃいけないんでしょうけど、
笑っちゃいました。
私が当選したらやつらはビビル、私もビビル・・・
これって本音?
結局は当選しませんでしたね。
でも15000人も彼に投票したというのは恐るべき事だと思います。
はじめから当選しようとは彼は思っていないでしょう。
ただminorityを取り込みつつどこかで当選してしまったら?
知能は低くないと思うので恐ろしい存在だと思います。