いするぎ便り

歴史を求めて季節を感じて…
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源平倶利伽羅合戦古戦場跡<義仲勝利の秘策 火牛の計>

2011-07-15 | 旅行

寿永2年(1183)木曽で挙兵した源義仲は、勢力を北陸へと広め、平家は全国から十万の兵を集め平維盛を総大将に義仲討伐の軍を挙兵しました。平家十万の兵の中には、朝廷の兵も含まれており、朝廷からは道中の村々での「兵糧徴発」(朝廷が公認した略奪行為です)が認められていたそうです。この2年前(養和元年・1181)には「養和の大飢饉」が発生し、また翌年には疫病が蔓延しており京は死骸の山で馬や車も通れないと「方丈記」に記載されています。飢餓からなんとか生き延びた人々にとって略奪はどれだけ残酷なことであったでしょうか。
義仲が倶利伽羅合戦の前に埴生八幡宮に奉納した願書(県指定文化財)には「今、戦を起こすのは、一身 一家のためではなく、国民を救うためであります。」と記述されています。

平家本陣跡(猿ヶ馬場)
平維盛の本陣跡。軍議を練ったとされる軍議石があります。

「来る決戦に備え平家の軍は倶利伽羅(礪波山)猿ヶ馬場で眠りについていた。義仲の軍は、平家に反旗をひるがえした北陸の武士を味方につけ彼らの道案内で三方を囲みその時を待っていた。夜が更けたころ義仲は角に松明をつけた牛五百頭を放った。暴れ狂う牛に驚いた平家軍はただ逃げまどい、唯一人気のない方にわれ先になだれこんだ。だがそこは、断崖絶壁の倶利伽羅谷であった。平家軍一万八千余りが次々と谷底へ落ち、平維盛らは命かながら加賀へ逃げ延びた。」

以上が倶利伽羅合戦の概要です。

「火牛の計」のくだりは「平家物語」には記されておらず「源平盛衰記」にあるのみでその真意はわかりませんが地獄谷を見下ろしていると800年の間、鎮魂と供養のために語り継がれてきたのだと思えてきます。

地獄谷
その谷底には、平家軍の死体の膿で埋まったことから膿川と名前を変えた川が流れているそうです。 

源平供養塔
ちょうど近くの倶利伽羅不動寺から半鐘の音が聞こえてきました。

 


2011 源平火牛まつり開催

2011-07-15 | 旅行

7月22日(金)前夜祭 PM 6:30~ 7月23日(土) PM 3:00~ に「源平火牛まつり」が開催されます。

石動商店街通りに屋台村、フリーマーケット(23日のみ)。商工会館前のステージでは、太鼓、小矢部市吹奏楽団(22日のみ)、まち流し(23日のみ)などのパーフォーマンスを予定しています。

23日(土)  恒例「火牛の計レース」

 藁で作った牛(地元青年部のお手製)を台車に乗せ、四人一組で引張りタイムを競います。角に松明を付た火牛を50M轢きゴール地点に設置してある矢盾をヤリでつくことができればゴールです。ヤリがはずれたらメンバー交代。最後で逆転されることも!

場所は石動商店街通り
小人レースはPM 5:00ごろから 
大人レースはPM 7:00ごろから       開催予定です