HITO-OMOI(ひとおもい)

ひとを、ひととき、ひとへに想ふ短歌がメインのブログです。作歌歴約二十年、かつては相聞(恋歌)、現在は専ら雜詠です。

5116-5122首目・・・道南(松前・江差・函館)行(その3)

2024-08-26 00:00:00 | 日記

(元町公園からの眺め)
箱舘戦争の゙足跡をいくつか辿る旅。

③函館

「侍の命尽きぬるも函館の顔役なるぞ榎本武揚(新作)」





(五稜郭跡、箱舘奉行所、五稜郭タワー)


「関門は亀田と箱館土方の生死(しょうじ)も分かちし一本木とぞ(新作)」

(一本木関門跡、函館市若松町)

(土方歳三最期之地碑)


「幕末の技術官僚(テクノクラート)三郎助覚悟の最期いといと惜しや(新作)」

(千代ケ岱陣屋跡)


(中島三郎助父子最後之地碑、函館市中島町)



「碧玉となりし御霊をはばかりて弔ふ碑(いしぶみ)されど高々(新作)」


(碧血碑、函館市谷地頭町)
(明治辰己実有此事

立石山上以表厥志)



「寺町の坂を息つき登りけり傷心惨目(しょうしんざんもく)の碑を拝まんとして(新作)」

(高龍寺、函館市船見町)

(傷心惨目碑)


「函館の山はひとつの闇となり街の灯りのあたたかきかな(新作)」








「函館の坂は港とともにあり撮るも下るも上りしのちぞ(新作)」

(旧函館区公会堂)
(バルコニーから)
(基坂)




戊辰戦争の終局としての箱館戦争を辿ってみたが、道南のさいごの武士たちの様々な生き様は興味が尽きない。再訪できれば、いいなぁ。

(060626-28)

(おわり)

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5110-5115首目・・・道南(松前・江差・函館)行 (その2)

2024-08-24 00:00:00 | 日記

(開陽丸)

箱舘戦争の゙足跡をいくつか辿る旅。

②江差
「松前や江差に向かふ鉄路なきキハの役目はながまれとかや(新作)」

ながまれ(道南の方言)=のんびりして

「バスで行かん江差松前消え失せしレールのルートをスマホで追ひつ(新作)」






「人と船山の国より追分を伝へ運びて蝦夷地に至りぬ(新作)」
(江差追分会館)
(江差山車会館)


「鰊漁守護せし姥神大神宮江差湊を見下ろし御座す(新作)」


(姥神大神宮)

「新たなる国興さんと蝦夷地をば榎本海軍ひた目指したり(新作)」


(軍議中の榎本武揚(右端))





「座礁せし開陽まじまじ土方は涙零しつ拳振るひぬ(新作)」(旧檜山爾志郡役所)

(バルコニーから)
(土方歳三嘆きの松)

(060626-28)

(つづく)

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5104-5109首目・・・道南(松前・江差・函館)行(その1)

2024-08-22 00:00:00 | 日記

(松前城三層天守、本丸御門)


箱舘戦争の゙足跡をいくつか辿る旅。

①松前
「無高ゆえ湊の交易沖の口番所で粛々行なはれけむ(新作)」


(沖之口番所跡、松前奉行所、松前藩屋敷)


「許されて台地に築きし福山城最北最後の城郭となる(新作)」

「総督の土方攻め込む陸と海たちまち落ちぬ福山の城(新作)」

「国宝に定めらるれどあな惜しや三層天守焼失せしとや(新作)」




「榎本が海軍来たりし海峡に大筒放つもすべなく落ちぬ(新作)」


「法華寺の石段登り旧幕軍慰霊碑詣で我が名を記す(新作)」


(法華寺)

(060626-28)

(つづく)

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5103首目・・・記号ひとつ

2024-08-20 00:00:00 | 日記

今夏の選手権大会のベンチにも「女子」の姿が見られるようだ。私の住む地の代表校もそうだった。

但し、ベンチに座るいわゆる「女子マネージャー」は、規則では「記録員」、すなわちスコアラーという位置づけだ。

とはいえ、平成8年(1996年)までは、記録員はベンチ入りが認められなかった。その解禁とともに女子マネの姿を見かけることになった。


中にはスコアは付けずに(付けられずに?)マネージャーに徹しているチームもあるやもしれぬ。(その場合は、従来どおりリザーブや部長先生(責任教師)がスコアを付けているんだろう。)

また、リザーブにもなれなかった部員(ムードメーカーの如き)を充てているチームもいよう。それも一つの考え方だ。(但しユニフォームは着用できない。)

