いするぎ便り

歴史を求めて季節を感じて…
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火牛の計 <地元武将の活躍>

2012-07-20 | 旅行

28日(土)に開催される義仲・火牛の計レースのモチーフとなったのは「源平盛衰記」にある奇襲「火牛の計」です。

 

「闇を合はせよとて、 四五百頭の牛の角に松明を燃して、平家の陣へ追ひ入れ・・・

前後四万余騎が闇、山も崩れ、岩も摧くらんと夥し。道は狭し、山は高し、われ先、われ先と進む。

兵は多し、馬・人共に圧し押されて、矢をはげ、弓を引くに及ばず、打物は鞘をはづし兼ねたり。追手は搦手に押し合はせんと攻め上る。

搦手は追手と一つにならんと喚き叫ぶ。平家は両方の中に取籠められたり。・・・

ここに不思議ぞありける。白装束したる人三十騎ばかり、南黒坂の谷へ向って、

「落せ殿原。あやまちすな、あやまちすな」とて、深谷へこそ打入りけれ。」

 平家これを見て五百余騎続いて落したりければ、後陣の大勢これを見て、落足がよければこそ、先陣も引き返さざるらめとて 劣らじ、劣

らじと、 父落せば子も落す、主落せば郎等も落す。馬には人、人には馬、上が上に馳せ重なって、平家一万八千余騎、十余丈の倶利伽

羅谷をぞ馳せ埋みける。 適々谷を盾るる者は兵仗を免れず。兵仗を盾るる者は皆深谷へこそ落ち入りけれ。

前に落す者は今落す者に踏み殺され、今落す者は後に落す者に押し殺さる。

か様にしては死にけれども 大勢に傾き立ちぬる習ひにて、敵と組んで死なんという者は一人もなし。・・・」

 

 

凄惨なくだりの中に、白装束の人影が谷へ向って行くのを見た平家が抜け道があると勘違いし、次々に谷底に落ちていくことになったとの記述があります。(青色部分

これは、合戦の前日、義仲が戦勝を祈願し「戦いを起すのは国のため」としたためた願文を奉納した、埴生八幡宮の八幡大菩薩の導きだったのではと伝えられています。

こちらもご覧下さい。→埴生護国八幡宮 <義仲が戦勝祈願した大社>  巴御前・葵<義仲と共に戦った女武将>

 

地獄谷方面

谷底には、平家軍の死体の膿で埋まったことから膿川と名前を変えた川が流れています。


 

 「源平盛衰記」には義仲とともに倶利伽羅合戦に参戦した地元の部将「蟹谷次郎・水巻四郎」の名前があります。

 

「一手は根井小弥太を大将として、二千余騎、越中国の住人蟹谷次郎を案内者に付けられて、鷲島を打廻り、松永の西のはづれ、小耳入を透って鷲尾へ打上がり、弥勒山を引き廻す。

一手は信濃国住人、余田次郎・円子小中太・諏訪三郎・小林次郎・小室太郎忠兼・同小太郎真光を大将にて三千余騎、越中国の住人宮崎太郎・向田荒次郎兄弟二人を案内者にて、安楽寺を通り、金峯坂を打上り、北黒坂を引廻し、倶梨伽羅の峠の西のはづれ、葎原へ差遣はす。

一手は巴女を大将にて一千余騎、越中国の住人水巻四郎・同小太郎を案内者にて、鷲岳の下へ差向けけり。この巴といふ女は、木曾中三権頭が娘なり。心も剛に力も強し。弓矢取つても、打物取つても、すくやかなり。荒馬乗りの上手・・・」

『源平盛衰記』巻第二十九

 

地元武将らの道先案内人により義仲は大勝を収めます。

 

これを題材にした小矢部市民が制作した自主映画

「蟹谷次郎物語」

「水巻四郎物語~巴御前と火牛の計~」(特別出演:桜井小矢部市長)

「メルヘン玉手箱」のHPから視聴することができます。

ぜひご覧下さい。

メルヘン玉手箱HP

 こちらもどうぞ→「巴御前と火牛の計~水巻四郎物語~」上映会

 

「蟹谷次郎」碑 


義仲と北陸武将たち

2012-07-13 | 日記

 木曽義仲が信濃の木曽谷で源氏再興の旗を挙げたのは治承4年(1180)6月。
翌年、養和元年(1181)には「横田河原の合戦」で平家から義仲追討を命ぜられた越後の城長茂(越後平氏)の大軍を破り勝利を収めます。
その後、義仲は越後の国府に入り平家追討の兵を募り、平家に不満を持っていた越中の豪族、宮崎太郎、石黒光弘、加賀の林光家らが集結しました。

