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「非己」という考え方

2011-09-12 04:31:14 | 日記
「問い」から始まる仏教 南直哉:著 を読んでおります。うむ、面白い。考え方の根っこに据えるに足るボリュームを感じる。「事実認識」までしたらいいんであって、「真理であって欲しい」とかいう、「正しいもの」として肯定ありきのところに立たないでモノを考える材料として、「非己」はいいカモ。

「謎」は「謎」のまま、とらえること。
これがこわくなっちゃうんだよな、人ってものは。怖いし。
強引に「分かるもの」にすり替えちゃうからいけない。こういう弱さもある。すがったり、信じきっちゃう、という突破も、雑なのだ。「謎」は「謎」と捉える視線も、「あきらめ」が効いてて、実にいい。

自分以外の圧倒的諸々、との対面(非己の大津波)で、自己という輪郭がくっきり仕上がる。やっと「自分」が分かる、というか、「存在」がハッキリする。

師は書いています「『非己』との関係は、常に『非己』の優位において開かれる」「当惑する側より、当惑させる側の方が優位なのだ」。
うん、応じ方で「自分」がはっきりする。無視しようが、反応しようが、相手ではなく、自分が分かる。
ふおお、まだよく解らんが、なんとなく感激したので書いておきます。ふああ。


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