一方、性別に拘らずワンチームとして汗を流してきた仲間である女子マネージャーを晴れの舞台に立たせるのも、ステキな表現だと思う。


さて記録員は、事前登録が必須の20人の選手と異なり、試合ごとに入れ替えても構わないようである。これで、(勝たないといけないが)複数の女子マネがベンチ入りできる可能性が産まれる。(頭の硬そうな高野連にしては、(巧まざる結果であるにしても)粋な配慮といえまいか。)


何だかんだ言っても、男子校で六年過ごした身にとっては、球児たちと並んで整列してる女子マネの姿を見ると、

『こいつら青春してるよなぁ。』

とひしひし感じてしまうのだった。


「記号ひとつ書き込む時間遅るるも感極まれりベンチのA子(新作)」

不尽


追記

例の大社VS早実の試合は、たまたまピンズドで9回裏から見てしまった。妙な感想だが、「(この試合を見られて)生きてて得をしたな」。

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5087首目・・連敗は「9」で終止符。

2024-08-04 00:00:00 | 日記

連敗が止まったと嬉しがるのも、何だかなぁ、、。

いくらなんでも、ここまでは想定外。CS進出、黄色信号。


4連敗目のG戦を現地観戦したが、スコア(1−2)以上に感じた地力の差。




まぁ、(2度となかろう)ヤスアキの先発とフォードの初安打初HRを見れたのが記念。




たまたまなのだが、ホテルの部屋は特等席クラス。(笑)





「酔ふほどの宴にあらずぷっつりとバックスクリーンの灯は消えぬ(新作)」

(060727)

不尽

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5084.5085首目・・・中河与一『天の夕顔』を読む

2024-08-01 00:00:00 | 日記

北海道旅行の『はやぶさ』車中で読もうと求めた文庫本は、『天の夕顔』(昭和13年)。


年上の女のエゴイズムに半生を棒に振った男の愚行とも言うべき恋愛譚。いや、恋愛は当事者以外にして見れば、ある意味愚行やに知れぬ。


ストイックな関係を際立たせる為に手紙が効果的に使われている。愛し合う事が最終目標なのに、その途中経過である相手を思うこと自体が肥大化し、目的化してしまっている。いやいや、それがプラトニックというものか。


山に籠って研ぎ澄まされていく感覚の中で女を思い詰め、自己語りで女を『神格化するに至る」と書く。病膏肓というのは簡単だが、いやいやいや、ちょっぴり頷いてしまう。


一方、女は、人生そのものも、エゴイステックに閉じてしまう。女を思慕しながら鎮魂するラストは夕顔の花言葉を暗示し、甘いと言われようがそこそこ決まっている。


現代にはありえない純愛ものの新鮮さで、読みつがれていく作物なのだろう。でも、再読するかなぁ、、ちと微妙だ。(汗)


作者中河与一(1897-1994)は、文壇上は、康成、利一らの新感覚派に分類される。長命で文筆生活も長いが、現在は天の夕顔の一発屋っぽい扱いか。

新潮の本書以外で著作が読める文庫は、一冊のみ。残念だが、その文庫本の収録作はあまり私にはフィットしなかった。




「開けずとも答(いら)へ知らるる汝の手紙鋏は尖(さ)きが一番冷たし(新作)」


「書き癖を教へ遣れども二言で足る言の葉後回しかな(新作)」

不尽

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5079首目・・・幾人か

2024-07-20 00:00:00 | 日記

2023前半戦83試合43勝38敗2引 首位3差

2024同時点83試合43勝39敗1引 首位1差

何と!CSに出られるかもしれないというシーズン当初にはおよそ想定外の事態!。


この時点で昨年は今永・バウアー二人で12勝。今年はジャクソンとケイ、そして石田裕太郎の新加入三人で12勝。と穴埋め。

そして、打では、やはり蒼彗天(オースチン)。


てなわけで、今シーズンは勝敗関係なく純粋に試合を楽しめると安心していたのに、、。

勝ち負けが気がかりでどうもくつろがない。(笑)

まぁ、優勝の心配はしていない。巨人だと予想してる。


でも、最低2試合余計に楽しめるから、ここまで粘ってるなら3位でいいからCSに行ってほしいものだ。

筒香がHRをスタンドに放り込んでCS進出を決めることを夢みているのだが、、。




それにしても、新戦力の選手たち(外野手三人と石田裕太郎)のプレーは清々しくていいものだ。


「幾人(いくたり)か新しき星現れて一等星を目指し戦ふ(新作)」

不尽

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5076首目・・甲子園100周年

2024-07-14 00:00:00 | 日記

甲子園球場誕生100周年に因むNHKの特番を視聴。

中でも名場面投票結果は興味深かった。まぁ、今どきこんな投票するのは、30代以上か、野球小僧だけとは思うが。



「1961年第43回夏の報徳学園対倉敷工」とか「1958年第40回夏の坂東・村椿」などが漏れてるのは時代の変遷だなぁ。

このうち、第54位に関することは、

にこのブログで以前書いたことがある。

渋いと感じたのは、第50位。実は、リアルタイム視聴の記憶がある最古が、この試合だ。白黒テレビかけ流していただけなのだが、本盗の場面は確かに記憶している。(最も当時は野球のルールも分かってはいなかったが。)そんなに有名な試合であったか、と。