当時の越中の荘園の多くが、奈良の東大寺・西大寺・興福寺や、岩清水八幡宮のような反平家方の社寺の荘園が多かったことなどから、士豪もまたこれらの荘園の下司職(荘園の下役人)などに任じられていたので、おのずから反平家色を帯びていたものと思われる。 <小矢部市史(旧) 上巻 小矢部市より>

一方、都では治承5年(養和元年・1181)に京都・近畿地方で異常気象から大飢饉となり、さらに翌養和2年には疫病が発生。

こちらもご覧下さい。→源平倶利伽羅合戦古戦場跡<義仲勝利の秘策 火牛の計>

 

北陸には平家の知行国が多く、飢餓に苦しむ平家には兵糧米確保の点からも北陸道で起こった義仲の反乱は脅威だったに違いありません。 

寿永2年4月、義仲・頼朝討伐の為約十万余騎の平家軍が集められ京都を出発。

まず燧ヶ城の戦い(越前)において北陸諸将を破ります。
 

ここにおいてか、北陸の郷土のうち、越中では野尻・河上・石黒・宮崎・向田らの諸士は「今や平軍は加賀に迫ったが、義仲はまだ越後の国府にある。われわれはまず平軍を衝いて後に義仲の軍に投ずべきか、はたまた直ちに越後に走ってその麾下にはいるべきか。」と軍議した。甲論乙駁の末、砺波郡石黒郷(福光町)の郷士、石黒太郎光弘の意見が大勢を決した。すなわち、「およそ士道とは、義に進み節に死するもの、敵を目前にし刃に血ぬらずは、畏縮したるに外ならず、奮戦して後に越後に赴かん」と。

5月2日、石黒・宮崎勢が先鋒となって五百人余人が加賀に入り、篠原・安宅で防戦したが、衆寡敵せず敗れた。
<小矢部市史(旧) 上巻 小矢部市より>

さらに5月8日、般若野の戦いにおいて、加賀から越中に進軍しようとする平盛俊軍を、今井兼平軍(源氏軍)が夜襲をかけ、退けます。

そして戦いは、「火牛の計」で名高い倶利伽羅合戦に・・・

ここにおいてか、義仲は一軍を叔父の行家に託して志雄路へ向かわせ、自らは主力を持って砺波山方面の平軍を攻撃するに決し、般若野に転進して今井隊と合した。

義仲は諸将を御河端に集め作戦計画を樹てた。すなわち「敵は我に倍する兵力を有している。この優勢なる敵が、一たび倶利伽羅の険を越えて砺波の平地に出れば、劣勢なわが軍にとって極めて不利である。故に敵に先じて倶利伽羅の隘路を占領、敵を山中に急襲して必勝を期せん。幸い土着の士が多く、地理に精通している。宜しくわが軍のために深謀せよ。」と命じた。

このとき、越中の宮崎太郎が進み出て、「砺波山には南・北・中の三道がある。平軍が中黒坂の猿ヶ馬場付近を占領するのみならば、三道より分進し、これを包囲して山地で奇襲を加えれば、勝利は必然である。」と申し出た。

<小矢部市史(旧) 上巻 小矢部市より>

倶利伽羅の勝利は、地の利を生かした当然の結果だったのでしょう。

義仲軍は、挙兵後に加わった信濃武士、北陸の反平家の武士、白山宮の神人・僧兵による「兵僧連合」であるといわれています。

組織としては未熟な集団であるとする見方もありますが

やはり義仲にはロマンがあります。

 


2012 源平火牛まつり 

2012-07-13 | 日記

2012 源平火牛まつり 7月28日(土)・29日(日) 開催

 

今年は小矢部市制施行50周年ということで土・日の開催です

 

義仲・火牛の計レース 28日(土)PM3:00~」はもちろん 郷土芸能、太鼓、よさこい等のアトラクションや屋台村も出現!

29日(日)には「祝・歓喜の宴(芸能・まち流し)AM11:00~」も行われます。

 

詳しい情報はこちら→小矢部市観光協会HP

 

去年の火牛レース

豪快なレースです

角に松明をつけた藁製の牛(約580キロ)をひっぱって進み、ヤリで矢盾をつき、的に当てたらゴールとなります。

 

小矢部市商工会女性部では今年も、東北支援グッズを販売。(28日のみ)

カラオケ大会(29日)、輪踊りまち流し(29日)に出演します。

ただいま、マル秘特訓中 当日 お楽しみに