







2025年4月29日(火)、一関市博物館(一関市厳美町字沖野々215-1)で、2025年1月25日(土)から開催されている企画展「暮らしのなかの道具」【5月18日(日)まで】を妻と一緒に観に行ってきました。今年は、[戦後80年 昭和100年]というので、全国各地で昭和を回顧する催事が開催されていますが、これもその一環かもしれません。
今年満86歳になる私は、この昭和100年の中で暮らしてきましたので、展示品のどれもこれも懐かしさを感じるものばかりでした。
特にも、大きなラッパのついた蓄音機は思い出の多いものでした。未だ5~6歳頃ですから昭和20年頃だったと思いますが、祖父(父の父)の家でその蓄音機を観たのです。祖父がそんなものを持っていて、浪曲などを聞いているというので関心したのです。三春藩の武士の娘を嫁にした(因みに「降嫁」と呼ばれたそうです。)ので、見栄を張ったのかもしれません。
その外にも、はじめて電気炊飯器を買ったとき(昭和30年代)のことを懐かしく思い出しました。我が家で使っていた東芝製のものがありました。火をつかう竈炊きと違いスイッチを押すだけでご飯が炊けるとても便利な家電でした。
空襲が激しくなった昭和20年7月に、福島県安積郡富久山町久保田から田村郡岩井村にある母の生家に疎開したころ、未だ電気が来てなくて石油ランプの生活でした。一晩燃やすとガラス製のホヤが曇ってしまうので、それを布切れで掃除するのは子どもの仕事でした。私も、「手が小さいから丁度良い」とおだてられて毎日掃除させられました。ほんとうに懐かしい思い出です。
夏場の悩みは、虫さされ。窓を開けて寝ると、「蚊」が部屋に入ってきます。そこで、目の細かい網で作った蚊帳(かや)を部屋に吊るして、その中で寝ました。これで寝苦しい夏も窓を開けて眠れました。今では、殺虫剤が普及し、蚊そのものが見られなくなりましたし、蚊帳を見かけることもなくなってしまいました。
その頃の田舎は、鼠(ネズミ)の天国で、農家の母の生家も藁ぶき屋根の母屋に住んでいたので、夜中はネズミが走りまわっていました。そのために、三毛猫を飼っていたのですが、ネズミ産式に増える鼠は(人間の大切な食糧を食べたり、ウイルスを持ち込んだりする)の厄介な動物でした。そこで考え出されたのが「ネズミ捕り器」。中に食べ物を吊るしておき、ネズミがそれに触れると、扉が閉まる仕掛けです。そのネズミを始末するのも私の仕事でした。一晩に2匹も3匹も捕れたこともあり、金網製の「ネズミ捕り器」を田圃の溝に入れて溺死させたりしました。今は、ネズミそのものを見ることがなくなりました。
洗濯板と盥(たらい):電気洗濯機を使えるようになるまで、洗濯は時間のかかる家事でした。特に、水の冷たい冬には、つらい仕事でした。タライ(盥)に水を貯め、何本もの溝を彫った板に洗濯物を擦りつけて汚れを落としました。
バリカン:バリカンは、男の子の髪の毛を短く切るのに使う道具で、その頃は、男の子は皆、短く切り揃える「丸刈り」でした。我が家では、父が切ってくれたのですが、バリカンが良く切れなくて、髪の毛が挟まり痛い思いをさせられました。
白黒テレビ・カラーテレビ:日本で最初に作られた白黒テレビが発売されたのは、昭和8年(1953)。プロレスが大人気でした。また、家庭にカラーテレビが普及したのは、昭和39年(1964)に開催された東京オリンピックがきっかけだったそうです。
足踏み式ミシン:踏み板を足で前後に踏むと、右側に付いている「ふり輪」が回ってベルトで上の本体に動力を伝え、左はじのはりが上下します。手縫いよりずっと早く縫えました。昭和30年ごろ、我が家は郡山市から福島市に転居しました。私は福島市にある普通高校に通っていました。母は家計の助けのためにこの足踏み式ミシンを買って、ナシ(梨)の果実[「ナシ」は「無し」に通じるからと、地元では「アリノミ(有の実)」と呼んでいました]に被せる袋縫いの内職をしていました。購入したミシン代が稼げたかどうか?、洋裁の仕事もないので、その後、使われないままになりました。
フィルム式カメラ:この頃、カメラが普及して、写真館に行かなくても、家庭で写真を撮れるようになりました。今のように「デジタル式」のカメラではなくて、フィルムを使ったものでした。だから、写真店デフィルムを現像・焼き付けして貰わないと写真を見ることができません。私が、自分専用のフィルム式カメラを購入したのは、昭和35年ごろで、高級機の普及機で「キャノン・ポピュレール」というものです。当時の給料1カ月分ほどしたと思います。良く決心したと思います。そのカメラで撮った写真は何故かほちんど残っていません。