一方、「1989年第61回春決勝の上宮のサヨナラエラー」とか「1998年第80回夏の宇部商の延長15回サヨナラボーク」とかは、どうなんだろう。(公開されてないけど81〜100位には入ってると思う、、。)

も少し言えば、9回の悪夢的な「1988年第60回春の中京」や「1976年第48回春の鉾田一」も私は忘れられない試合だ。

やはりノックダウン方式の甲子園では、敗者に目が行ってしまうものなのかも知れぬ。



「人前で泣くこと憚られし頃尠(すくな)き例外として甲子園(新作)」

不尽

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5065-67首目・・・鶴ヶ城登城

2024-06-26 00:00:00 | 日記

近々、函館戦争の跡を辿るために渡道するので、前哨戦?で、またまた会津若松へ。


「降伏をなしし日付は我が生れし月日と知らず天守に登る(新作)」


旧暦(慶応四年九月二十二日)ではあるが、迂闊にもやっと気付いた次第。


「飯盛で若き生命が散れどなほ籠る一月戦ひ了(をは)んぬ(新作)」


(天守から臨む飯盛山)



「白露はやがて消ゆれど泣血氈(きゅうけつせん)会津が血涙染むをな忘れそ(新作)」


(錦絵『会津藩降伏図』) 




(白露庭(降伏式の場所、家老内藤介右衛門邸))



やはり『會津壹番館』に足が向く。何度訪れても心が安らぐ純喫茶。

(060524)

不尽

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5045-5048首目・・・遊佐(吹浦)行

2024-05-23 00:00:00 | 日記

(鳥海山)


「火の山を鎮めんとするお社も里の宮にて一入(ひとしお)穏(おだ)し(新作)」



(鳥海山大物忌神社吹浦口之宮)


「鳥海が産みし岩々荒々し刻みし願ひも一方(ひとかた)ならず(新作)」




(十六羅漢岩)


「湧水が宿せる力人々の顔(かんばせ)輝く牛渡川(新作)」




(牛渡川)

「光受け色移ろひぬ丸池様心変はりを諫めるべきや(新作)」



(丸池様)




(出羽二見)

日本▲大車窓などと呼ばれてはいないようだが、南鳥海−遊佐−吹浦間の鳥海山の眺めは、上位にランクインするのではないだろうか。

(060504)

不尽

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5038-5040首目・・・横須賀行(その3)

2024-05-13 00:00:00 | 日記

(猿島(横須賀平和中央公園より))


観音崎まで行けば日本武尊伝説の走水神社に行くべきなのだが、、結局スルー。

そして、神話から下世話に流れる。横須賀平和中央公園、、「これっきり坂」を目指す。


「これっきり坂を下ればその言葉もはや縋らぬ捨て鉢乙女(新作)」



『横須賀ストーリー』、、。これっきり坂はもちろん俗称。作詞家はこの坂をイメージしたらしいが、歌手は別の坂をイメージしていたとの言説もある。いや、これは現代の神話かもしれぬ。

俗称なので、案内板などはない。公園への入口を間違って、これっきり坂を下る羽目になった。で、詠んだ歌。



坂を下れば直ぐに京急の横須賀中央駅。ホームの駅メロは当然『横須賀ストーリー』だ。

ここまで来れば行かねばなるまい追浜駅。「DOCK OF BAYSTARS YOKOSUKA」、ファーム練習場がある。


「幾たりの若者漕ぎ出す大海ぞ上りてセ界の星と輝け(新作)」

セ界=セントラルリーグ






(追浜駅には入寮している選手の色紙が勢揃いのコーナーが!頑張れ入江!森!)

