この季節のお風呂は格別。ご飯食べてお風呂はいると、はよ布団に入らねば!と黄金律のような心地良さ。体の芯までポカポカすると、頭の方もボウとしてきて、明日から頑張るかんね、とか思える余白ができる。あったかいって大事。秋を過ぎるとそう思います。ふぅ
天災がけっこうボリューミィに続く昨今、川の氾濫、のり面の崩壊、泥水の床上浸水、車の流出などが多いです。
昔から使っていたものでも、新しくしつらえた家屋や車体であっても、「天災に遭えばパー」なままでした。義援金やボランティアこそあれ、復旧復興というものは「マイナスからまず0へ」たどり着くまでにへとへとになってしまうものでした。
こんだけ日々「買いそろえてきたもの」が一斉に「ゴミ」と化すことを、静かな怒りを忍ばせて多くの人が怒ってる気がします。買っても、買っても、ゴミになっちゃうものが山積してる映像を、何度もみかけたのです。家具も、畳も、車も、家も「処分」からはじまるのでした。じゃあいっそ、買いそろえてなんかおかなけりゃよかった、くらいに思う人もおおいんじゃないでしょうか。
テレビもメディアも「買っちゃえ買っちゃえ」と無邪気に喧伝しております。ある意味無感情な正直さに辟易も覚えます。ローンが残ってよーが、断水停電してよーが、「いつも通りに」買いなさい、買いなさいってやってます。そーゆーのが「経済」なんでしょうかね。
天災であろうと「できれば出社しなさい」ですし、電車が止まってよーが、食事が携帯食になろーが、「いつもどおり」が静かーに強要されます。若い人は渋谷でハロウィンですが、年配者は屋根のブルーシートを張っていました。
溜息出ちゃいます。いやんなっちゃいます。くたびれちゃいます。逃げ出す先さえあれば、逃げ出したいです。
多分「いつも通り」の延長では、ろくでもない先しかなさそうです。上述のすべての根底に「経済」の影が大きく影を落としてます。「買わない生き方」「持たない生き方」という軽装の方が、生きやすくなっていくかもしれませんね。生きやすいっていうのも変ですけどね。
五味太郎先生は著書「絵本を作る」冒頭でいいました。
「楽しくやるってことは、楽にやるということさ。生まれつき得意なことをやるのが楽なので、それが楽しいということね。
「楽」と「楽しい」をいっしょの字で表した最初のやつは偉いね。わかってるね」ですって。粋ですよ先生。
楽しく生きたいのです。人生100年時代なんですもの。ええ。
昔から使っていたものでも、新しくしつらえた家屋や車体であっても、「天災に遭えばパー」なままでした。義援金やボランティアこそあれ、復旧復興というものは「マイナスからまず0へ」たどり着くまでにへとへとになってしまうものでした。
こんだけ日々「買いそろえてきたもの」が一斉に「ゴミ」と化すことを、静かな怒りを忍ばせて多くの人が怒ってる気がします。買っても、買っても、ゴミになっちゃうものが山積してる映像を、何度もみかけたのです。家具も、畳も、車も、家も「処分」からはじまるのでした。じゃあいっそ、買いそろえてなんかおかなけりゃよかった、くらいに思う人もおおいんじゃないでしょうか。
テレビもメディアも「買っちゃえ買っちゃえ」と無邪気に喧伝しております。ある意味無感情な正直さに辟易も覚えます。ローンが残ってよーが、断水停電してよーが、「いつも通りに」買いなさい、買いなさいってやってます。そーゆーのが「経済」なんでしょうかね。
天災であろうと「できれば出社しなさい」ですし、電車が止まってよーが、食事が携帯食になろーが、「いつもどおり」が静かーに強要されます。若い人は渋谷でハロウィンですが、年配者は屋根のブルーシートを張っていました。
溜息出ちゃいます。いやんなっちゃいます。くたびれちゃいます。逃げ出す先さえあれば、逃げ出したいです。
多分「いつも通り」の延長では、ろくでもない先しかなさそうです。上述のすべての根底に「経済」の影が大きく影を落としてます。「買わない生き方」「持たない生き方」という軽装の方が、生きやすくなっていくかもしれませんね。生きやすいっていうのも変ですけどね。
五味太郎先生は著書「絵本を作る」冒頭でいいました。
「楽しくやるってことは、楽にやるということさ。生まれつき得意なことをやるのが楽なので、それが楽しいということね。
「楽」と「楽しい」をいっしょの字で表した最初のやつは偉いね。わかってるね」ですって。粋ですよ先生。
楽しく生きたいのです。人生100年時代なんですもの。ええ。