当日は鎌ケ谷でファイターズとイースタンリーグの試合。一人の選手の姿もみかけなかった。


ここまで来れば、チケットも持たないのに、これまた行かねばなるまい。ハマスタよ。(汗)


「見上ぐるは克樹と秀悟のデカパネル気持ち晴れ晴れ勝利を希ふ(新作)」




結果は12回ドロー試合であった。

(060423)

(おわり)

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5035-5037首目・・・横須賀行(その2)

2024-05-11 00:00:00 | 日記

(浦賀の渡し)


「海防とて台場を築きし役負ひし彼等はかつて海を見たるか(新作)」




(腰越墓地)

開港後の海の備えである台場建築の命を受けたのは(海なしの)会津藩。観音崎の腰越地区には、会津藩士の墓が点在している。会津贔屓なので深く頭を垂れる。


「曇厚く富津は見えじ打沈め線とふ幕府の悲痛なる夢(新作)」


(観音崎灯台)

江戸幕府は、観音崎・富津を結ぶラインを「打沈め線」と定め、外国船の侵入を許さないこととした。


「とりどりの色に塗らるるコンテナを抱ふる船が行き交う水道(新作)」


海上交通の要衝であることは、短時間しか居なくても実感してしまう

(060423)

つづく

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5032-5034首目・・・横須賀行(その1)

2024-05-09 00:00:00 | 日記

(浦賀湾(愛宕山公園より))


江戸幕府の海軍について読書中、、横須賀へ。


「偉人とは呼ぶまじ伯理(ペリー)嗚呼されど最初に出て来る西洋人とぞ(新作)」


(ペリー上陸記念碑(ペリー記念公園内))


(ペリー胸像(ペリー記念公園内))

ましてや恩人でもあるまい。されど重要人物であることは間違いない。


「洋々と出でて帰りぬ咸臨も経りては薩長拿捕をしたりぬ(新作)」





(咸臨丸出港碑(愛宕山公園内))

碑裏には乗船員の名が刻されている。当然、万次郎、諭吉の名も。

ヤーパン号(咸臨丸)の一生はその後も波乱に富んでいる。物言わぬ維新史だ。


「海護り船を造りて軍興し北に下りて散らしし命(新作)」


(中島三郎助招魂碑(愛宕山公園内))

中島もかなりのキーパーソン。篆額は盟友榎本武揚とのこと。

(060423)

つづく

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【番外】復帰戦で逆転V3ラン筒香

2024-05-07 00:00:00 | 日記

「打たずとも構わぬ非礼を詫びるのみ帰朝報告柵越え225(新作)」



唸るほかない。明日は、ハマスタにGO!だ。

不尽

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5028首目・・・葉山嘉樹を読む

2024-04-29 00:00:00 | 日記
全集(筑摩書房1975年版)で、葉山嘉樹(1899年(明治33年)生、1945年(昭和20年)没)の全小説と8割方の随筆を読む。

プロレタリア文学における葉山は、非共産系の労農派。機関誌の名から文戦派、描く対象から素材派とも呼ばれる。

プロ文者には、「生活と芸術」の問題に思想が関わってくる。いわゆる「転向」問題だ。

葉山も、1930年代初頭以来の思想弾圧により、東京における文筆生活に見切りをつける。東濃地方に居を移し、ゆるやか(?)に「転向」し、半農半作家生活に入る。

葉山の作家活動は約20年。前半の10年がプロ文、昭和9年以降の後半10年余が民衆文学、農民文学となる。

プロ文時代は「海に生く人々」・「淫売婦」・「セメント樽の中の手紙」が鉄板のベスト3。

「海に生くる人々」の感想は、以前(4966首目)に書いたとおり。「淫売婦」は、一見陰惨な話しに思えるが、哀感あふれる傑作。「セメント樽の中の手紙」はトリッキーに過ぎるかな。(昭和50年代に高校の国語教科書に掲載されていたのに驚き!)

葉山の後半生の暮らしは概して楽ではなかった。ただ、作物の内容は、私小説家にあるような貧乏自慢ではなく、自虐的ではない。

そして、転向したとはいえ、世捨て人ではなく、声なき者に対する共感や優しい眼差しを決して失ってはいない。加えて子供を書いた作物がとても情愛に溢れていて心に沁みる。

転向以降で、丸印をつけた作物は、「万福追想」・「水路」・「濁流」・「氷雨」・「流旅の人々(長編)」・「凡父子」・「子を護る」・「多産系子孫分布図」・「海に行く」、などだ。

そんな葉山も戦況の深まりにつれ、知らず軍国主義に絡め取られてしまう。昭和15年あたりからの小説、随筆における変貌ぶりを、非難することは容易いが、むしろ痛々しく感じてしまう。

そして、昭和19年には国策としての満州開拓団に志願。昭和20年に再び渡満。終戦後の満州からの引上げ列車の中で客死してしまう。(享年数え52歳)

「馬鹿にはされるが 真実を語るものがもっと多くなるといい」とは葉山がよく口にしていた言葉である。

読み終えて、葉山嘉樹はいろんな意味で純粋な人だなぁというのが端的な感想だ。


「踏み出して気づく歩幅の違ひあり咎めり責めり赦し労(いたわ)る(新作)」

不尽


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